ディア・ライフ #001
みなさまこんにちは、hazamaです。先日の“リブ・ラブ・サプリ〜SEASON”でも、「男の和装の夏じたく」という素敵なシーズン・サプリが登場していましたが、私も!昨日は、そろそろ単衣の着物を出しておかなくちゃと、夏帯と一緒にお部屋にひろげました。今年着たいものをコーディネートしたり、袷の着物も一緒に整理しながら今度6月の着物フリマに持って行くものを用意したり。着物って不思議ですよ。絹や綿の衣、さわっているだけで心落ち着いてきます。ぴしっとたたんだ佇まいも気持ちよくて。この夏は気軽に浴衣で銭湯や夕涼みも、と浴衣と綿の帯の引き出しもつくったので、今から楽しみですw
「今も耳に響く……イエの音、家族の音」
「今も耳に響く……イエの音、家族の音」
さて、今日は“ディア・ライフ”#001の語らいのスタートです。これまで“イエ・ルポ”としてイエや家族のエピソードを語っていただいてきましたが、コンテンツ・タイトルも新たに、とりわけみなさまの胸に刻まれた「愛しい日々」を、ショート・エッセイを綴るように書き伝えて下さいませんか? 今回のテーマは、「今も耳に響く……イエの音、家族の音」。うんと以前には、「音楽のあるイエの思い出」というテーマで語り合ったことがありましたね。今回は音楽はもとより、かつてイエで耳にしていた懐かしい音や、今のイエで愛しみを感じられている暮らしの音を、どんなことでも。何気なく耳にしていた音の記憶から、さまざまな暮らしの光景が物語として浮かび上がってくると素敵ですねw さて、“ディア・ライフ”1ページ目、どんなシーンが綴られるでしょうか。みなさまからのメッセージを楽しみにお待ちしています!
“アイデア・タイトル”
「父が帰る車の音に耳を澄ました夜」
by hazama
“メッセージ”
あれは中学生の頃からだったでしょうか。静かな夜、FMラジオの小さな音をかたわらに、私は毎晩机に向かってノートや本をひろげながら、外の気配に耳を澄ましていました。仕事で遅くなる父の帰りを待っていました。時計はたいてい11時頃。
ブルン……イエよりうんと下の橋から、坂を上がってくる車の音。父のエンジンの音は毎夜同じで、すぐに聞き分けられます。帰って来た! 私はノートを閉じて、寝静まったイエの玄関へ向かい、鍵を開けます。イエの前に着いた車からバタンとドアを閉める音がすると、玄関を開けて「お帰りなさい!」。背広姿の父から重い仕事鞄を受け取ってダイニングまで運ぶのも私の役目です。
朝5時に起きてお弁当や朝食と忙しい母は早寝なので、私が父の夕食と晩酌のおともです。といっても、母が用意した夕飯をあたためて、器によそって並べるだけ。そのテーブルで父は、新聞やニュースの話、会社であったことや、聞いてもよくわからない仕事の話をしてくれるのです。その頃、まだ学校しか知らない私には、父の話が大きな世界への窓のようなものだったんですね。ちょっと大人になった気分がしたからかしら。私は父の話を聞くその少しの時間が楽しみで、毎夜寝ずに待っていたものです。父も、早く寝なさいとは言わなかったな……。もちろん、父がバスルームに向かう時に私は眠りに就くのですが、ダイニングで父と話をするとようやく一日が終わったような、安堵した気持ちで眠れるのでした。
それは私が高校を卒業して進学でイエを出るまで、ずっとつづいた日課でした。FMラジオの音をかすめて聞こえる父の車の音。静まり返った夜の道を、うちへと近づくエンジンの音。ブルン、ブーン……それは今でも耳の中に響いて聞こえる懐かしい音です。
※今回の「いわし」ご投稿は5月24日(月)正午で終了とさせて頂きます。
※今回のピックアップ賞は5月25日(火)に「イエはてな」にて発表いたします。
※〈イエはてな〉では、いわしへ投稿されたコメントと画像をダイアリーに転記しています。できましたら「投稿画像のwidth属性」を450px以内に指定していただけますようご協力をお願いいたします。
いわしの回答(転記)
実家のぜんまい時計
私たち家族を柱の上から見守ってきた時計です。
今でも現役で30分に一度、昼夜を問わず鐘がなります。
正時にはその時の回数分、そして30分に1回。
優しい針の音と鐘の音がこの家の時の流れを見つめているようです。
針の音は気にすると聞こえる音、カチコチカチコチ。
しかし何かに集中していたり、気にしなければ聞こえない音。
私はこの時計で時間のよみ方を習い、月に一度ぜんまいを巻くのも私の仕事でした。
椅子に上がって、蝶のようなぜんまい回しを文字盤に二箇所ある穴に入れて回します。
「ギコッ、ギコッ、ギコッ」
「巻きすぎたら、ぜんまいが切れるよ」。
そんな父の言葉に、おっかなびっくり力を加減して巻きました。
ぜんまいがしまっていくと、カチカチという音が心持ち元気になった気がして、なんだかうれしくなったものです。
振り子ケースの中がぜんまい回しの置き場です。
昔、使ったあとに戻さずに持ち出してしまった翌月には家中を探す大騒ぎになりました。
この時計を見るとたくさんの思い出が甦ってきます。
「ボ?ン、ボ?ン、ボ?ン、ボ?ン、ボ?ン」。
いつも変わらぬ音が、今日も時を知らせてくれます。
時計が時間を刻むように私も家族との思い出を心に刻んで行こうと思います。
わが家にも、ゼンマイ式の振り子時計がありました。カチ・カチ・カチ・カチと時間を刻む音は、普段は全く気にならないというか、聞こえてもいないような音なのですが、一度気になり出すと、ずいぶん大きな音だったんだって気付くんですよね。とりわけ一人でお留守番の夜などには、あの音が大きく響いて耳に届きました。
「ボ?ン、ボ?ン、ボ?ン」という音も懐かしいです。毎正時には時間の数だけ。30分には1回だけ。だから12時半から1時半の間は3回続けて「ボ?ン」だけなんですよね。それでも音だけで時刻が分かってしまう振り子時計。機械なのに、人と心が通じ合っていたのかもしれません。
id:sumikeさんのお宅の時計は、今も現役なのですね。わが家の時計は、ゼンマイが切れてそのままになっています。直せないことはないなあ。新しいゼンマイを探して、もう一度時を刻んでもらいたくなってきました。
軽オフセット輪転機というものがあります。大きさは机の上に乗せられる程度。でも印刷の仕上がりは、ちょっとした商業印刷物と変わらない出来映えです。一時代前には、大量の印刷物を作る必要のあるオフィスなどで盛んに使われていた印刷機でした。
その中古が、わが家にやってきたのです。父は地域の文化や歴史を研究するサークルを作っていましたので、その会報をこれで印刷しようというのでした。これさえあれば何百部でも刷れるぞ、町中の人にだって配れるぞと父は上機嫌でした。
しかし、ただ同然で頂いてきたジャンクですから、まともに動くはずがありません。モーターは生きているので主要部分は動きますが、紙送りのローラーが動きません。
機械の横には自動車のシフトレバーのような物が付いていて、それを切り替えることによって、インキ練りだけの動作、印刷原版のドラムを回してインクを乗せる動作、そして紙送り機構も動かして印刷する動作といったモードが選べるようになっているらしいのですが、そもそもマニュアルが付いていないので、操作の方法からしてよく分かりません。
私も印刷機が有れば色々遊べそうなので、修理を手伝うことにしました。しかしいくら機械物が好きだと言っても、当時の私はまだ中学生です。文系で機械関係には詳しくない父と、ちょっと前までは小学生をやっていた子供が、機械油と印刷インキにまみれて大奮闘。でもそれはとても楽しい時間でした。どちらも全く未経験のことに取り組んでいますから、親だから教える側、子だから教わる側といった図式がないのです。二人で考え合い、二人で壁に突き当たって、それを二人で乗り越えます。こんなに楽しい親子の時間を過ごしたのは初めてでした。
休前日の夜は徹夜をしてしまったこともありました。気が付くと朝。お腹空いたなと父が台所で作ってくれた焼きうどんは最高でした。母が起きてきて、あららら、このイエにはおっきな子供が二人いるのねと苦笑していました。
こうして一週間以上の悪戦苦闘の末、複雑な機構を全て把握し、装置の隅々まで知り尽くした上でのオーバーホールが完了しました。
印刷原版は紙版といって、普通のPPCコピー機で作ることが出来ます。インキを弾く加工が施された原版をコピー機に通すと、トナーが乗った部分にだけインキが付着するようになります。それをゴムローラーに転写してさらに紙に転写する。これが紙版オフセットの印刷原理です。
行くか。テスト用の印刷原版を作りに、二人でコンビニに走りました。しかし純正の紙以外使わせてくれないコンビニばかりで、どこに行ってもオフセット用原版へのコピーは断られてしまいました。仕方なく二人でアイスを買ってしゃぶりながら帰宅。翌日父が会社のコピー機で原版を作ってきてくれました。
いよいよテスト印刷です。インキと原版をセットし、スイッチを入れます。シフトノブをインキ練りモードにすると、ガシャコンガシャコンと大きな音を立てながら印刷機が動き始めました。よし、転写するぞ。原版をセットしたドラムと印刷のためのローラーが回り始め、一層けたたましい音になりました。全てが機械式ですから、とにかく音が大きいのです。
「大丈夫だよね、壊れないよね……」
「だと…思うんだけど……」
なんとも心許ないですが、本当にそんなに不安になってしまうほど大きな音でした。
さあ、刷るぞ。印刷枚数をセットして…。レバーを印刷モードにすると、大成功でした。紙送り機構の動作がいまいちでしたが、タイミングはしっかり合っていたので、給紙ローラーの圧力調整で快適に動作するようになりました。大成功です。こうして親子の印刷室がわが家に登場することになりました。
それからは色々な印刷物を刷りました。印刷という手段が手に入ると、それは広報という力を得ることになります。父も私も、そして母までもが、この印刷機に様々な活動を広げてもらいました。
大きな音を立ててガシャコンガシャコン。もうポンコツ丸出しの音を立てて動く印刷機ですが、旧式の機械は頑丈ですから、メンテナンスさえしっかり行っていれば、十年でも二十年でも動いてくれます。旧時代の印刷機なので段々消耗品が入手しづらくなってきましたが、それでもまだまだ現役として十分使える動作をしています。
わが家に響くこのカシャコンガシャコンという大きな音が、父と子の絆の音、そして家族の元気の証しの音でした。きっとこれからもこの印刷機は活躍し続けてくれると思います。
親子で直した中古印刷機の奏でる音。これはその時だけでなく、様々な活動を思い起こさせてくれる音として耳に残りそうですね。
このエピソードでとりわけ素晴らしいと思ったのは、外での活動が、常に親子の絆で蘇った印刷機によって、イエと、家族と結ばれていたであろう点です。
人は外での活躍が顕著になってくると、しばしばイエから心が離れがちです。時にはイエのことを全くかえりみずに、外での活動に没頭します。それが悪いとは言いませんが、外の活動の基点が家族の絆と同じ位置にあるということは、本当に素晴らしいことだと思うんです。
私も自分の物ではありませんが、同人誌作りに旧型のオフ輪を回していたことがあります。あれはすごく大きな音ですよね。でも、とてもリズミカルな音でもあります。あの音を聞いていると、心が弾みます。
今も現役で動き続ける印刷機。親子が支え続ける印刷機。それが今も響き続けるイエの音。それが外に向かっても、イエの中に向かっても、いつも温かな心とアクションを繰り広げていってくれる。そんな愛しき日々、ディア・ライフ。素晴らしい家族像を見せて頂きました。
チリチリチリと鈴の音が聞こえると、母が帰ってきた合図。これが今も続く「イエの音、家族の音」です。
母は同じような鈴を何個も持っています。赤い紐の付いた根付けの鈴。それをバッグや財布など様々な持ち物に付けて、いつも持ち歩いているのです。ですから、外出すると鈴の音のする場所が母の居場所。子供のころはこれで何度か迷子にならないで済みました。
一時期母は体の具合が優れず、ほとんど外出がままならなかった時がありました。その時は、イエから鈴の音が消えていました。鈴は全て外出時に持ち歩く物に付けられていましたから、外といえば庭に出ることしかなかった時期の母は、それらを手にすることが無かったのです。
今は体の調子が良くなり、買い物も楽々ですし、時にはお仲間と一緒の外出などもしています。帰宅すると、元気良く鈴の音をチリチリさせながら玄関を入ってきます。家族の健康がイエの幸せ。この鈴の音は、わが家の幸福の音です。父は鈴で居場所が分かるなんて猫みたいだなと笑いますが、父もそんな鈴の音を喜んでいるようです。
さて、母が同じような鈴をいくつも持っているのには、わけがありました。私がそれを知ったのは、小学校の高学年のころだったでしょうか。母が財布を持ってやって来て、この鈴、紐が切れても落ちないようにする工夫はないかなと言ってきたんです。
鎖に変えようかとも思ったけれど、やはりこの赤い紐に意味があるから、見た目はこのままで何か工夫できないかなと言うので、うーんと考えて、細いテグスを沿わせたらどうだろう、テグスなら丈夫だし、ちょっと見には目立たないし、紐とテグスを赤い糸でくくっておけば間に物を引っ掛けたりすることも無いと思うよと答えると、それは名案と言って喜んでくれました。そして、この鈴のいきさつを話して聞かせてくれました。
母は若いころ、今持っている物とは違う初代の鈴を、とても大切にしていたそうです。ある意味、お守りのような物だったようです。当時は母恋する乙女で、それに何かの願を掛けていたようでした。
ところがずっとお財布に付けて持ち歩いていたものですから、いつしか紐が擦り切れて弱くなっていたんですね。知らないうちに落としてしまったのだそうです。大切な鈴。それに加えて大切な願いを託していた鈴。それを無くしてしまったのですから、それはもう大変な落ち込みようだったそうです。
そうしたら、それを見かねた友だちが何人も、同じような鈴を見つけては相次いでプレゼントしてくれたのだそうです。それも一人一人別々に、相談し合ったわけでもないのにです。アクセサリー屋さんの袋に入っていた鈴もあれば、何々神宮と書かれた袋に入った本当のお守り鈴もあったそうです。友だちみんながそれぞれ自分の思い当たる場所に足を運んで買ってきてくれた鈴。それらは初代の鈴にも増して、母の宝物になったそうです。
そんないきさつで何個も貯まった鈴。母はそれを今でも友情の証しとして大切にしています。私が進言したテグス作戦の成果か、今も一つも無くさずに持ち続けているようです。今日も母は地域の女性の集まりに出席して、元気良く鈴の音を鳴らしながら帰ってきました。
最近はもう一つ、新しい鈴の音も加わっています。それは自転車に付けられた鈴です。父が自治会の役員になったことから、それに伴って、母も色々な役目で出かけることが多くなりました。その時の足に使う自転車に、新しい鈴が付いたんです。
これは何かというと、歩道を走行する時の安全確保の鈴。2008年の道交法改正から、自転車通行可の歩道のほか、「車道等の状況に照らして自転車の通行の安全を確保するため、歩道を通行することがやむを得ないと認められる場合」にも自転車の歩道内通行が認められるようになりましたが、歩行者としては、どんなに安全運転でゆっくり走ってくれている自転車でも、気付かず横を通られるとドキッとすることがありませんか。
ところが母の場合、バッグなどに鈴を付けているので、その音で歩行者が気付いてくれるんです。それならばと小さな鈴を一個新調。ちょっと頑丈な鎖を付けて、自転車専用のアクセサリーにしたのでした。
この鈴は、自転車交通安全の鈴として、ちょっと町内で流行り始めています。時々歩道内でベルを鳴らして歩行者をどかしながら走っているような自転車を見かけますが、これは道交法違反。法的には自転車のベルは自動車のクラクションと同じ扱いなんです。たとえ子供がやったとしても違反は違反。反則切符を切られるかどうかの問題ではなく、社会のルールの問題です。
先の道交法改正で、13歳未満の子供には「歩道を通行することがやむを得ないと認められる場合」以外でも歩道上通行が認められるようになりましたが、この鈴をそうした対象者にも普及して、それと一緒に交通ルールを教えていくような取り組みは出来ないかなぁと思います。鈴はささやかな音しかしませんから、町中に普及しても、それが迷惑になることはないでしょう。わが家の幸福の音である鈴の音が、交通安全の願いの音になればいいと思います。
自転車に鈴、これは素晴らしいアイデアですね。最近は音の静かな電気自動車にわざと音を出させて安全性を高めようという動きがありますが、自転車もまさにそれと同じですよね。
友情の鈴を大切にしてきたお母様の素晴らしいアイデア。これ、ぜひ全国に広まって欲しいと思います。エコロジー指向のイエはてなですから、ここからかなり自転車を愛用するライフスタテルが広まってきていると思いますが、それをさらにもう一歩進めて、イエはてなから歩行者に優しく走ろうの鈴の運動。これはインパクトがあると思います。
イエラボの小山薫堂さんが展開している東京スマートドライバー運動と共に、兄弟サイトのイエはてなからは、優しい鈴の音と共に繰り広げていくスマートサイクリスト運動。これは盛り上げてみる価値があるかもしれません。私も自転車を愛する者の一人です。早速鈴を付けて、歩行者の目線で優しくマチを走ってみたいと思います。
うちの猫、朔ぴょんは、カリカリの前に座ってじっとしていることがあります。
何をしているのかというと、声を掛けて貰うのを待っているのです。
そこで「入ってるじゃ!召し上がって!」と言ってあげると、カリカリを食べ始めます。
動画ではすぐに食べていますが、実際には数回繰り返さないと食べ始めないことがあります。
夜中、私たちが寝ている時には、勝手に食べているのですが・・・
http://www.youtube.com/watch?v=ZpXqAWpRcT0
それでも食べない時には、これまたなぜか「怒っちゃやぁ、怒っちゃやぁ」と言いながらお腹を撫でると、ほぼ確実にカリカリを食べます。
何らかの「声を掛けて」もらわないと、食事の気分が出ないのかもしれません。
???
また、朔ぴょんは鼻炎があるので、よくクシャミをします。猫がクシャミをするの?と思われるかもしれませんが、します。
「ブシッ」と吹き出すようなクシャミをします。
http://www.youtube.com/watch?v=XftnPOgl8tE
季節の変わり目など、かなり辛そうです。急に寒くなったりすると鼻炎が酷くなるようです。
そういう時には動物病院に行って、鼻うがい(生理食塩水を鼻に注入してすすいで貰う)をしてもらったり、消炎剤を処方してもらったりします。
???
朔ぴょんには、奇妙な癖があります。
洗面器で足浴をしていると、そのお湯を飲みに来るのです。
動画ではあまり音が聞こえませんが、「ぺくぺくぺくぺく・・・・・」と、可愛い音を立てて飲み続けます。
http://www.youtube.com/watch?v=SPIgItJ2Kcg
猫は元々肉食で、獲物の体温に近い温度のぬるま湯が好きだという話は聞いたことがありますが、足浴のお湯も、確かに40度くらいで、ちょっと高めの小動物の体温に近いのかもしれません。
久々にまた再放送になっている某コメディドラマ
前回放送になった時にほとんど見てるので
正直、絶対に見なきゃとあせるものではないけれど
もし、偶然見る事があるとしたら、一人でも番組を見て
番組の内容にバカ受けしてしまう事があります。
うーん、でもね・・
なんだか寂しくなるんですよね
番組には、満足してるのだけど
やっぱりコメディは、一人で見るよりは二人以上で見て
笑うって見るのがいいなって・・
家族がそれぞれ年をとって
すごす時間が違ったりするからしょうがないのだけど・・。
あのころのようにTVを見て
一緒に笑うのって難しいのかな
朝には、大体、めざましテレビを見ていますが、区切りの時間に特徴ある音楽や声が聞こえるので、
朝の忙しい時間、そろそろ何をしなければ……という目安になっていいですね。
これは、大体、どの番組でも、そういった利用方法を考えて、定番にしているのかと思います。
占いをやったら、出かける時間、みたいにコーナーで判断することも出来ますね。
私が子供のころから電気、電波に関することが大好きだったのは、間違いなく父の影響です。父もそういうことが大好きで、よく海外の短波放送を聞いていました。そして時々、音声の放送ではなく、ピーピーいうモールスに耳を傾けていたことがあったんです。それは子供心にも、とても興味深い物でした。
こんなの聞いて意味がわかるの?とたずねると、まあ8割くらいなら解読できるかなとのこと。父は特に無線の免許などは持っていませんでしたが、昔の電気電波好き少年は、常識としてモールス符号くらいは知っていたとのことでした。父が子供のころは「模型とラジオ(科学教材社刊・1984年廃刊)」「初歩のラジオ(誠文堂新光社刊・1992年休刊)」や「ラジオの製作(電波新聞社刊・1999年休刊)」といった電子工作を題材にした青少年向け科学雑誌が全盛期で、そうした雑誌を1年も読んでいれば、必ず一回くらいはモールスをおぼえようといった特集記事があったらしいのです。
ねぇ、これ何て言ってるの?と聞くと、父は聞こえてくるモールス信号を、鮮やかな手つきで書き取ってくれました。しかし見せてもらった紙は、2文字か3文字のアルファベットの組み合わせばかりが並んでいます。今のご時世、子供だって多少の英単語は読めますが、そのどれもが私の知らない文字列ばかりです。
「なに、これ」
「モールスの世界では言葉をそのまま打つことは少ない。ほとんどの単語が略語になっているんだ。このQから始まる3文字は国際条約で決められた世界共通コード。たとえばQTHといったら無線局の存在する位置という意味になる」
「この数字は?」
「こういうのは特に定めた決まりはないけれど、無線の世界では誰もが知ってる略語だね。73と言ったらさようならの意味。特に男性から女性に対して送る時には88という数字を使う」
「へー、面白い」
「この599というのはRSTコードと言って、最初のRは了解度、つまり信号の聞き取りやすさを5段階で表す。5が最高で完全に了解できるという意味。次のSはシグナルの頭文字で電波の強さを表す。普通のラジオ放送のように強く届いてくれば評価は9だ。Tはトーンの頭文字で、音の質を表す。ピーピー言う音が濁り無く聞こえれば9だ。無線の世界ではこういう情報を交わして、通信状態やそれぞれの無線機の状態を確かめ合うわけだ」
「へぇぇぇぇ」
少しダイアルを動かして別の信号を受信すると、今度は同じモールスでも、ちょっと崩れたリズムの音が聞こえてきました。
「こういう崩した打ち方をするのはベテランに多い。ほら今、トツーーート、と真ん中の音を長く伸ばしたね」
「うん」
「モールスではトツートは了解という意味なんだけど、この人は今、へぇぇそうなんだぁという驚きや感動の意味を込めて、真ん中の音をぐーっと伸ばしたんだと思うよ」
「そんなのもわかるの?」
「わかるよ。こんな原始的な通信方法でも、人はちゃんと心を伝えられるんだ。だから人間はすばらしい」
文章にすると実際の言葉のやり取りとはちょっと変わってしまいますが、「だから人間はすばらしい」という言葉だけは当時の記憶そのままです。無味乾燥にしか思えない電子音にさえ、心を乗せて飛ばすことが出来るんだ。この発見は、子供心にも人のすばらしさを強く印象づけてくれたように思います。
今、私がイエはてなにいるのも、この時の体験があったからかもしれません。文字だけの語らい。でもその中に、まるで相手の表情までが読み取れるような心が込められている。そういうコミュニケーションがここにはあります。
子供時代に触れたモールスから今はインターネットを介した通信へ。方式は大きく変わりましたが、でも通信は心を伝えるものという捉え方は、今もずっと変わりません。どんなに通信方法が変わっても、人はそれに心を乗せていくことが出来る。だから人間はすばらしい。子供時代に父と聞いた電波の音が、今も私にそれを教え続けていてくれます。
我が家には昔アマチュア無線の受信機がおいてありました。その受信機が一年でもっともうるさくなったのが、コンテストというものが行われているときでした。コンテストは確かできるだけさまざま地域で、できるだけ多くの相手と交信するのを競うものだったと思います。禁止事項として同じ相手と2度以上交信してはいけないようになっていました。このコンテストが行われているとき、ものすごくにぎやかで、楽しくコンテストに参加しました。
小さい頃、郊外の実家で犬を飼う前に、お祭りの夜店でひよこをもらってきたことがあったのですが、立派な鶏冠のついた、おしりの羽がふわふわのニワトリに育ちました。このコ達が朝になるたまにコケコッコーと鳴くのが当時の家族の休日の目覚ましでした。(ご機嫌があったのか、毎日は鳴かないのと、結構お寝坊さんで遅起きのニワトリでした。ご近所迷惑になるのではと心配していたのですが、ご近所の人たちは風情がある、朝という感じがするねぇと気に入っていた様子でした。)去年、地方に別荘を建てた友人を訪ねたら、ご近所のおじいちゃんおばあちゃんがオーガニック有精卵を採るためにニワトリを飼っているらしく、コッコッコッコと近所で鳴いていて懐かしかったです。都心部ではもうすっかり珍しい光景ですよね。
母はピアノが大好きでした。しかしわが家にピアノがやってきたのは、私がずいぶん大きくなってからのことでした。それまで母が何を弾いていたのかというと、オルガンです。電子的なキーボードじゃありません。リードオルガンだったんです。空気の力でハーモニカやアコーディオンと同じ構造の「リード」という金属片を振るわせて鳴らす楽器。あの、アコーディオンと同じような音のする楽器ですね。
もちろん当時も電子オルガンはありましたが、父がどこかからもらってきてくれた古い古い、それは古いリードオルガンを、母は大切に弾いていたのでした。
しかし、ピアノとリードオルガンで同じなのは鍵盤の並び方だけ。全く異なる楽器です。それでピアノ曲を弾こうとすれば、普通はかなりとんでもない演奏になってしまいます。ところが母は、ショパンでも何でも、まるで最初からオルガンのために作られたかのように弾いてしまうのです。幼い私は元々そういう曲なんだろうと思って聞いていました。
「楽しい曲だね」
「わかる?」
「うん、ちっちゃなわんこがコロコロ転がってるような感じ」
「まー、この子は天才かもしれないわ!!」
親バカ・・・・w
そうです、この時弾いていたのは「子犬のワルツ」。今になって思います。あのまともに調整もされていないガタガタ鍵盤で、よくもあんなに早く滑らかに指が動かせたものだと。そして、右手の流れるようなメロディを支えていくのが左手の豊かな響きです。それを鍵盤を離せばブツリと無粋に音が途切れるリードオルガンでよく表現できたものだと。私こそ「子バカ」かもしれませんが、リードオルガンで子犬のワルツを完璧に表現して聴かせてくれた母は、稀に見る天才だったと思います。何も知らない子供の心にショパンの世界を映し出すなど、本物のピアノを使っても難しいことなのに、それをオルガンで・・・・。
そんなプロにだってなれたはずの表現力を持った母が、深い愛情を込めて弾いてくれるのですから、それを聞いて育つ子供が音楽を好きにならないはずがありません。私は毎日母のオルガンに合わせて歌を歌ったり、母の伴奏に合わせてたどたどしい手つきでメロディを弾いたりして、楽しい遊びに夢中になっていました。
中でも面白かったのは、オルガンの音でおしゃべりをする遊びでした。日本語は音程のアクセントが主ですから、けっこう言葉をメロディに置き換えることが出来るのです。
「ぶぶ、ぶぶぶ?」
いま何時?と聞いています。まだ時計、よく読めないのに・・・・。えーとえーと、
「ぶぶぶ、ぶーぶっぶぶ」
さんじ、じゅういっぷん。
「ぶぶぶー」
あたりー。
「ぶー、ぶぶぶー」
ねー、おやつー。
「ぶぶぶぶ」
はいはい。
親子だから、こんな音で話が通じたのかもしれません。でもこれで、私は作詞作曲の基礎を身につけたように思います。言葉にはメロディがある。メロディの中にも言葉があるという気付き。それは今でも私の宝物です。
さらに面白い遊びは、メロディのキャッチボールのようなものでした。母が短いフレーズを弾きます。それを私が受け取って、続きのメロディーを考えて返します。すると母はそれをサッと楽譜に書き留めて、さらに続きのメロディを返してくれます。こうやってしばらく音のキャッチボールを繰り返していると、それが一つの曲になっていきます。
たいていは辻褄の合わない変な曲になって、続けて弾くと大笑いでしたが、時には素晴らしいメロディになっていることもありました。そんな時はそれに歌詞を付けます。
「ねえ、このメロディから何を思い浮かべる?」
「うーんとね、おいしいお菓子。こないだ食べたおさとういっぱいのドーナツみたいなの」
「よーし、じゃドーナツの歌にしよう」
こんなふうにして、何曲かのわが家のオリジナル曲が生まれていきました。あの頃の楽譜、どこにいってしまったんでしょう。母は楽譜をとても大切に扱っていましたから、子供との遊びの時のメモだって、粗末に扱ったりはしていなかったはずなんです。探せばきっとどこかに保存されているはず、と思うのですが、どんなに探しても見つかりません。思い出したいのに、ここまで出かかっているのに出てこない、そんな母と私のオリジナル。いつかきっと記憶をたどって、蘇らせてみたいと思っています。
こんなふうに、幼い私に、かけがえのない大切な宝物を贈り続けてくれたオルガンの音。母の愛を、そして母から受け継いだ音楽への思いをしみじみ感じる時、いつも私の心の中には、あの懐かしいリードオルガンの音色が響いています。
祖父の吹く口笛は、澄み渡った素晴らしい音がします。祖父は口笛で鳥の鳴き声を真似るのも上手でした。祖父とお散歩に出かけると、よく色んな鳥の鳴き声を真似してくれました。まだ寒い浅い春に、歩きながらホーホケキョ。すると塀の向こうから「あら?」なんていう声が聞こえてきます。本当のウグイスの声だと思った人がいるようです。祖父はいたずらっぽく唇に人差し指を当てて、シーッというような顔をして微笑みます。私も唇に人差し指を当てて、うんうんとうなずきます。しばらく歩いて遠ざかってから、二人でお腹を抱えて大笑い。そんな楽しいお祖父ちゃんでした。
祖父は色んな歌も口笛で聞かせてくれました。中でも祖父が大好きだったのは、坂本九さんの「見上げてごらん夜の星を」でした。夏の夕方のお散歩の帰り、河原でこの曲を聞かせてもらっていたら、なぜかじんと涙が出てきてしまったのを懐かしく思い出します。
ある時私は、あまりに祖父の口笛が澄んだ響きなので、どこまで離れて聞こえるか試してみたくなりました。祖父に立ち止まって口笛を吹いてもらい、私だけどんどん先に進んでいきました。どれだけ歩いても、まだ口笛の音が聞こえます。うわぁ、すごく遠くまで響くんだと思いながら振り返ると、祖父の姿は遥か向こう。私はあまりに離れすぎて心細くなってしまい、半分べそをかきながら走って祖父のもとに戻りました。そのくらい、祖父の口笛の音は美しい音がしたのです。
子供の歌も、たくさん口笛で吹いてくれました。祖父と手をつなぎながら、口笛に合わせて歌を歌います。いつも音楽のあるお散歩。それはとても楽しいお散歩でした。
ある時、祖父が怪我をして入院してしまったことがありました。幸い怪我をしたのは足だけだったのですが、祖父は「病院では大好きな口笛が吹けないなぁ」と、それが寂しそうでした。ところがです。祖父が口笛の名手だと知った入院患者さんたちがその音楽を聞きたがって、先生や看護師さんと協力して、病院の中で「口笛リサイタル」を開いてくださることになったんです。
当日は私も呼んでもらいました。祖父は足を骨折していたので、車椅子で登場です。病院のホールには人がいっぱい。祖父は次々と、色々な曲を披露していきました。どれも昔の懐かしい曲で、祖父より年上そうな皆さんが涙を浮かべながら聞いてくださっていました。最後に私が花束贈呈です。大きな拍手の中を進み出て祖父に花束を渡すと、アンコールの声がかかりました。すると祖父が私の手を握って、「ほらいつもの、一緒に歌おう」。
「うん!」
私は元気良く答えました。
「それではアンコールにお答えして、孫の○○が一緒に歌います。聞いてください、『靴が鳴る』」
いつものように、口笛で前奏が流れます。
ドーラドソーラソミードー レードレミーレドー
さんはい
おーてーてー つーないでー のーみーちーをーゆーけーばー
この曲は二番まであります。私はいつも祖父と歌っていたので、ちゃんと二番まで歌えました。一番は歌を歌って小鳥さんに、二番は跳ねて踊ってウサギさんになるんですよ。こうして病院での口笛リサイタルは大成功でした。
こんな色々な思い出のある祖父の口笛が、私の1番の「今も耳に響く……イエの音、家族の音」です。
「イエの音、家族の音」というより親戚の家で体験した音の話になってしまいますが、今も心に残っているのがこの音です。
小学校最後の夏休みだったと思います。両親に連れられて訪れた親戚の家。そこは山あいの小さな村で、辺り一面に自然が一杯でした。イトコのアニキと一緒に日がな一日雄大な自然の中で遊ぶのは、東京育ちの私には夢のような楽しい体験でした。
いよいよ翌日帰宅という晩、ついに私はまだここに残りたいと言い出しました。するとイトコのお父さん、つまりおじさんが、客ではなくここの家の子として過ごすなら夏が終わるまで置いてやる、と言ってくれたのです。
なるよ、どんなお手伝いでもする。ここの家の仕事は楽しそうだ。
父母は、宿題はどうするんだなどと心配そうでしたが、私はいつも面倒な物は先に片付けてしまうタイプだったので、残っていたのはせいぜい毎日の起床時間とその日の天気を書き込む「夏休み生活記録」のプリントくらいだったのです。こうして私の単独残留が決まりました。
翌朝からは5時起床。外に出るともやがかかっていて、まるで山のキャンプ場のようでした。早朝の畑で朝一番の新鮮な野菜を収穫します。植物というのは夜の間に実に栄養を送り込むから、こうして朝採るのが一番うまいんだぞと教えてもらいました。実際本当に美味しいのです。山の農家の食事には肉も魚もほとんど出てきませんが、お米と野菜だけで本当に美味しい食事でした。
このあと昼間はイトコも私も自由時間です。午後3時頃、おじさんが畑から戻ってきました。耕運機の後ろのリヤカーに、たくさん丸太を積んでいました。
「さぁ、ここからは薪割りの時間だぞ。ここは冬は雪で埋まってしまうから、夏のうちに冬の準備をしておくんだ」
大きなノコギリが登場して、おじさんとイトコで丸太を切り始めました。数本切り終わると、見てやり方は分かったなと言って、私にノコギリが渡されました。さっそく丸太を切ってみますが、板と違って太いので、なかなか切ることができません。
汗びっしょりで悪戦苦闘していると、おじさんは大きなナタで、カコーン、カコーンと気持ちのいい音を立てながら、切った丸太を割り始めました。その音が背後の山に響き渡って、なんとも涼し気です。
いい音だぁ、汗が引っ込む気がするよと言うと、この音の良さが分かるならお前は一生ここで暮らせるぞと言われました。そして、やってみるかと言われて、ナタを貸してもらいました。
いいか、ナタを持ち上げたらその重さだけで振り下ろす、力を入れると曲がっちゃうからな。薪を持った手をしっかり離してから振り下ろせば絶対ケガはしない。やってみろ。
う、うん……。
最初の一回目は、見事に狙いがはずれて失敗でした。そんなに高く振り上げなくていいんだぞと教えてもらって、もう一回。おっと、今度はど真ん中に命中しましたが、力が足りなくて割り切れません。
それでいいんだよ。無理して一回で割ろうとしないで、薪にナタが食い込んだらあとはこうしてトントンとやって割っていけばいいんだ。
出来た、出来た!!
よーし、どんどんやってみろ。ただし慣れてきた時が一番ケガしやすいからよく気を付けて。
はい!!
こうして来る日も来る日も、夕方になると薪を割り続けました。毎日元気に遊び回ってその後に薪割りですから、東京育ちの私もすっかりたくましくなりました。見た目はそんなに変わりませんが、気持ちがたくましくなったのです。体を動かすことが楽しい。家のために働くことが楽しい。それまで、そんな風に思ったことはありませんでした。
畑仕事もこの時初めて体験しました。私がやったのは主に草刈りと収穫ですが、青空の下で汗を流す爽快感はどんな遊びより楽しく気持ちのいい時間でした。
東京では子供は子供でしかありませんが、ここでは仕事の速い遅いの違いはあっても、大人と同じ仕事を任せてもらえます。私にはそれが嬉しくてたまりませんでした。
薪割りは結局最後まで、カコーンと気持ちよく山に響くいい音は出せませんでしたが、それでも自信を持って割れるようにはなれました。
いよいよ明日は帰るという日、最後の薪割りが終わると、おじさんは積み上げた薪を見上げながら、よぉ割ったなぁ、この薪はな、冬に雪の重さに耐えかねて折れたり倒れたりした木ばかりなんだ、ここの人たちはむやみに燃やすためだけに木を切ることはしない、自然が与えてくれる倒木で何百年も冬を過ごしてきたんだ、だから今もこんなに自然が一杯だ、そのことを大人になるまで忘れないでくれよ、いつかきっと自然から奪うだけの暮らしとの違いが分かる時が来るから、といったようなことを話してくれました。
この親戚の家には、今も時々足を運んでいます。おじさんもだいぶ歳を取りましたが、まだまだ現役で畑に出て、そしてもちろん薪割りも続けているようです。いまだに薪のストーブは健在です。
今は私もカコーンといい音を響かせながら薪を割ることが出来ます。おじさんはそれをとても嬉しそうに見守ってくれます。
いつかお前も自分の子供にこの音を聞かせてやらねばな。
そんなことを言われたりしますが、それはまだちょっと先のことになりそうです。
まだ黒電話を知っている世代です。あのワンパターンな電話のベルは、最近のケータイでもそれらしい音が鳴らせるようになっているけど、今まさにケータイを一番使いこなしている人たちは本当の黒電話を知らない世代が多いのかな。黒電話からプッシュホンに変わったときにそのラクさに驚いたものですが、電話を掛けるときのあの黒電話を回す感覚をまた味わってみたい。
相手側の番号を表示したり、留守電といった便利な機能はありません。でも電話会社に尋ねると、この黒電話、一番壊れにくいそうです。機能がない分、構造が単純なのでしょうね。お役目ご苦労さまといいたいですが、まだまだがんばってもらいたいと思っています。電話もまだまだ働き盛りなのか、まだ好調です。
台風や強風のときに鳴る、ピューーーという窓のすきま風の音が、子供のころ怖くてしかたなかったです。特に夜中にその音が聞こえると朝まで辛かったな?。なんで怖かったのか、今となってはよく分からないけど・・・
小さい頃、母がミシンでお出かけ着から普段着まで、いろんな服を縫ってくれました。
私にとって懐かしいイエの音はミシンの音!
母の足踏みミシンの心地いい「カチャ カタカタカタ カタカタカタ」という音です。
日中は仕事をしていたため、よく夜なべをして服を作ってくれたのですが、
半分眠りながらも、翌朝の出来上がりを想像して期待で胸がいっぱいでしたね。
沢山の生地の中から、この柄がいい?と自分で選んで、それから体に合った型紙を作るために、体のあちこちのサイズを測って
書きとめていく時に、大きくなったね?と言ってくれるのもうれしかったです。
ミシンはマシンが訛ってミシンになったそうです。
昔のミシンは便利な機能はついてないけど、つくりが単純だから簡単に修理できるし
そもそも壊れにくかったですね。
機関車のような重厚な色、そしてあのまろやかな形も美しかったです。
今、ミシンは電気式がほとんどです。
故障した時の修理代も高く、故障内容によっては買い換えたほうがお得なくらいです。
昔の足踏みミシンは、コツとスペースは必要ですが、電気は不要ですし部品も取り替え代々使い続けられました。
エコだなぁと思います。
昔の古き良きモノが、廃られてしまうのは悲しいです。
うちの犬は、ドアが開く前、門扉が開いた音を聞きつけて吠えてくれるので、
誰か家族が帰ってきた時、すぐに気づくことが出来て、重宝していました。
玄関まで出迎えに行く間が持てますし、急にガチャっとなると、やっぱり驚いてしまいますからね。
犬が吠えても、ビクっとまですることはないですし。
問題は、チャイムの音にも凄く反応してしまって、インターホンで話す時に不便だったりすることでしょうか。
父はお盆休みになると、待ってましたとばかりに日曜大工(夏休み大工?)に精を出していました。普段の週末では作れないような大物を手がけるのです。ある年は無謀にも裏庭に物置を作り始め、ついに未完成のまま休みを終えてしまったこともありました。
そんな父の大工仕事のお供が、高校野球のラジオ中継だったのです。私も父の仕事を見ているのが面白く、よく一緒にいましたので、一緒にそれを聞いていました。
でも子供はあまり集中して放送を聞いていませんから、試合の流れがよく分かりません。
「打った、大きい大きい、入るか?入った、ホームラン、今大会○号目のホームランです!!」
アナウンサーが絶叫しますが、私にはどちらが打ったのかもよく分かっていません。
「ねぇ、どっちが打ったの?」
「○○高校の方さ。」
「でどっちが今勝ってるの?」
「△△高校の方。一点差だ。」
「じゃ追い上げたんだ。」
「そうだよ。お、また打った。逆転につながるかもしれないランナーが出たぞ。」
こんなふうに時々父に解説してもらいながら続きの中継を聞いていきます。でも解説してもらってしばらくは試合の流れが追えるのですが、
「ほら、釘打つぞ、そっち持っててくれ。」
「こう?」
「そうそう、動かないようにしっかり頼むぞ。」
ガンガンガンガン
こんなことをやっていると、すぐに試合の流れが分からなくなります。でも父は野球が大好きだったので、頼まなくても時々解説を入れてくれました。好きな大工仕事に汗を流しながら好きな野球に耳を傾ける父は、とても楽しそうでした。
しかしある年、お盆休みを目前に控えた父が入院してしまったのです。数日は面会もままならず不安な日々を過ごしましたが、やっと面会できることになりました。この時のために用意しておいた父のポケットラジオとイヤホンと新しい電池、そしてもう一つ秘密のアイテムを入れた紙袋を持って、母と一緒に病院に向かいました。
病室に入ると、父はベッドに寝たままでしたが、意外に元気な声で「良く来たな」と言ってくれたのでホッとしました。早速私は紙袋からラジオを取り出して、これで高校野球を聞いてよと差し出しました。そしてもう一つ、秘密のアイテムも手渡しました。それはここ数日の試合の様子が分かる新聞の切り抜きに、手書きの勝敗表を添えたノートでした。
早く元気になってもらってこれを渡すんだ。そう思いながらノートをまとめる作業には、祈りにも似たものがありました。試合終盤、2アウトからの打者。テレビの中継ではそんな時、応援席で手を合わせながら祈るように見つめている女生徒の姿などが映し出されることがあります。そのノートをまとめながら見ていた中継でも、そんなシーンがありました。自分の祈る気持ちとそれが重なって、思わず涙が出てしまったのを憶えています。
でも翌年の夏には、すっかり元気になった父の夏休み大工の音と、ラジオから聞こえる甲子園の音が戻ってきていました。それは私にとっての幸せの音でした。
チリンチリンと自転車のベルの音がすると、それが父の帰宅の合図でした。父はいつも駅との往復に自転車を使っていました。朝は行ってきますの合図にチリンチリン。夜も同じように家に着くとベルを鳴らし、それから自転車を置いて家に入ってきます。小さかった私は、そのベルの音が聞こえると玄関まで走って行き、ドキドキしながらドアが開くのを待っていました。自分でドアを開ければもっと早くお父さんと会えますが、コツコツと近付いてくる足音を聞くのがまたいいんです。
知らないお客さんの足音は門の方から玄関に近付いてきます。でも父の足音は、庭の奥に自転車を置いてから戻ってきますから、門の反対側から近付いてきます。これではっきりと父の足音だと分かります。
さらにダメ押し。ガチャガチャと鍵穴に鍵を差し込む音。家の鍵を持っているのは家族だけですから、この音がしたらお父さん確定です。小さな私は最大級の笑顔で、お帰りなさいの挨拶の準備をしていました。
でもこの習慣は、家に車がやってきて終わりになってしまいました。父が車通勤に切り替えてしまったからです。車は徒歩数分の駐車場に置いていましたから、父は徒歩で門から入ってきます。これでは忍者のように耳を澄ませていないと、お出迎えの合図になる音が分かりません。父も段々仕事が忙しくなって帰宅時間が遅くなる日が多くなり、私のお帰りなさいのお出迎えは、いつの間にか終わってしまっていたのでした。
でも最近のエコロジーブームで、またこの懐かしい習慣が戻りつつあります。父が、車通勤をやめてまた電車に戻そうかな、と言い始めたのです。
エコのためだけではない。車を使うよりは電車の方が多少運動量が多くなるし、なにより電車なら帰りに寄り道をする楽しみがある。車に変えてからは帰りに駅ビルを散策することもなくなって、今ではすっかり若い人に何が流行っているかも知らないオジサンになってしまった。体も心も若くあるためには、やっぱり電車が一番だと。
こうして、十何年ぶりの父の自転車通勤が始まりました。朝はいつも私の方が早い電車ですが、時々父も私と一緒に家を出ることがあります。そんな時は二人一緒に行ってきますの合図をチリンチリン。帰宅もごく稀に駅で一緒になることがありますから、そんな時は一緒に夜道を走って、家に着いたらただいまの合図も一緒にチリンチリンです。
最近、父の会社はワークライフバランスを企業責任とする立場から、管理職にも極力定時退社を勧めています。これに対して私の会社は定時退社なんて悪者扱い。おかげでたいてい私の方が帰宅が遅くなりますが、今は私が庭先でチリンチリンとやると、父が玄関で待っていてくれたりします。エコロジーという新しい価値観の広がりのお陰で、楽しい習慣が形を変えて復活しつつある我が家です。