「自転車のベルの音」by id:Cocoa


チリンチリンと自転車のベルの音がすると、それが父の帰宅の合図でした。父はいつも駅との往復に自転車を使っていました。朝は行ってきますの合図にチリンチリン。夜も同じように家に着くとベルを鳴らし、それから自転車を置いて家に入ってきます。小さかった私は、そのベルの音が聞こえると玄関まで走って行き、ドキドキしながらドアが開くのを待っていました。自分でドアを開ければもっと早くお父さんと会えますが、コツコツと近付いてくる足音を聞くのがまたいいんです。
知らないお客さんの足音は門の方から玄関に近付いてきます。でも父の足音は、庭の奥に自転車を置いてから戻ってきますから、門の反対側から近付いてきます。これではっきりと父の足音だと分かります。
さらにダメ押し。ガチャガチャと鍵穴に鍵を差し込む音。家の鍵を持っているのは家族だけですから、この音がしたらお父さん確定です。小さな私は最大級の笑顔で、お帰りなさいの挨拶の準備をしていました。


でもこの習慣は、家に車がやってきて終わりになってしまいました。父が車通勤に切り替えてしまったからです。車は徒歩数分の駐車場に置いていましたから、父は徒歩で門から入ってきます。これでは忍者のように耳を澄ませていないと、お出迎えの合図になる音が分かりません。父も段々仕事が忙しくなって帰宅時間が遅くなる日が多くなり、私のお帰りなさいのお出迎えは、いつの間にか終わってしまっていたのでした。


でも最近のエコロジーブームで、またこの懐かしい習慣が戻りつつあります。父が、車通勤をやめてまた電車に戻そうかな、と言い始めたのです。
エコのためだけではない。車を使うよりは電車の方が多少運動量が多くなるし、なにより電車なら帰りに寄り道をする楽しみがある。車に変えてからは帰りに駅ビルを散策することもなくなって、今ではすっかり若い人に何が流行っているかも知らないオジサンになってしまった。体も心も若くあるためには、やっぱり電車が一番だと。


こうして、十何年ぶりの父の自転車通勤が始まりました。朝はいつも私の方が早い電車ですが、時々父も私と一緒に家を出ることがあります。そんな時は二人一緒に行ってきますの合図をチリンチリン。帰宅もごく稀に駅で一緒になることがありますから、そんな時は一緒に夜道を走って、家に着いたらただいまの合図も一緒にチリンチリンです。


最近、父の会社はワークライフバランスを企業責任とする立場から、管理職にも極力定時退社を勧めています。これに対して私の会社は定時退社なんて悪者扱い。おかげでたいてい私の方が帰宅が遅くなりますが、今は私が庭先でチリンチリンとやると、父が玄関で待っていてくれたりします。エコロジーという新しい価値観の広がりのお陰で、楽しい習慣が形を変えて復活しつつある我が家です。


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