いわしの回答(転記)
忘れたいのに忘れられない。
3年付き合ってきた元彼でしたが別れてもう10年以上経つのですがやはり覚えてるものですね。
新しい恋もしてますが、なぜか思い出します
その元カレと付き合い出したのが社会人になりたての頃だったもので、その頃に作った通帳その他あらゆるものの暗証番号を元カレの誕生日にしちゃったんですよね…若気の至りですな。
でもその数字の並びに愛着があったので、付き合いが終わったからと言って暗証番号を変える気になれず、そのままにしています。そして新たに暗証番号を作る必要があると、ついその番号にしちゃってます。というか、他の番号にしたら覚えられなくなってしまって…
そんなこともあって、旦那には絶対暗証番号の由来は教えられません(笑)
お爺ちゃん子だったので、かなり色濃く残ってしまいました。
家族の皆はもう忘れたかのように過ごしていて・・・
少し寂しくなります。
でも、もしかしたら忘れるというもの自体が私以外の家族にとって一つの大事な作業だったのかもしれません。
お爺ちゃんは、みんなを悲しませないように忘れさせてあげたのかもしれません。
それでもお爺ちゃん大好きだった私は、一人毎年思い出してしまいます。
忘れたくない。そして忘れることが出来ない日です。
この先、私は一生思い出し続けることでしょう。
それは私にとって大切な作業であり、思い出すことで確かに私の心の中にまだおじいちゃんが生きていて存在している証なので。
魂は目に見えずこうして残された人の心の中に生き続けます。
王貞治さん、ぼくの世代のスーパースターです。今で言うイチローのような人気がありました。特に756号ホームランがいつ出るか、日本中みんなでカウントダウンしていたように思います。
その王さんの誕生日がぼくと1日違いなのです。
それが悔しくって悔しくって。
母がもう1日遅く産んでくれていたら、憧れの王さんと同じ誕生日をクラス中にじまんできたのに。
当時ぼくのクラスでは、野球選手の誕生日を調べ、自分と同じ誕生日の選手を応援するというのが流行っていました。
王さんとニアミスのぼくも探しました、ドンピシャ同じ日の選手を。
それが、こういっては失礼なのですが、あまりパッとした選手がいなかったんです。
一人だけジャイアンツの5番を打ったこともある選手が同じ誕生日だったんですが、なんというか地味で、友達に言っても「ふうん」ってだけで、イマイチ盛り上がりませんでした。
そんなわけで、ぼくの誕生日の1日後、王さんの誕生日になると子供のころのことを思い出しています。
初めて生まれた県を離れて東京に行った日です。不安もありましたが、ずっと東京に行きたいと思っていて、7年越しで夢がかなった日でもありました。新しい友人もでき、楽しいことがたくさんあり、上京してよかったです。今は地元に戻ってきましたが、今でも仲良しで毎年会う仲間ができました。
車の免許を取ったのがぼくは遅かったんです。38歳になってから。
教習所に通っているときも回りは9割以上年下。
仕事終わってからの教習所通いはしんどかったのですが、それでもしっかり勉強しまして、途中の仮免許試験や、免許センターでの本試験も見事に1発で合格しました。
教習料金を支払うときにいろいろとコースが選択可能で、何度試験に落ちても料金が定額という「落ち放題コース」もあったんですが、ぼくは落ちるごとに補講を実費で受けることを選択していましたから、1発合格は何より嬉しかったし、自信になりました。まだまだ頭、使えてるじゃん、と。
免許証の交付の日付けは9月1日。
毎年その日が近づくにつれ、教習のことを思い出します。
あのころは運転しながらタバコを吸うなんて一生無理だと思っていましたし、ラジオなんて鳴ってても全然耳には入ってきませんでした。
おかげさまで現在のところ無事故無違反。
車の保険の等級が上がり、保険料が下がっていくのを楽しみにしているところです。
手術もしたけど加減がよくなることはなく、14日の晩から動くことができなくなった我が家のうさぎ。
次の日は学校があるからと、後ろ髪をひかれながらも床につきました。
夜中に父母に起こされ亡骸を抱いた時は、もう少し起きていれば看取ってやれたのにとひどく後悔したものです。
15日の朝は学校を休みたい気持ちでいっぱいでしたが、学校があるからと寝てしまったのに行かないなんてことはできません。
その日は高校の入学式からちょうど1週間後。
看取ってやれなかった私が唯一報いることができるのは、ちゃんと学校に行くことなんだと思いながら登校しました。
高校に通った3年間、学校に行きたくないと思う日もありましたが、そんな時は決まって4月15日を思い出しました。
卒業式の日に頂いた皆勤賞を、庭のお墓代わりの木に報告してはじめて、赦されたような気がしたものです。
あの日以来生き物は飼っていませんが、いつかまた新しい家族を迎えられたらと思っています。
初めてペットトをを飼った時。当然、死はつきものなんですが
幼い頃の私には相当なショックでした。
毎日かわいがって散歩もしていたので
最後の最後は、家から脱出して車にひかれてなくなりました。
突然脱走していなくなったので、探しまわったんですが
結局、2日後にひかれたのを発見したんですが
あまりの突然の別れで今でも忘れられずに、写真が飾ってあります。
とある活動が認められて雑誌の編集部から執筆依頼が来たのは、まだ夏にもなっていない時期でした。突然知らない人から電話がかかってきて、記事を書いてくれませんかとのお話。びっくりしすぎて何が起こったのかもわからないうちに電話は終了。数日後に正式な執筆依頼の手紙が届き、「あれは本当のことだったんだ!!」。それまで私は、記事はおろか、名前すら本に載った経験がありませんでしたから、もう本当に驚天動地の出来事でした。
さっそく執筆に取りかかろうとしましたが、いざ書こうとすると、出だしの言葉が見つかりません。あれ?雑誌の記事ってどう書き始めればいいんだろう、拝啓読者様…違う違う、皆様はじめまして…たしかにそうだけどそんなふうに始まる記事なんて見たことない、などとアホなことで本当に悩んでしまいました。
何とか規定の字数にまとめて編集部に提出。少し構成を直されて、舌足らずを指摘された所などを書き直し。これがダメ出しってやつ?すげー、俺プロみたいなどと、不備を指摘されているのに喜んでいる変な私がそこにいました(笑)。
並行して参考図版や写真、参考文献の一覧などを作成して送付。ドキドキしながら電話を待ち、オッケーですの返事で万歳三唱。本という物はたったひとつの記事にもこんなに手間と時間をかけるのかと、一つ一つの記事の重さを知りました。
発売日の少し前、大きな封筒に入った掲載号が郵送で届きました。執筆者になると、まだ書店に並んでいない最新号が読めてしまうんですね。しかし私は自分の記事を見るのが恐くて、数時間はページをめくることが出来ませんでした。小心者なんです。
そして迎えた8月18日。雑誌が書店に並ぶ日です。この日はもううれしくて、あちこち書店をハシゴしてしまいました。掲載誌が平積みになっているのを見てはにんまり。買っていく人を見ると、思わず「ありがとうございましたーっ」と頭を下げてしまいたくなりました。
これと同じ感激を、私は去年の2月にも味わいました。もちろんこれが書店に並んだ時です。
リブ・ラブ・サプリ―今日できるいいコト、365日暮らしのサプリ (「イエはてな」ライブラリー)
- 出版社/メーカー: 文化出版局
- メディア: 単行本
本屋さんを見つけると飛び込んで、並んでいる所を探して回りました。
本は気軽に読み捨ててしまえばそれまでですが、一度でも作る側に立つ経験をしてみると、一ページ一ページに込められた重みがよくわかります。そういう稀有の体験をさせてもらった最初の雑誌が書店に並んだ日。それが夏真っ盛りの8月18日でした。
ちょっと味気ないですがこれだけは忘れません!一ヶ月頑張った成果が振り込まれる日なので頑張りが評価されているんだと自分の中で確認する日ですね。できれば昭和の時のように、茶封筒に現金で給料が出ていたらもっとありがたみがあるんでしょうが、セキュリティ上しょうがないですね。。
確かに!忘れられませんね。
毎月近くなってくるとワクワクしてしまいます。
あまり変化もないんですが、残業で多少いつもより給料が多いと
これだけ頑張ったのか〜とシミジミ思ってしまいますね。
これは毎月忘れられないです。
すっごく大好きで大好きな人がいて
どうしても付き合いたくて仕方なかった人が人生で1人だけいました。
好きになってもらえるように努力して本当に頑張ったけど
結果はダメで。。。
そしたら彼から結婚している事実を聞かされました。
あまりに衝撃で、悲しくて、涙が止まらなかったのを覚えています。
軽い付き合いが出来たらと思って彼は言わなかったみたいですが
どんどん私が本気で好きになってしまったので
言えなくなったみたいです。
この日が来ると毎年思い出してしまう、ちょっと切ない思い出です。
私も大失恋した日は今でも忘れられません。
ちょうどバレンタインデーに告白したので日付もしっかり覚えちゃってます。
今でこそ旦那さんと過ごす、楽しいバレンタインデーですが
たまにふと降られたときの事を思い出すと辛くなりますね。
プロバイダーと契約してから数ヶ月たった後
ホームページ作成ソフトを使って
ホームページを作って、ネット上に公開を始めました。
その時、アクセスカウンターを置く事さえ
アタフタしましたね。
そのときの事は忘れられません
今では、ホームページよりブログの方を
頑張っているんですけどね
まだ閉鎖はしてないんですよ。
ここを見ている人にとっては極々普通で当然のことですが、
自分のブログをネットに公開することは幾ら匿名とはいえ勇気が必要です。
個人ブログは「日記」みたいなモノでして、自分の分身でもあります。
開設当初は何を書いていいのか不安でしたし、本当に読んでいる人がいるのか疑問に感じていました。
三日坊主か一週間でギブアップすると思っていました。
「ランキング」って何?「トラックバック」って何?「レス」って何の事?
訳のわからない用語ばかりで試行錯誤の日々でした・・・
しかし1年以上続いていますね!
始めて2ヶ月ぐらいの時にGoogle検索などで自分のサイト名なんかを見付けると
「全国区」になったみたいで嬉しいでしたね。
これからも書き続けて「ライフワーク」になるといいです。
一人暮らしを始めた日のことは、結構記憶に残っています。
部屋の整理をして、手伝ってくれた友達と食べて、飲んで、寝て……
最も印象が深いのは、その後の初めて一人で寝た日かもしれませんね。
部屋に一人だけで寝るのなんて、実家暮らしでも当たり前のことですが、
家というか、空間そのもので一人というのは、やはり余りある機会ではありません。
怖いとか寂しいという感覚ではありませんでしたが、
ああ一人なんだなと、どこか実感した記憶があります。
私も一人暮らしをはじめた日のことをよく覚えています。
実家から他県へと引っ越すため、荷物を小さなトラックへ載せて母と中央道をひた走りました。
母が運転していてくれていたのですが、突然母が「おかしいおかしい」
といいだしトラックは失速。高速バスの停留所へ。
私が見るとなんとガソリンが空!
私も悪かったけれど、運転の仕事の長いメイン運転手の母もなぜ気がつかなかったのか・・・
そんな恐怖のロングドライブをおえ8時間ほどかけて私の住むマンションへ。
荷物を運びいれ、次の日には仕事があるためにすぐ帰るという母は仮眠。
帰宅する前に母は私に封筒を渡してくれました。
「二つしか見つからなかった」
中には四葉のクローバーが二つ。
これから一人で知り合いの少ない土地に住む私のために
探してくれたのでした。
母子家庭で二人っきりの家族だというのに
私はずっと、母から離れたくて、それでこんなに遠い土地を選んだというのに
母は反対もせずに応援してくれて。ものすごくうれしかった。
いまでもそのクローバーを見るとあの日を思い出します。
1981年6月13日。ごくごく個人的な理由で忘れられません。
中学を転校した日です。それも、近畿から関東へと、文化の大いに異なるエリアを跨いで。
両親が関東生まれでしたし私も生まれは関東でしたから、言葉が「わからない」ということはなく、その意味では苦労が少なかった方かもしれませんが、やはり、中学生なりの文化や価値観が噛み合わないことが多く、悲しい思いをしました。そして何より、従来の友達に会えなくなってしまうのが悲しかったです。
あれからもう随分たちます。
それからなぜか、私は、6月頃に引っ越しをする事が2回ありました。入居先の空きを待っていたり、仕事の都合があったりという事情でしたが、転校を伴う引越が一番辛かったです。
高校サッカーを3年間続けてきて県大会で負けて引退が決まった日は今でも覚えていますね。1試合でも多くこのメンバーでやりたいと頑張って練習してきて、引退が決まった瞬間、自分の中で1つの時代が終わったような感覚に教われました。その後の人生でもイロイロなことがありますが、あれだけ向こう見ずに没頭したものの幕が引かれたときには、強い哀愁を感じました。
私の家はずっと転勤ばかりしていて、姉と同じ部屋でした。中学進学と同時に新居を建て移ることになりました。貯金をはたいて自分でベッドを選び、そのベッドに横たわって天井を見たのは大きな喜びでした。本やぬいぐるみを自由におけたのが嬉しかったです。
ネットが開通した日のことはよく覚えています。パソコンに詳しい男の子に来てもらってつないでもらいました。珍しくて姉と二人でパソコンを一日中見ていました。雑誌に掲載されていた漫画家のHPに行ってみたり、噂に聞く2ちゃんねるをみて文字の多さにあわてて戻ってきたり、とても楽しかったです。
もうあのときのときめきはありませんが、今でも楽しんでいます。
動物嫌いの父が動物好きの母に説得されて手のひらサイズの子猫を連れて来たのは6月のはじめでした。手のひらの上でミャーミャー鳴く姿は忘れられません。父がメロメロになるまで時間はかかりませんでした。家族中で可愛がり、家族でペットの話題で盛り上がりました。爪とぎのせいで家中の柱がボロボロになりました。それでもみんなで可愛がりました。
もう虹の橋に行ってしまったけれど、私が行くまで待っていてね。
たくさんのありがとうを言いたいです。
私はとても臆病で引っ込み思案な子供でしたので、初恋と呼べる思いを持ち始めたのは、かなり遅くなってからでした。
だから、初恋の始まりのことを、今でもとても鮮明に思い出せるんです。
その日は朝から雨でした。
登校途中、私はバシャッと、車がはねた水を浴びてしまったんです。
かなり濡れてしまいました。
傘を持ちながらカバンも持ってハンカチを取り出すのはなかなか大変です。
もたもたしていると、ほらとハンカチを差し出してくれた人がいました。
泥水を拭くなら男の汚いハンカチを使うに限ると言いながら手渡してくれ、
わー、キザなことしちゃったよ、恥ずかしいから先行くぞと駆けて行ってしまいました。
二つ隣のクラスの男子でした。
かっこいいですよね。
気取らず、飾らず、こんなに人に優しくできる人って本当にすてきだと思ってしまいました。
その日のお昼休み、私はこっそり二つ隣のクラスを遠くからのぞいていました。
廊下の隅っこをゆっくり歩きながら、気付かれないように、さりげなく、さりげなく。
そうしたら教室からその人が他の何人かの男子と一緒に出てきたんです。
私はもう、ドッキーン!です。
声が近付いてきます。
「今日、何の日だか知ってるか?」
その人が言っています。
一緒にいる男子はみんな「なんだ?」「しらねぇ」と言っています。
私も考えましたが、何の日かぜんぜんわかりませんでした。
そうしたら、私の前を通り過ぎながら、
「カニの日!カは五十音の6番目、ニは22番目。だから6月22日はカニの日」
と言ったんです。
私が、え?え?と指を折りながら数えていると、気付いてくれて、
今朝のハンカチ返さなくていいからと声をかけてくれました。
覚えていてくれたうれしさで、またドッキーン!
それからというもの、その人のことが忘れられなくなりました。
6月22日は、生まれて初めて好きという感情が生まれた日でした。
大学に入って友人がなかなか出来ず、つまらないなと思っていました。
確か、12月の8日くらいに何度か言葉を交わした事がある女の子のとなりに座りました。
授業の事で話が盛り上がり、思い切って「ご飯食べに行かない?」と声をかけたら彼女がOKしてくれました。
そのときから私と彼女のつきあいが始まりました。
あれから10年。
彼女は都会へ、私は地元に残りましたが、今でも続く親友です。
10年後もまたご飯食べようねと言い合っています。
とある日付と同じだったので、会った日はとても良く覚えています。
偶然に知り合った全く面識のない相手だったのですが、すでに十数年の長い付き合いになります。
少しでもお互いのタイミングがずれていたら、会ってすらいないような偶然の産物なので、今でもあの日、あの場所に行っていなかったら……みたいな話題になることがあります。
定期的に一人旅行ができるようになったのは、社会人になってからでした。
なので、お金より時間の方が取りづらいという形になっていたものの……やはり兼ねてから存在を耳にしていた青春18切符で、鈍行旅行をしてみたいという考えを抱いていました。
最初に青春18切符を使ったのは、1月の初め。
関東から名古屋、彦根を経由し、雪の降る金沢まで1日で到達しました。
非常に時間がかかりましたが、初めて乗る車両、初めて降り立つ駅、色々と印象に残っています。
やはり、新幹線と比べると、凄く時間がかかってしまって、現地で過ごせる時間が短くなってしまいます。
ですので、最近ではなかなか使えるタイミングが見つかりませんが……また時間ができた時には、ゆっくりと時間を気にせず鈍行旅行をしてみたいと常々思っています。