「どうぞお大事に」by id:TinkerBell


母は元看護師なので、ことあるごとに「どうぞお大事に」と言ってしまいます。
ご近所に自治会の書類を届けに行って、帰り際に「どうぞお大事に」、なんて言ってしまうのは日常茶飯事。
そのたびにハッと気が付いてはバタバタッと駆けて戻って、
「ごめんなさい、私さっき変なこと言ってませんでした?」


宅配便の人が来ても、
「寒い中配達ご苦労様」
「いえいえ仕事ですから」
「頑張ってくださいね、どうぞお大事に」
「……」
「きゃぁ、違う違う、どうもありがとうございました、です」
初めての人はかなり面食らっているようです。


でも、こんなこともありました。
通りすがりの人に道を聞かれた時のことです。
「○○ってどこにあるかお分かりになりますか?」
「えーーと…お母さん分かる?」
「うーん、ちょっと聞いたこと無いので、この付近じゃないかもしれませんね、住所などお分かりになりますか?」
「○○町一丁目だそうです」
「あ、それはまだだいぶ先になりますね、歩いて行くには距離がありますから、バスで行かれるといいですよ、そこのバス停から4つめが○○町一丁目ですから、そこで降りて誰かに聞いてみてください」
「これはごていねいにありがとうございました」
「いえいえ、お役に立てませんで、どうぞお大事に」
「きゃ、お母さん!」


しばらく沈黙が流れました。
その人がうつむいてしまったからです。
母は言葉を言い直そうにも言い直せなくなってしまいました。
その人はゆっくり顔を上げて、そしてまた深々と頭を下げました。
そして、こんなことを話してくれました。


「やはり初対面の方にも分かるんですね、私は今、医者から入院を勧められているんです。家族にも強く勧められています。でもどうしても仕事を離れることができなくて、今までずるずると来てしまいました。でも今決心が付きました。入院してしっかり体を治して、仕事はまたそれから頑張ります」


ケガの功名とはこのことかもしれません。
その人と別れた後、母は目に一杯涙を溜めて、このクセもたまには役に立つでしょ、と泣き笑いをしていました。
病院に勤めていたころは、きっと一日に何十回も言っていたであろう「どうぞお大事に」。
今も別れ際の挨拶の言葉として染みついて抜けないくらいに、母はこの一言に心を込めていたんだろうと思います。
そう思うと、落とし物を届けた帰り際にお巡りさんにまで「どうぞお大事に」と言ってしまう母を、ちょっと誇らしく思います。


»このいわしのツリーはコチラから