イエ・ルポ 2 #054
みなさまこんにちは、ハザマです。一昨日から進行している“リブ・ラブ・サプリ〜FORTUNE”#051の語らい、「土」や「編む・縫う」のテーマで楽しい話題がたくさん集まってきてますね! 「土」は、春がきたら!と思ってとっておいたテーマなんですよw 土はプランターやお庭や畑だけではないですが、やっぱり春のフォーチュン・サプリには欠かせない気がして(^^)。あと「イエのおまじない」も、日本と海外の面白い逸話をいろいろ聞いてみたいですよね。〈イエはてな〉ではもうおなじみのドリームキャッチャー並みに楽しめるおまじないがあればいいなぁとワクワクしています♪
さて、今日は“イエ・ルポ 2”#054の語らいのスタートです。今回のお題は、「人生と暮らしに大切なことは何?〈家族の口癖&名言集〉」。つまり、おばあちゃまでもお父様でも奥様でもご兄弟でも、いつも口すっぱく言っておられること、事あるごとに口から出る言葉を、折々のエピソードとともに聞かせて頂きたいのです。コレには思わずうなずかされた、という名言も! 以前に、我が家の家訓というお題でお話をして頂いたことがありましたが、今回は暮らしのなかで出る小さな口癖やユニークなプチ名言、そのこころをめぐって書き綴って下さいませんか? 生活の戒めも、気を楽にさせてくれるひとことも、人生の教訓も、ここで楽しく交換出来たらいいですねw 今回もみなさまそれぞれのイエのエピソードを、楽しみにお待ちしています!
「人生と暮らしに大切なことは何?〈家族の口癖&名言集〉」を教えて下さい
「人生と暮らしに大切なことは何?〈家族の口癖&名言集〉」を教えて下さい
“ルポ・タイトル”
「可愛いねぇ、お前はどうしてそんなに可愛いの? by 母」
by ハザマ
毎日毎日、膝の上で頭を撫でながら、まるで呪文か「赤ずきんちゃん」のオオカミさんのように(笑)繰り返す母の言葉…。ってこれ、私の頭を撫でているわけではないんです。そう、我が家の話にしばしば登場する猫たちに言っているんです。実家の初代の猫、鎮太(キンタ)くんがチビの頃から、今の銀次くん、銅瑠(ドール)くんと、言い続けて二十数年。うちのミューとイプも、まだ小さくて実家に連れて帰省していた時にはいつも言ってもらってました。「可愛いねぇ、お前はどうしてそんなに可愛いの?」。
そしてこの問いかけの言葉に、いつの頃からか、答えのセリフが付くようになりました。「“それはね、かあちゃんのこと愛してるからだよ”。うん、そうか、そうか」。
もちろん、セリフのところは猫の声真似。他人が見たら、恥ずかしくないですかぁ?と言いたくなるような、私も顔負けの猫バカ振りですが(笑)、これを初めて聞いた時にはちょっとハッとするものがありました…。そっか、動物はもとより可愛いけれど、こんなに安心しきって可愛い顔を見せてくれるって、この子たち、私のこと愛してくれてるんだ! いやはや、こんなふうに感激している私もどうかしていると思われそうですが、これはきっとホント。母も猫たちに日々問いかけながら実感した答えだったのでしょう。
それからというもの、父まで「銀次くんはどうしてそんなに可愛いのか? とうちゃんのこと好きなのかぁ、そうかそうか」と撫で撫で。私も、母や父を笑えません…。すっかり私の口癖にもなっています。これは母の口癖であり、そのひとり問答は名言(!)だとも思いますが、それより「幸せの呪文」と言った方が当たっているかも知れません。猫を膝に抱いてこのひとり問答をやっているときの、何て幸せな心地。思えば、これが自分の子供だったら、気絶するほどの幸せなんだろうなぁ…。うっとりしている私たちの姿を今は横目で見ている弟ですが、そうのち照れる歳でもなくなれば、きっとやっていると思います。「可愛いねぇ、お前はどうしてそんなに可愛いの?」と。そして我が家の幸せの呪文は受け継がれていくことでしょう。願わくは、猫と一緒にそろそろ自分の子供たちを抱いて(^^)。
※今回の「いわし」ご投稿は4月8日(木)正午で終了とさせて頂きます。
※今回のピックアップ賞は4月9日(金)に「イエはてな」にて発表いたします。
※〈イエはてな〉では、いわしへ投稿されたコメントと画像をダイアリーに転記しています。できましたら「投稿画像のwidth属性」を450px以内に指定していただけますようご協力をお願いいたします。
「今日の一枚“リブ・ラブ・スナップ”」
「ゴートミルクソープ」
使っていた化粧品がある日突然肌にあわなくなり、スキンケアアイテムは天然素材で手作りするようになりました。これはヤギのミルクが配合された石けんで、洗い上がりがしっとりして肌にやさしい感じです。溶かしてエッセンシャルオイルを混ぜたものをハートの型で固めてみました。
まるで、ミルクも入っていい香りのするお菓子みたい。
人のカラダや肌ってとても正直で、自然なものをよろこんで反応するから不思議です。
こうして自分にぴったりの成分や香りを探しながら手作りも楽しむスキンケア、素敵ですね!
−ハザマ−
»“リブ・ラブ・スナップ”今回のテーマはコチラから
募集期間中にご投稿頂いた方にもれなくはてなポイント300ptプレゼントいたします。
また、スナップ賞にはアマゾンギフト券3,000円分をプレゼントいたします。
いわしの回答(転記)
家族の中でも、「ありがとう」がいえると非常に関係が円滑になるということを成人してから学びました。中学生や高校生の時には、中々照れくさくて家族にお礼をいうことなんて無かったですが、ちょっとした感謝を感じたときにそれを口にだすということは、お互いを幸せにしてくれると思います。
両親が昔から言ってくれている言葉です。
他人の幸せを心から喜んだり、一緒になって気持ちをシェアすることは簡単なことでは無いです。
幸せを願ったり、喜んでいるようで、それは心底感じれているものでしょうか?
しかし、心底感じて相手の幸せを自分の幸せのように思えることが出来る対象がひとつだけあります。
それが「家族」では無いでしょうか。
無条件に愛し、無条件に受け入れることのできる存在。
両親は昔から私に言ってくれていたのが、「幸せな姿を見れることが幸せ」
この言葉の意味、小さい頃は解らなかったです。
でもおとなになって、今また言ってくれた時、初めてその言葉の真意を理解出来ました。
親子というのは不思議なもので、そこには相手の幸せにたいする嫉妬は無いもの。
子供が幸せで居てくれると、それと同時に親心としても幸せになれる。
ある意味一心同体な存在なのかもしれません。
私がとても幸せそうに楽しい話しをしていたり、胸をときめかせて過ごしていると、両親もその時とても幸せそうな顔をしてくれます。
私が幸せだと家族までもが幸せになれている気がするのです。
その家族の幸せそうな姿を見て、私はまた幸せになるのです^^
お互いがそうして幸せを感じ会えるそんな家族という存在は大事な大事な宝物です。
父も母も多忙で帰宅が夜遅く、出張が多かったです。
留守番も多かったですが、近くの家や、祖父母の家にやっかいになることも多かったです。
親が迎えに来た時に、自宅に帰るのをむずがることも多かったので、
「そんなに○○の家がいいなら○○の家の子になればいいでしょっ!」と言われたのですが、
それに対して「うん、そうする〜」と返事し、意気揚々と自宅の荷物をカバンに詰めだして
さらに叱られたりしました。
そういったことが続いたある日、また、
「○○の家の子になればいいでしょ!」を言われたのですが、
そこで弟が返したのが
「だったら父ちゃんも母ちゃんも、そんなに仕事がいいなら仕事の家の子になればいいでしょ!」
です。これに対しては親も「ごめんな…」と謝ってました。
仕事か団らんか、なかなかバランスをとるのが難しいと思います。
そして1カ月後・・・そこには一家団らんで旅行に出かける家族の姿が!
弟「もうよその子になるなんて言ったりは絶対にしないよ」
と、大学に進学して実家を離れるときに、酒を飲んでる父にぽつりと言われました。あまり深刻そうに言わなかったし、さらっと流してしまったけれど、自分の中では熱い想いがこみ上げてました。自分も息子・娘をもったら、彼らの存在があることをシッカリと幸せに感じることができればと思います。
私の家でも「生きていることが一番大事」と何度も行っています。どんなにつらいことがあっても人間は生きて行かなきゃいけないんだよと教えられました。大事MANブラザーズの「それが大事」という歌の中に、高価な墓石を建てるより安くても生きてる方がすばらしいという歌詞があり、安室奈美恵さんの「NEVER END」という歌の中には、生きてかなきゃいけない涙の日でも、という歌詞があります。全くその通りだと思います。日本は毎年3万人以上の人が自殺しています。いつも胸が痛みます。誰でも泣きたいことやつらいことはあります。だからこそ、命はたった一つでかけがえのないものということを忘れてはならないと思います。
時間を守れないというのは、とても信用を失うと教えられてきました。
相手を待たせるよりは、自分が先に着いているようにしろと。
そのお陰で、これまでに遅刻をした経験は、よほどの交通機関の乱れを除けば全くありません。
逆に数分なら遅刻のうちに入らないというような感覚の人は、どうなんだろうと思ってしまいますね。
自分が遅れたら、相手の時間を無駄にしてしまうということは、余り考えられないことなんでしょうか。
社会的にも、人間関係的にも、時間を守れるかというのは、
その人の評価に直結する大きなポイントだと思うのですが。
何か残念かなと思うようなことがあるとすぐ「あ〜あ」と言います。
まだ、言葉がしゃべれないのですが、この「あ〜あ」というのだけは言えます。
その「あ〜あ」には 感情がこもっているような雰囲気な割には、
本人は たいして気にもせずふりまうところが とても かわいいです。
今のところは「あ〜あ」しか言えませんが、もう少ししたら いろいろ
名言を出してくれるのかなと期待しています。
子供のころに親によく言われたことです。贅沢は出来ないとか、他の家がやっているからって比べるなとか、よく言われました。欲しがっても、そんなに買ってもらえなかったし、いろんなオモチャを持っている友達がうらやましくもありました。今、なんとなくその言葉の意味が分かるような気がします。
うちもよく「貧乏、貧乏」と親が言っていました。
実際はそこまで貧乏でもなかったはずなのに、子供には節約を奨励していましたね。
いまだによく覚えているのが缶ジュースを5人で一口ずつ分けて飲んだことです。
大人になったら、1人で1本、飲みきりたいなあと憧れていました。
今の子供はそういう「大人になったら」がないからかわいそうですよね。
ぼくらなんかは「大人になったら」マクドを腹いっぱい食べたいとか、お寿司をイヤと言うほど食べたいとかいろいろ目標がありましたからねえ。
子取りといってもなんのことかわからない方のほうは多いでしょうが、昔は恐れられる存在だったのです、子取り。つまりは子供を取りに来て、どこかに売り飛ばしてしまう、そういう悪い商売をする人のことをそう呼んでいました。
実際にいるのかどうかはともかく、子供のころ、ちょっとでも悪いこと、親の気に入らないことをすると「子取りが来るぞ」と脅かされたものです。
子取りが理解できないもっと小さな頃は、ガーコが来るぞと脅されていました。
たしかアヒルのおもちゃだったと思うのですが、なぜだかぼくはそのおもちゃを怖がってたんですね。それで怖いから押入れにしまってあるはずなんですが、そのおもちゃを出してくるぞ、と脅かされていたわけです。
まあ、親もいそがしかったし、他の子供にも手がかかったし、そういう子供の恐怖心を利用したしつけも仕方なかったのかもしれませんが、子取りに連れて行かれるイメージは恐ろしかったなあ。
好き嫌いをするな、一つのものばかり食べずに「三角食べ」をしなさい、飲み物で流し込むな、クチャクチャ音を出して食べるな、などなど、数えればきりがないくらい、食事に関してはかなりいろいろなことを言われましたね。まあ、どれも子供のうちに身に付けなければいけない事なんでしょうね。
色々悩んでいた時期がありました。そんな私を察してか、父の部屋からこんな曲が流れてきたんです。
この暗い時期にもいとしい友よ
僕の言葉を聞いてくれ
だましたり苦しめたり はずかしめたり
見放したりおどしたりなどはしないから
音楽好きの私の耳は、どんなに悩んでいても、音楽に引っ張られます。私はこの初めて聴く歌に耳を傾けました。
そして、この歌の歌詞は3番までありますが、
(歌詞の全体はこちらをご覧ください
http://www.evesta.jp/lyric/artists/a323725/lyrics/l80107.html)
いつの間にか、その3番が頭の中でローテーションし始めました。
陽の輝きと嵐とは同じ空の
違った表情にしかすぎない
人生を明るいと思うときも暗いと思うときも
僕はけっして人生をののしりたくはない
人生は甘いものにせよ 苦いものにせよ
好ましいものとして役立てよう
歌の歌詞には、わざと訴えたいメッセージの逆の言葉を盛り込んで、肯定するふりをしながら否定するというのがありますから、素直に歌詞の内容を受けとめたわけではありませんでした。でも、ブルースっぽい、絞り出すような素朴な歌い方に、だんだん引き込まれていきました。
あぁ、その通りかもしれない。明るく希望に満ちている時も、暗く沈んでいる時も、どちらも同じ自分の人生。同じ時間の軸の右・左。道が分かれて迷い込んだ場所じゃない。行き着く先が違うわけでもない。
俺は何を悩んでいるんだ。あぁ、違う。悩むのはいいことだ。そうだ、悩むことを嫌がるな俺。希望に膨らますも重く詰まるのも同じ俺の胸。明るく輝くも暗く伏せるも同じ俺の目。だから俺の頭よ、明るいと思う時も暗いと思う時も、どちらも好ましいものとして受けとめろ。
だんだんそんな気持ちになってきました。よく人は、明けない夜はない、なんて言います。でも深く心が沈んでいる時には、自分自身が夜明けを望まなくなってしまうのですから、そんな励ましも届かないことがあります。
しかし、光り輝く昼間の空も、暗い夜空も同じ空なんだ、なぜ同じ空の一方の姿だけを嫌がる必要があると言われれば、それはインパクトがあります。
心が明るく軽くなったとは言いませんが、何となく気持ちの整理が付きかけて、自分の部屋を出てリビングに行きました。すると父も入ってきて、いい歌だろうと、録音した物を渡してくれました。
「元がアナログ盤だから、さっきもそれで聴いてたんだ。それやるから気に入ったら聴いてくれ」
それだけの言葉でしたが、何時間親身になって話を聞いてもらっても得られないようなものが伝わってくる気がしました。
「人生は甘いものにせよ 苦いものにせよ 好ましいものとして役立てよう」
父の直接の言葉ではありませんが、これが私の心に強く響いた父からのメッセージです。
最近ギターを弾きはじめた私は、時々この歌を、無意識のうちに歌っていることがあります。父がいる場所で口ずさんでしまって赤面したこともありましたが(やはり父の術中にはまったことがバレたみたいで恥ずかしい)、素知らぬ顔で続きを歌っていたら、最後のリフレインの所で父がコーラスを付けてきて、即興のセッションのようになりました。父は元バンド屋ですから、こういうのはうまいんです。
以来、
「人生は甘いものにせよ 苦いものにせよ 好ましいものとして役立てよう」
このフレーズは、親子の口癖ならぬ「歌癖」になりつつあります。
※引用歌詞出典
文中の歌詞(書き込みタイトル部分を含む)は「この暗い時期にも」(作詞・作曲 生田敬太郎)より引用
- アーティスト: 生田敬太郎
- 出版社/メーカー: バップ
- 発売日: 2006-01-25
- メディア: CD
オリジナル盤は1971年、エレックレコードよりリリース
毎日、欠かさずにとる食事において、「いただきます」と「ごちそうさま」の挨拶は、欠かせませんね。
最近、外食などでは、お金を払っているのに言う必要はないなんていう人もいるようですが、
個人的には、それは全く違う話かと思ってしまいます。
食前、食後の挨拶は、やっぱり毎日の食事への感謝、食材に対する感謝も含まれていると思うんですよ。
お金を払っているからとか、そういうモノではないと思うんですよね。
そういった感謝の気持ちは、きちんと持てた方が良いと思いますね。
これは家庭でなにか揉め事や、トラブルが起こったときに父がいう言葉です。
家族同士がいがみあってたわけではないのですが、個人的心情からどことなくぎくしゃくして、
生活のことでいろいろ意見が食い違う時期がありました。
私が片意地はっていたこともあって、このすれ違いはなかなかいい方向へ向かないうちに、
私自身が病気になったり、他の家族が心労で疲れたりと、当時は大きなトラブルではないものの、
結構深刻的でありました。
あのころのトラブルをどう克服していったのか、今ではよく思い出せないのですが、
やがて薄皮をむくように、事態が好転し始めた頃、
家族が集まったときに父親が
「俺は特に大きなことは望まない。ただ、みんなと静かに暮らしたいんだ」
と静かに言ったのです。
この言葉を聞いて、私は今までわがままいっぱいで、全然親孝行してなかったことに恥じ入りました。
その後も、言葉はそのときによって違いますが、家族同士でなんらかの喧嘩があったりすると、
この言葉を口にすることがあって、もしかしたら、最初に気が付く前からこういう言葉を誰かにちょくちょく吐いてたのかな、と
父の家族を愛する思いの深さに、自分の至らなさを感じた次第です。
これがずっと前からの母の口癖でした。
「かわいい子には早寝させろー」
「かわいい子にはお手伝いさせろー」
「かわいい子には勉強させろー」
何でもこれです。
小さなころからこれでしたので、おかげで本当の「かわいい子には旅をさせろ」も、母が作った口癖の一種なのかと思っていた時期があるくらいでした。
でも高圧的に「何々しなさい」と言われるより、この方がずっといいですよね。
子供は、頭から「こうしなくちゃだめ」と決めつけられることに一番反発するんです。
言われたことをしたくないわけじゃない。
何々でなければだめと決めつけるような言われ方がいやなんです。
最近、地域の子供活動のお手伝いをさせていただくようになって、そのことを実感しました。
たとえば子供がケンカをはじめちゃったとします。
そういう時「こら、だめ」と割って入ったら、たとえ子供のケンカはおさめられても、根本は何もおさまりません。
ケンカの怒りが不満に変わって、大人に向けられていくだけです。
子供だって、ケンカはだめだっていうことくらい知っています。
でもそれを知っているのに、それでもおさえきれない事情があったということ。
それはよくよくのことだったんだなぁという理解を持ちながら近付いていかないと、子供の心に触れる前に拒絶されてしまいます。
また、小さな子供はまだよく限度を知りませんから、悪気はないのにお友だちを泣かせてしまったりすることもあります。
こういう時も、泣かせた方が悪いと決めつけてかかったりすると、些細なトラブルが子供の心に深い傷を負わせる大事件になりかねません。
もちろん「あんたもすぐ泣くから面白がってやられちゃうのよ」なんて決めつけたら最悪です。
子供は泣いたり泣かされたりして当たり前。
子供の世界に善悪なんてない。
でも、みんなが笑顔で過ごせるにはどうしたらいいか、一緒に考える時間を持ちたいな。
そんな気持ちで近付いていくことがとても大切だなと痛感させられることが何度もありました。
繰り返し高圧的な決めつけを続けていれば、子供は大人に、表面的には従うようになるでしょう。
それが大人にとっての「いい子」なのかもしれません。
でもそれじゃ、大人の指導が機能しないところでは「悪い子」でいてもいいんだと、大人自らが認めてしまうことになります。
しばらく前、規範意識が国作りの柱なんだみたいなことを言っていた人がいました。
でもそれって、規範の例外が認められる場なら何をやってもいいということ。
世の中には国中が軍隊調で、とても規律がしっかりしている国もあります。
でもそういう国は、とても戦争をやりたがります。
国の中では規律が守れるのに、国の外に向かっては平気で殺し合いをしたがる人たち。
監視されているところでは模範的でなければだめ。
そうでない場所なら何をしてもいいから。
そんな人を育てる規律なら、そんなものいりません。
話が急に大きくなってしまいましたが、「こうでなければだめ」と決めつける子供への接し方は、突き詰めていけば、社会や世界のあり方だって左右してしまうくらいの重大問題だと思うんです。
母の「かわいい子には…」も、言い方によっては、こうしないとかわいくないんだから、みたいな誤解を与える恐れもあるかもしれません。
でも、いつも小さかった私を抱きしめて「かわいい」と言い続けていてくれていた母の言葉でしたから、言いつけを聞かなかったらその愛情が消える、なんて思ったことは一度もありませんでした。
今も母は「かわいい子にはごはん作ってほしいなぁ」なんて言っています。
おいしくできると、立ち上がって両手を広げて、
「かわいい子は抱きしめてあげる!」
なんて言い出します。
「いいよぅ、はずかしい」
「あら、かわいくなーい」
「じゃ明日はお母さん作ってよ、おいしかったら抱っこしてあげる」
「槍が降っても作りません!」
こんな会話がいまだにできる家族がいて、とっても幸せな私です。