「夏は来ぬ」by id:Catnip


母が大好きな曲です。母は歌が好きで、家事をしながらでも、いつも何かを口ずさんでいるような人でした。たいていはその時の流行り歌でしたが、数曲スタンダードな歌があったのです。その中の一曲がこの「夏は来ぬ」でしたが、特に思い入れのある曲のようで、他の曲は一番だけで終わってしまうのに、これだけはラストまで歌わないと気が済まないというように、五番まで歌い通すのです。途中からはもう鼻歌では済まなくなってきて、最後の方はまるで独唱会です。息子としては聞いている方が恥ずかしくなってしまって、もう勘弁してよと言いたくなってしまいますが、歌い終わるととても嬉しそうに微笑むので、その笑顔が見たくて、黙って聞いていました。
父を亡くしてしばらく。まるで歌を忘れたかのように沈んでいた母が、やっと小さな、かすれるような声で、この歌を口ずさみました。まだ言葉の意味も分からない頃から聞かされ続けていた歌です。私もすっかり歌詞を覚えています。一緒に歌いました。もちろん五番まで。
「おこたり諌むる 夏は来ぬ」(引用、作詞・佐々木信綱)のあたりで、母は静かに涙を流しました。この三番の節は、蛍の光窓の雪と同じ「蛍雪の功」の故事を踏まえて作られた歌詞です。父と出会った若き日を想起していたのか。それとも「蛍の光」を思い起こして悲しみに決別を告げようとしていたのか。おそらくその両方でしょう。五番まで歌い通してにっこりと微笑んだ後、母は涙を流さなくなりました。
そんなことがあって以来、この曲は私にとっても特別な曲になりました。


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