「〈探梅〉を楽しむ」by id:YuzuPON


探梅(たんばい)。ちょっと耳慣れない言葉かもしれませんが、これはれっきとした晩冬の季語。芭蕉の句に「香を探る梅に蔵見る軒端哉」というのがありますが、これがこの季題の起こりなんだとか。その後、高浜虚子が「この道を我らが往くや探梅行」などと詠んだことから、探梅の熟語が俳句の世界に定着したと聞いています。


意味は、ほころびはじめの梅の花を探して歩くこと。冬の終わりに、一足早い春を探して歩くわけですね。まだ固い蕾の状態でも、春の訪れを告げる木に出会えると、本当にうれしいものです。また、芭蕉の「香を探る」の言葉そのままに、香りで気付く梅もあります。冬の終わりを告げるかのような香りに誘われながら、どこに咲いているんだろうと探していく。そんな梅の花探しも楽しいものです。


梅を探して歩いている間に得られる出会いも楽しいですね。以前、こんなことがありました。始めて歩いた道で花の香りに気が付き、あたりを見回すと、見事に咲き始めた梅の木のあるイエを発見したんです。近寄ってみると、お庭には、その梅をうれしそうに見つめているお年を召した女性の姿がありました。目が合ったので思わず「咲きましたねぇ」とお声をおかけしたのがきっかけで、お茶でもいかがですかということになり、梅の木の見える部屋でしばし歓談。私も梅が大好きですから、お庭の梅と同じくらい、話にも花を咲かせてしまいました。それがご縁で、今では家族ぐるみ、とても親しくしていただいています。こんなふうに、同じ花を見て気持ちが共有出来ると、もう老若男女関わりなく心が通じてしまいます。梅の花を探していると、人との触れ合いも見つかったりする。そんなのも探梅の楽しみの一つかもしれません。


そういえば、咲き始めの梅を嬉しそうに見上げている親子がいて、私も並んで見上げていたら、ちっちゃな子供が「はい」なんてアメを手渡してくれたこともありました。見ると子供の口にもアメが入っていました。きっとその子は、花が咲いた嬉しさとアメのおいしさが重なって、すごく幸せだったんでしょうね。それで、横にいた見知らぬ私にも、その幸せを分けてあげたいと思ってくれたんでしょう。寒い日でしたが、とても心温まるひとときでした。


花は人の心に喜びを与えてくれますが、とりわけ春の訪れを感じさせてくれる、咲き始めの梅の花に出会う感激は大きいですね。その嬉しさをみんなで分かち合いたくなる。梅の木の周りには、花の香りと一緒に、そんな人の心の優しさが漂っています。


もう咲いちゃった。知らないうちに満開。そんな年も、やっぱり探梅です。中国・南宋の時代の詩人、陸游の詩には「探梅」という題名のものがあります。


「『探梅』二首之一」
半吐幽香特地奇
正如官柳弄黄時
放翁頗具尋梅眼
可愛南枝愛北枝



訳すと、
半ば咲く(花の)香りは特にすばらしい、まさに柳が芽吹き初める時のようだ、放翁(陸游の号)はいささか梅を見る眼を具えている、(普通は日が当たってよく咲く)南の枝を愛でるべきところだけれども、(ゆっくりと咲いていく)北の枝も愛したい。


といった感じでしょうか。4行目はちょっと解釈が難しいのですが、咲き誇る梅の美しさをたたえた上で、これから咲いていく花の美しさもまた格別だと詠んだのではないかと思います。


一口に梅といっても、品種によって、また立地条件によって、咲く時期が違います。ですから、むしろ満開の時期にこそ、これからの花を探して歩く楽しみが味わえると言えるかもしれません。出遅れた!と思った年は、「愛南枝」を楽しみつつ「愛北枝」も楽しんでいく陸游流の探梅でいきましょう。


以上、かなり(ほとんど?)高校時代の先生からの受け売りですが、咲き始めの梅を探して歩くと、本当に俳人や詩人の心で散歩が楽しめる気がします。春はもうすぐそこですね。


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