「新春書き初めで初笑い」by id:tough


書道好きの父にとって、毎年の書き初めは欠かせない行事です。正月二日の朝、拭き清められた床の上に無地の掛け軸が広げられ、父はその横で墨を擦り始めます。冬の朝ですが、暖房は入れません。キリッと冷たい空気が気持ちを引き締めます。まるで武道の寒稽古のような雰囲気です。
父の表情は真剣そのもの。墨を擦る手は軽やかに動いていきますが、結んだ唇に真剣さが現れています。新年初のこの書に、一年の決意を込めるからです。
父の書道はいつも真剣勝負。普通は何枚も同じ文字を書いて、その中の一番いい作品を掛け軸に仕立てていきますが、父の場合は表装済みの無地の掛け軸に、ぶっつけ本番で書いていきます。失敗の許されない一発勝負。この緊張感がいいんだよと、いつも父は言っています。
墨が刷り上がりました。筆を手にする前に、父は何度も腕を差し出して、これから書こうとする字を宙に描きます。父の手が「大志」と動いています。これが今年の父のテーマ。何か大きなことに挑戦したい年なのでしょう。
いよいよ筆を取って書き始める瞬間がやってきました。たっぷりと墨を含ませた太い筆が紙の上に下ろされます。父は勢いのある筆捌きで一気に書き上げました。すばらしい出来映えです。これが今年一年の父の決意の現れかと、横で見ていた私も感動に包まれました。続いて父は筆を持ち替え、再びたっぷりと墨を含ませました。作品に銘を記すためです。
その時、階下から「あひょ〜」というような間抜けな叫び。父は首だけ振り返って「どうした、母さん」。「ごめん、お皿を落としそうになって逆に自分がひっくり返っちゃった」。「大丈夫か?」。「うん、平気」。「ならよかった」。
しかしこっちはよくありませんでした。こんな階下とのやり取りに気を取られていた父は、せっかくの作品の上に、ポタリと墨の滴を垂らしてしまっていたのです。「あ…」。一瞬父の表情が凍りました。でもすぐに柔らかな表情に戻って太い筆を取りました。何をするのかと見ていると、墨の滴の上に点を一つ打ったのです。「大」の字が「犬」になってしまいました。それまでの緊張した気がとたんにほぐれて、父も私も大笑いです。
母が「なぁに、楽しそうね」と上がってきました。
父「母さんのお陰でこんなすてきな書き初めになっちゃったよ」
母「あらまぁ、犬のこころざし」
私「これが今年のお父さんの目標だよね」
父「よし、父さんは今年一年番犬のようにしっかり家を守ることにしよう」
母「ついでにごはんをくれる人にはいつも忠実に」
父「わん、て何だそれは」
戌年正月二日の朝の出来事でした。今でも父は母にとても忠実です(笑)。


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