イエ・ルポ #029 PickUp3



こんにちは、ハザマです。この頃、「イエはてな」で教えて頂いたレシピでお茶・果実酒・ジュース・ジャムづくりがすっかりマイブームになっています。ドクダミ茶にはじまり、ビワの葉茶、色々な果実やハーブのお酒、紫蘇ジュースに梅ジュース、梅ジャム…。全部私にとっては初めての挑戦!久し振りに夢中になる感覚が楽しくて!みなさんのおかげで日々の楽しいコト探しが着々とカタチになって、ワクワク度も急上昇。みなさんに感謝です!
さて、今日は“イエ・ルポ”#029のピックアップ賞のご紹介。「家族ケンカの思い出」、テーマがケンカだけに、みなさん書いて下さるかな?というのは余計な心配でした。素晴らしいルポの数々、そしてたくさんのツリーで盛り上がり、心満たされるいわしになりました。みなさま心のこもったたくさんのご投稿をありがとうございました!

イエ・ルポ #029 ピックアップ賞

#029では「あの時があったからこそ!の家族ケンカの思い出」のテーマでご投稿頂きました。
まずは今回も子供の頃の思い出、兄弟ケンカのエピソードが多かったですね!「取っ組み合いのケンカ!」「姉妹ケンカ」「子どもってケンカした直後でもくっついてる」「あなたは大きいんだから!」「テレビのチャンネル権争い」「お菓子や冷蔵庫のデザートなんかが消えて…」などのツリーがたいへんな盛り上がりでした。ほかでは、「子供の頃の夫婦喧嘩」のツリーであわや離婚騒動?!のお父さんお母さんのケンカの思い出や、ナント「相続争い!」のツリーがモリ盛。ちょっと笑えない真剣なお話もありますよね(苦笑)。「嫁・姑バトル」や「小姑とのバトルの日々」も!そして、お母様の叱咤激励が人生を変えた「入院中のこと」や、ケガして学ぶ「ケンカの興奮のあまり弟がガラスの壁にダイブ!流血の大惨事」、ここでお父さんを殴ってしまったら勝ってしまいそうだという男子ならではのエピソード「父と子の戦い?」など、じっくり読ませてくれるルポも多く、感動の書き込みがたくさんでした。
ピックアップ賞には、素晴らしい家族愛に大反響だった「受験ストレスでお煮染め爆発、家庭内大戦争」と、まさに青春ドラマ!「色々な意味で少し大人に近付いた高一の夏休みの母とのけんか」、そしておばあちゃんと深くつながった心と奇跡!「いくらケンカしても・・」を選ばせて頂きました。
今回はみなさん、ふだん話しづらいであろう家族の物語を、ありのままに語って下さって、とても心を打たれました。窓から見えるたくさんの家々でも、それぞれの家族ドラマが繰り広げられているんだなとしみじみ。ケンカするほど絆が深まる、どのイエでもそんな愛しいドラマで満たされますように!と願いつつ(^^)。


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「受験ストレスでお煮染め爆発、家庭内大戦争by id:MINT


私は中学生のころ、進路選択ですごく不安定になっていた時がありました。担任の先生が勧めてくれる進学先と自分が行きたい所とがかけ離れすぎていて、あれこれ考えているうちに、いったい自分は何を求めて受験するのかもわからなくなってしまいました。ストレスが貯まって、私は家の中でまったくしゃべらなくなりました。
家の中でも両親が私の進路についてあれこれ話しかけてきますが、私にはそれが辛く、しまいに夕食時に爆発して、お皿をひっくり返して激怒してしまいました。
もちろんそんなことをすれば親は怒ります。でもうちの親は「こら!」と怒るタイプではなく、こういう時でもいかにも冷静に「物に当たるのは良くない」とかさとすタイプなので、それがさらにしゃくにさわって、私は椅子を蹴ってひっくり返したりして、だんだん歯止めがきかなくなっていきました。
その夜のおかずに、コンニャクのお煮染めがありました。私はコンニャクを掴んで父に投げつけました。父はそれでも冷静に座ったままなので、さらに腹を立てた私は、もう一掴みコンニャクを取って、無関係な弟にも投げつけました。弟のおでこにコンニャクが当たって、お茶碗を持っていた弟の動きが止まりました。
弟がガタンと大きな音をたてて椅子から立ち上がりました。私は一瞬、殴られると思いました。弟も皿に手を突っ込んで、手の平一杯にお煮染めを握りました。ところが弟は私の方を見てにっこり笑って、気持ちはわかった、手伝うよと言って、握ったお煮染めを壁に向かって投げつけました。私はびっくりしました。弟はもう一掴みお皿からお煮染めを取って、反対側の壁にも投げつけました。
それを見た父が、よし、父さんも手伝うぞと言いながら、隣のお皿をぶちまけました。ほら、母さんも一緒にと言いながらお茶碗のご飯を握って天井に向けてばら撒き始めました。
私はあっけにとられて、このPTAが見たら抗議の電話が殺到しそうなどたばたコントのような様子を見ていました。
そして夕食がめちゃくちゃになったところで母がお茶をいれてくれて、これは熱いからひっくり返しちゃだめよと言ってお掃除を始めました。父も弟も一緒に掃除を始めました。私がひっくり返ったお皿を戻そうとすると弟が、姉ちゃんはお茶を飲んでればいいから、これからは気のすむまで暴れていいから、俺も付き合うからと言ってくれました。父も、その通りだな、人間誰でも暴れたい時はある、そういう時は一緒に暴れようと言ってくれました。
それで一気に心が晴れて、この家から通うならどんな学校でもいいやと思えるようになりました。学校よりもここの家が私に色んなことを教えてくれると思えたんだと思います。その年の暮れに大掃除をしたら、天井の蛍光灯にこびりついたご飯粒を発見しました。あの時のだと思って、すごく懐かしく感じました。ひからびたご飯粒を取って紙に包んで、受験のお守りにしました。おかげで最初に希望していた学校とはちがうところでしたが、いい高校に進学できました。


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「色々な意味で少し大人に近付いた高一の夏休みの母とのけんか」by id:TinkerBell


私は中学時代、友だちが少なく地味な三年間をすごしていましたので、高校生になったら友だちをいっぱい作って活発にすごしたいと思っていました。
無事高校生になれた最初の年の夏休み。私はクラスの女の子に誘われて、毎日のように遊びに出かけるようになっていました。友だちが増えて、望み通りの楽しい高校生活に、私はもう夢中でした。友だちの家を泊まり歩いたりもしました。私にはそれが小さなころのお泊まり会みたいで、楽しくて楽しくてしかたがなかったんです。
でも、あまりに自由奔放に過ごしすぎました。ついに髪を染めて帰宅した翌日、私は母に呼び止められました。母はやさしく、一日くらい家でゆっくり過ごしましょうと言ってくれましたが、私は、だめよ約束があるからと呼び止める母を振り切って出かけ、そのまま二晩外泊をしてしまいました。もうこの時、母が怒っているということを察していたんだと思います。家に帰りづらくなっていたんです。
三日目に家に帰って、やはり母と大げんかになりました。今思えば母は私を心配して気遣ってくれていただけだったと思います。でも私はそんな母の一言一言に反発してしまいました。
私、中学のころ、すごく寂しかったんだから。友だち少なくてすごく寂しかったんだから。それが今やっと友だちが出来たんだから。私はもう寂しくなりたくないの。みんなに合わせないと友だちなくしちゃうでしょ。髪染めるのだって、泊まり歩くのだって、みんなと仲良くするためのお付き合いなんだから。それがわからないの?
当時の私には、それが私にとっての正しいことでした。自分はぜったい間違ったことを言っていないと思っていました。そのまま家を出て、友だちと会いました。そして、まったくうちのお母さんて頭にきちゃうと愚痴をこぼしたら…。
友だちが、あんたそれまずいよ、あたしらもう親に見放されてるから好き勝手やってるけど、あんたまでそれに合わせて親に見放されたら洒落になんない、あんた友だちと親とどっちが大事なのと、逆に説教されてしまったんです。私は驚きました。
多少付き合いが悪いくらいで無くす友だちならそんなの友だちじゃない。みんなには事情を伝えておくから、あんたはしばらく家にいなさいと言われて、私はもう数日は帰らないと決めていた帰路を、またとぼとぼと帰りました。電車に乗って、駅を降りても、まだ日は高いままでした。こんな早い時間に駅から家に向かって歩いていくのは久し振りでした。足取りが重くて、何度も帰るのをやめようと思いました。
マンションの敷地の入り口が見える所まで行くと、平日だというのに父の姿が見えました。歩道のガードレールに寄りかかって、たばこを吸っていました。え、父はたばこを吸わないはずなのに何か変と思って駆け寄っていくと、父が手を振って呼んでくれました。一緒に家に帰りました。
家に帰ってもしばらくぎくしゃくしていましたが、あとで父からは、母が泣きながら会社に電話してきたこと(私が生まれてからそんなことは初めてだったそうです)、母からは、父はあまりに心配がつのると、やめたはずのたばこを吸ってしまう癖があることを聞きました。
少し背伸びして大人に近付いた16歳の夏。そしていい友だちと両親に恵まれて少し子供の考えから成長できた16歳の夏のできごとでした。


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「いくらケンカしても・・」by id:hanatomi


うちのおばあちゃんは、強烈でひどい性格で親戚でも有名?だったらしいのです。
家でもこんな感じでした。
例えば、ふすまがきっちりと閉まっていないと、大声で閉めてくれと叫ぶのですが、私が乱暴に閉めてしまうと物を投げてきたりするんです。(小学生の頃です)

(^_^;)
いつも子供相手に本気なんです。
(誰相手にも本気。)
向こうが冷蔵庫のそばにいると、マヨネーズを投げてきたり、もうびっくりします。
ちなみに他の家族は誰も人に物を投げたりしません。(^_^;)
長寿だったのですが、年をとるにつれて、これはどの人にも当てはまることなんですが、頑固になったり、疑い深くなったりして、
例えばコタツが壊れたら、hanatomiが壊したんだろうとか、
クリームが、減ったように感じたらhanatomiが使ったんだろうとか言うようになりました(^_^;)
だけど、違うよ。と言うと、2,3日して、私の机の上に新品のハンドクリームが置いてあったりするんですよね。(私はハンドクリーム使わないんだけど買って来てくれたみたい)
そして、それに気がついた私が、振り返っておばあちゃんの方を見て、目が合いそうになるとあわててテレビを見るふりをするんです。(笑)
あー。悪い事したと思ったんだな。と思ったんだなって、かわいいなと思ってました。

ケンカも山ほどしましたが、今思えば遊んでくれてたんだろうな。

高校のとき、おばあちゃんは80歳くらいだったのかな。
体調を崩して、病院に運ばれて、死んでしまうんじゃないかと思って心配で心配で、神様に、「勉強も何でもがんばるから、いい子にするから、おばあちゃん、100歳まで生きてください」って日記に書いたんです。
そしてそんなことは忙しくなって忘れてしまっていました。

就職してすぐ私は一人暮らしをしたのですが、いつもおばあちゃんが気になっていて、ゆっくりできる休日がとれると車で実家に駆けつけて、一緒にあちこち散歩していました。おばあちゃんお散歩に行こう。というと、
歩けないからいけないよ というので、
車椅子で連れて行ってあげるから。というと、
いいのかい。ということば。
いいよいこう ^-^。
それがいつもの会話でした。
よいしょとおばあちゃんを車椅子に乗せて、
おばあちゃんと一緒に、小さい頃買ってもらったいか焼きやさんや、みたらしだんごやさん、今度は私がおばあちゃんにしてもらったようにおばあちゃんへ。

そういう日々も永遠には続かず、だんだん何も判らなくなって、そのうち、外に出かけても、20分くらいで、「もう帰ろう」というようになりました。
hanatomiが連れて行っても、hanatomi姉に散歩に連れて行ってもらったんだよ。と話していたり。
10分経ったら忘れていたり。
それでも、いっしょにいれるだけで嬉しかった。

結局おばあちゃんは100歳で亡くなりました。
長生きでよかったねと、おばあちゃんの生まれた静岡の富士山を菊で描いて、花いっぱいのお葬式をしました。
それから何年も経った後、私が社宅からの引越しの荷物を整理していたときに日記が出てきました。
パラパラ、めくってみると、「神様へおねがい。」とおばあちゃんの事が書いてありました。
そんなこと書いたことは、書いて以来忘れていました。
それを読んだ時、へとへとになりながらも何年も生きたおばあちゃんを思い出しました。きっと、神様はかなえてくれて、おばあちゃんも私のお願いのために100歳まで生きてくれたんだ。
なんとなくそう確信できて、いつもケンカばっかりしていたおばあちゃんの愛を感じて涙が止まりませんでした。
最後の方は息をするだけでつらそうだったおばあちゃん。
きっと、私が悲しむから、私が心細くなるから、私が別れたくないと思っていたから、長生きしてくれたんだ。

いじっぱりで、意地悪で不器用で、喧嘩っ早いおばあちゃんだけど、芯はいつも優しかった。

今思うともっといっぱいケンカしたかったなぁ。
そして、もっといっぱい優しくしたかった。
文句いっぱい言いながら、もっといっしょにみたらしだんごや、おはぎ、たべたかったなぁ。
そんなことを思います。


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