「ドライブが農作業になった日」by id:watena


小学生のころの話ですが、家族で釣りを兼ねたドライブに出かけました。車は川上を目指します。だんだん農村地帯に近付いてきて、道の脇に小さな田んぼが点々と見えはじめました。まだ田植え前の季節ですから人はいません…と思ったら、小さな田んぼの畦に座っている人がいました。
あれ、様子がおかしいぞ。父はゆっくりと減速して、田んぼをちょっと過ぎた所で左端に寄せて車を止めました。「あの人、足を痛めたんじゃないかな」。父は車を降りて、田んぼに向かいました。しばらく何か話しているようでしたが、戻ってきてドアを開けると、「突然足が攣ったそうだ、医者にいくほどじゃないと言っているけど、とても仕事にはならないらしい、どうだ、今日は予定を変更して、みんなで田んぼ仕事を体験してみないか」。
釣りをする予定だったので、全員フィッシングブーツを用意してきています。これでばっちり田んぼに入れます。よし、やろうということになって、Uターンをして車を田んぼの横につけました。
「おじさん、これがうちの家族。今日は畦塗りでしょう?我々でやりますよ。こう見えても私も農村出身。地域が違うと流儀も違うと思うけど、まぁ任せてくださいな」。
父はいきいきとして、鍬を受け取って田んぼに入りました。
「畦塗りっていうのは畦の修復作業のことだ。こうやって泥を畦に塗り付けて割れた所や穴などを埋めていく防水作業。そうだよね、おじさん」。
作業はまず畦を削り、掛け矢(全身で振り下ろして使う大きな木槌)で畦を叩いて固める事から始めるそうです。そこまではもう終わっているので、今日は田んぼの土を捏ねて畦に塗りつけていく作業です。
「大きな田んぼなら今はトラクターでやっちゃうんだけどね、このくらいの田んぼは今でも手作業。この畦塗りが一番重労働だよね、おじさん」。
父は鍬一つで器用に土を練って畦に塗りつけていきました。私も小型の鍬を借りて真似してみますが、土を練ることすら出来ません。
「土の上を鍬で撫でてもだめなんだよ、もっと腰を落として、落とした分だけ土の下を掻いていく気持ちになるんだ」。「こ、腰痛いよ」。「それが田んぼの仕事なんだよ」。「体に悪くない?」。「んー、筋肉が弱いと骨にくるかもね」。「ひぇ〜」。
私は塗った後の土を鍬で撫でて平らにする係になりました。これなら少しは楽ですが、やはり大変な重労働でした。
「昔の子供は、お前くらいの歳にはみんなこういうの手伝ってたぞ。ねー、おじさん」。
おじさんは無口な人でしたが、だんだん会話が多くなってきて、色んな話を聞かせてくれるようになりました。母はおじさんの隣りに座って、お茶を勧めたりお菓子を勧めたりしていました。
泥の中を進みながら、一鍬一鍬畦を仕上げていきます。小さな田んぼですが、一周するまでには大変な時間がかかりました。いつのまにか夕暮れになって、町の放送のチャイムが鳴り響きました。
「ふー。この音が聞こえたら作業終了だ。おじさん、こんなもんでええかいのう」。父はいつの間にか田舎言葉になっていました。「てーしたもんだ。お前さんほんとに農村の人じゃのう。このお礼をどうしたもんか」。「そんな事より足はもうええのか」。「すっかりほれ、この通り」。「そりゃぁよかった、じゃわしらはこのへんで」。「うち寄ってばあさんの作るもんでも食ってくれんかのう」。「そりゃ嬉しいけど、わしらももう帰らんと。ほれ、おじさんから帰ってくれんと心配でここ離れられんから、耕運機に乗った乗った」。おじさんは、すまんですのう、すまんですのうと何度も言いながらリヤカーの付いた耕運機のエンジンを掛けて、バタバタと走り去っていきました。
父は泥まみれでした。私も泥だらけ。その姿で車に乗り、途中で見つけたお店でおにぎりを買って食べました。おにぎりを買いながら、父が私に言いました。「どうだ、泥んこで恥ずかしいか?」。私はしばらく考えて、働いた証拠だから恥ずかしくないと答えました。「よし偉い。今日は日本を支える米作りに参加したんだ。この格好は名誉だな」。「うん、誇りだね」。「ホコリというかドロだけどな」。最後はオヤジギャグでしたが、農村育ちの父がたくましく頼もしく見えた一日でした。


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