「父のすり鉢」by id:TomCat


キッチンに大きなすり鉢が置いてありました。それは父が古道具屋で見つけてきた物で、骨董価値は全くありませんが、尺五と呼ばれる直径一尺五寸(約45.455cm)の大きな物で、新品を買えば数万円はするというしろものでした。


父はおそらく、プロ仕様の道具という所に惚れ込んで買ってきたのでしょう。核家族家庭にそんな大きなすり鉢は不要ですが、父はそのすり鉢でとろろ汁を作ってご満悦でした。


とろろ汁を作り始めると、父は必ずまだ子供だった私を呼びました。そして、すり鉢とすりこぎの使い方を、私に伝授しようとするのです。とろろ汁なんてそう頻繁に作る物ではありませんでしたが、毎回のことでしたので、いつしか私はすっかり、すり鉢すりこぎ使いが板に付いてしまいました。


そんなすり鉢にも一度だけ、大きな危機がありました。母のちょっとした不注意で、落としてしまったことがあったのです。たまたま私が至近距離にいたので、それこそスライディングをするようにして飛び込んで、間一髪、キャッチして無事でした。が、私は頭はぶつけるわ、大きく重いすり鉢を変な姿勢でキャッチしたので手首はくじくわで、もう散々な目に遭いました。でも、すり鉢を守ったというより、母を守ったみたいな気持ちになって、ちょっとしたヒーロー気分でした。


さて、優しかった母が早々に天に召されてしまうと、家の中には父と私の二人だけが残されました。それこそ火が消えたような寂しい家になりました。私も父も気力が失せて食事を作る気にもなれません。葬儀が終わってしばらくは、店屋物とインスタントラーメンが交互にテーブルに上る日が続きました。


飯、炊いてないなあ・・・・。ぶらりと街に出た私は、そんなことを考えながら歩いていました。いつまでもこんな生活はしていられない、久し振りにまともな食事を作るかとスーパーに立ち寄ると、山芋が目に付きました。さっそく買って帰り、その夜は久し振りにすり鉢の出番となりました。
「お前の腕前はまだまだだな、見てろ、こうやるんだ」
父が自慢の手さばきを披露します。
「何を言うか、見よこの鮮やかな手つきを」
もちろん私も負けてはいません。久し振りに家に笑顔が戻ってきました。調子に乗って作りすぎてしまったとろろ汁は、二人ではとても食べ切れそうにありませんでした。


そんな父も早々に母の所に行ってしまい、私は今一人で、この巨大なすり鉢を使っています。たかがすり鉢。されどすり鉢。この大きさは、私にも家族がいたという証明です。いつかこのすり鉢のサイズがちょうどよくなる家庭を築きたいと思います。その時再び、このすり鉢の物語が動き始めることでしょう。


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