イエ・ルポ 2 #019
みなさまこんにちは、ハザマです。今日は本題に入る前に楽しいお知らせを! 先日よりご案内している三井不動産レジデンシャルの新サイト、−毎日を楽しむエコ・エッセンス−〈カフェ エコロ〉が、昨日から本格的にコンテンツスタートしました。私たち〈イエはてな〉プレゼンツのコンテンツも掲載されます。サイトで読める本“今日できるÉcoloなコト――リブ・ラブ・サプリ Écolo”。こちらは只今準備中で、17日より掲載開始予定です(掲載の方には近く承諾メールをお送りしますね)。昨日はまず〈イエはてな〉からのごあいさつやコンテンツ紹介を掲載しました。ぜひご覧になってみて下さいね。また11日には、先日実施したスペシャルいわし“エコ・ルポ”の各賞発表と記事紹介を、〈イエはてな〉と〈カフェ エコロ〉の両方で行います。ぜひぜひお楽しみに!
さて、今日は“イエ・ルポ 2”#019のいわしをスタートします。今回のテーマは、「人生が変わった?!あの時の家族のひと言」。これはおのずとさまざまな家族のものがたりが浮かび上がってきそうではありませんか? 両親に叱られた日、ほめられた日、兄弟姉妹とケンカしたり楽しく語り合ったりした日…。小さなエピソードでも、人生の節目になった出来事でも、家族からもらった大切な言葉を思い出してみて下さい。幼いころからいつも口すっぱく言われた教訓なども(笑)。今回はどんなお話を聞かせて頂けるのか、みなさまの人生ページに刻まれたものがたりを楽しみにお待ちしていますね!
人生が変わった?!あの時の家族のひと言
「人生が変わった?!あの時の家族のひと言」を教えて下さい
“ルポ・タイトル”
「人生を変えなかった?!父の折々のひと言」by ハザマ
“ルポルタージュ”
私は大学進学の時から、ずっと実家を離れて暮らしています。電話ではしょっちゅう話をしてますが、家族に会うのはたいていお盆とお正月。半年ごとなので、帰ると毎回父に何か言われるんですよね。バスッとくるひと言(笑)。
たとえば私が30歳を迎えた年のこと。父があらたまった顔で言いました。「N子、三十になれば少しシリアスにいくことも大事だよ」。な、何だ突然?! ちょっと驚きましたが、これは考え方を落ち着けなさいという意味よりも、あんまり私がおちょけているので、クールな(まさにカッコいい)面も少しは持った方がいいんじゃないかというご指摘でした。急にインパクトのあることを言われて、またそれを語り草にした私が悪かった。友達に「これからはシリアスでいくんだからね」と言うと大笑いされて、やがてみんなから「シリアスさん」と呼ばれることに。ブ〜(`‐′)/。
またある夏、私が少し太って帰ると、イエでTシャツ姿で寝転がっていた私を見てひと言、「N子、トドみたいだね…」。エ…そんなにヒドイ?…愕然。この夏も言われたことのないひと言が飛び出しました。「N子、その丁稚どんみたいな服、もう少し考えたら…」。いい歳をして、Tシャツとブカブカの吊り半ズボンに長靴下、ハンチング帽をかぶって意気揚々と出掛けようとする私を見て言ったのでした。見るに見かねたという顔で…。
父親というものは、娘の女性としての姿がやっぱり気になるらしく。ちょっとは女性らしくあって欲しいようです(笑)。でも、今となっては私も「何々らしい」っていうのはみ〜んな関係ない! あら、そうですか〜ってなもんで。
しかし、こんな奔放なまま私を大きくしたのは、ほかならぬ父のせい。幼い頃に父に言われたひと言が私の人生のモットーになってしまったんです。大きな星空を眺めながら、父は言いました。「N子、あの億光年の宇宙の中では、お前が生きる時間はほんの一瞬、一刹那なんだよ。だから思い切り好きなように自由に生きればいいんだよ」。
はい、そうします、これからもそうさせて頂きますw 今さらいろいろ言われたって、好きなようにいかせて頂きますからね〜!
※今回の「いわし」ご投稿は9月11日(木)正午で終了とさせて頂きます。
※今回のピックアップ賞は9月12日(金)に「イエはてな」にて発表いたします。
※〈イエはてな〉では、いわしへ投稿されたコメントと画像をダイアリーに転記しています。できましたら「投稿画像のwidth属性」を450px以内に指定していただけますようご協力をお願いいたします。
「今日の一枚“リブ・ラブ・スナップ”」
「ころころふくろうたち」
着れなくなったシャツやはぎれなどを使って作ったふくろうです。ぷっくりしたおなかがなかなか気に入ってます♪玄関やテレビの上などいろんな所に飾ってるのですが、安定感がいまひとつでころころよくころげてます!夏なので、一匹うきわにのっけてみました♪
しかもフクロウは知恵のシンボル、また不苦労に通じる縁起物。
身近で愛でるのにとてもいいモチーフですよね。
コロンとしたフォルムがまぁるい笑顔も誘ってくれそうです。
−ハザマ−
»“リブ・ラブ・スナップ”今回のテーマはコチラから
募集期間中にご投稿頂いた方にもれなくはてなポイント300ptプレゼントいたします。
また、スナップ賞にはアマゾンギフト券3,000円分をプレゼントいたします。
いわしの回答(転記)
前の家で5人家族で暮らしていたときのこと。アパート暮らしで家が狭くて、電話が鳴ると全室から受話機を取れるような状態でした(当時の電話に子機はありませんでした)。
某高校入試前日。あとはまあ、やるだけだ、と思って、一家でお休みなさーい、と消灯し……就寝。
真夜中0時。突然、電話が鳴り出しました。
何があったんだろう? と思った瞬間、電話を取った姉がひとこと、ふたこと。
「……こんな時間に何考えてるんですか? 妹は明日受験なんです!」がちゃん。
次の日の夕食時に聞いてみると、怪しいいたずら電話だったとのこと。一応、電話先の人は「ごめんなさい」と謝ってはいたのだとか。
でも、見知らぬ人に怒ってくれた姉の存在は、あの受験シーズンに本当に心強かったのを覚えています。なお、姉の存在感のおかげもあって、高校は受験校すべてに合格し、第一志望に入学しました。勉強を教えてもらった、とかは特に無いのですが、本当に姉は力になってくれました。
今は家を引っ越してしまいましたが、各自に部屋が出来てから、少し家族の間の会話が減ったかな、と思ったりもしました。家って、家族の距離を作ったりもするんですね。
子供の頃の記憶なので、とても曖昧な話です。でも、今の自分の考え方にも影響している言葉です。
小学生の頃でした。関ヶ原の戦いだったか、戦国時代の合戦の話だったか、きっかけは忘れました。ただよく分からなかったので、父に「この戦いは、どっちが悪いの?どっちが偉いの?」と聞いたんです。
父は少々怒り気味に、次のように話し始めました。
「父さんも子供の頃、同じような疑問を持ってなぁ・・・兄さんに叱られたことがある。戦争っていうのは、必ずどっちが悪いとか偉いとか、決めつけて考えちゃいけないよ。歴史には、その時その時の事情で、戦いの記録が残る。でもそれらに、どちらが悪だとか善いだとかっていうのは、決まっていない事もあるんだよ。『勝てば官軍』なんて言葉もあるが、善悪かかわらず、ぶつかり合いが大きくなったのが戦争なんだ・・・」
そんな内容でした。言われた当時は10歳かそこらでしたので、「う〜ん、そうなんだ」程度の感覚で、よく分かりませんでした。
ただ、当時は家族団らんの時にテレビで水戸黄門を見ていたので、争い事には、必ず悪役がいて水戸黄門のように偉い人が退治するのが当たり前・・・と思っていたのでしょう。ですので子供心に、なんとも表現しがたいショックを受けた事は確かです。
ちょうどそんな頃に、湾岸戦争のニュースが報じられるようになりました。やっぱり子供過ぎた私にとって、大きな国の名前は分かっても、どこにあるか分からない国の名前も沢山あり、戦況を理解はできませんでした。でも、この戦争にも「どっちが悪い?どっちが偉い?」は通用しないのかも・・・とモヤモヤ〜っと、父の言葉が頭をよぎりました。
大人になるにつれ、戦争は減るどころか、増えている気すらします。それが私が子供から大人にかけて、多少の知恵や記憶力が付いただけで、増えたように感じるのかもしれません。でも、今現在でも世界のどこかで、争い事は大なり小なり起きているのは事実です。
戦前生まれの父。終戦直後はその質問をした私と同い年くらいでした。その兄である伯父から、弟である父へ。そして娘である私に受け継がれた話です。私としては、この場を持って未来の誰かに受け継ぎたいエピソードです。
日本人はとかくメンツを重んずる国民性ですから、少しでも自分に関わりのある陣営を正義と描き出したがりますよね。そして世の中は全て正義と悪の二元構造で出来上がっていると勘違いしがちです。
でも、戦国時代の戦にせよ、現代のイラク戦争にせよ、それによって利を得たのはどこかという評価は出来ても、どこが正義でどこが悪だなんていうことは、調べれば調べるほど決められなくなってきますよね。
日本人の目には今、アフガン戦争やイラク戦争でアメリカの敵となっていた相手は全て悪ということになっていて、いまだにその続きでやっている自衛隊による給油などの兵站協力が国際貢献ということになっていますが、それだって本当に正義のための行動なのかと言われたら、そんなの誰にも分かりません。ただ自分に関わりのある方を正義と言い張るだけの話です。
一つだけハッキリ言えることは、いつの世も、歴史の表舞台の戦争のために、名前も残らないような戦争とは無関係の庶民が大量に巻き込まれて殺されているということ。これだけは確かなことでしょう。ハッキリ決めつけられる悪があるとすれば、それは「誰」ということではなく、人を殺す「戦争」という現象その物、ということになるのではないかと思います。
私の父親は、ひじょうにのう天気な人です。
そんな父は、私がまだ未青年の頃は、
何かがうまくできると
「すごいな〜。すごいな〜」と必要以上に
すごい=よくやった!を連発
何かに失敗すると、
「大丈夫、大丈夫」を連発
何かに悩んでいると、
「お前が後悔しないように好きにやれ」と、
私の好きなようにやらせてくれました。
ひとつの言葉に集約はできないのですが、
どれも私をたくさん救ってくれ、
人生に大きな影響を与えた言葉です。
今は私も一児の親になりました。
まだ幼児ですので、難しい言葉は使えませんが、
「すごいね」「だいじょうぶだよ」という言葉は、
子どもを抱きしめながらよく使っています。
親からかけてもらったたくさんの言葉の重みが、
今頃になってよくわかるようになりました。
この何気ない一言があたりまえのように過ぎていく日常のなかで、家族の団らん、愛する想い。家族の支えがあるからこそ、苦難を乗り越えられると思います。
私は社会人になってすぐの一時期、人生に思い悩むことがありました。
特に、過去にこうしていれば良かった、ああしておけば良かったと悩むことがありました。
頭が痛く、熱っぽく体調も優れず病院で検査をしたりする事もありました。
疲れもあったのだと思います。
そのときに、母から貰った一言です。
「そのときそのときに、人はいつでもベストを尽くしている。未熟であっても、例え間違っても、そのときに、選んだ決断は、そのときにその人がした最善の決断だ。だから、過去は全てマル!オッケイ!」
それを聞いてから、過去のことは全て○だったと納得できるようになりました。
また、すべての人にとって、その時点でその人ができるだけの事をした結果だと心から思えました。
子供のころは、自分は難民じゃないからいいよ!あげるよ!ぐらいに思ってたこともありましたが、今、まさにそういう映像を見ると本当にグッときます。。そういう失礼な態度は絶対に取れなくなります。
わたしの両親は当時にしては非常に自由な発想をする人たちで、子どもの教育も子どもまかせ。何でも自由に(今から思えば、少々放任で)させてくれ、小さな頃から「やりたいことをやりなさい」で育てられました。(ハザマさんのお父さまといっしょ。)特に父は「人と同じことをするなんて、つまらないじゃない。自分にしかできなことをやりなさい」という方針だったもので、わたしもたぶん父のように芸術家肌を持った人間に育ったと思います。
しかし社会に出てみると「好きなことを貫く」生き方は当然、厳しいものです。友人たちのように、人生計画をしっかり立て階段を上る生き方がよかったのだろうか……と、新人社会人の頃は結構落ち込みました。それでもやはり、好きな道を歩んでいこう…の方向に踏み出せたきっかけは父の一言にありました。
好きな道を進むにしても、その道中にはいろいろなできごとがあります。大学卒業以来、無駄な人生を歩んできたのかもしれないとどん底を味わっていたときに父が「いいじゃない、気づいたときにまた始めたらいいんだから。人生、一生が学び」とニコニコしながら声をかけてくれました。試行錯誤の奨励です。このときは本当に、心の中の暗雲がすーっと消えていく光景を目にしました。
人生の転換期(=転職)にかけられた父の一言により、その後の人生が大きく変わりました。同時に、子どもの頃からずっと支えになっている母の言葉「大丈夫。Aちゃんならできると思うよ」とセットにすると、鬼に金棒の強靭さを発揮することもわかりました。同じ言葉を自分の子どもにかけられるか、と問われると自信がありません。それほど大らかな両親なのだと心から感謝しています。
これは母が祖父からよくいわれたことです。だからよく考えてから話さなければならない、と。母も、この言葉をよく私に言います。多分母の60年の人生で痛感したこともあったのでしょう。
私もこの言葉で、救われたかな、と思う出来事がありました。一時期、人(Aさん)から頼まれた仕事を手伝ったことがあります。ほかに仕事を頼まれた人(Bさん)がいて、その二人で仕事をすることになりました。Bさんは、父がAさんに頼まれてどうにか探した人でした。
私はその作業は初めての経験でした。Bさんは、少し経験がありました。だから私はBさんから、教わる、という形で仕事を始めました。ただ私がはじめての作業だったので、帰宅してから父に作業のコツを教わっていました。
そうやって仕事をしていったある日、Aさんが現場にきて、作業をちゃんとしていない、と注意しました。注意された内容を聞いていると、仕事内容の説明がAさんとBさんで異なりました。
そのときはおかしいな、と思いながら仕事を続けました。私も初めての作業なので、ミスがあったかもしれない。注意しよう、と思ってAさんの指示通り、仕事をしました。
ところがまた現場にやってきたAさんに怒られてしまいました。仕事内容に不満をもったAさんは、私とBさんの作業を確認しました。そうするとミス(手抜き)は私ではなく、Bさんでした。Aさんは、Bさんに注意して帰りました。
その後もBさんと一緒に仕事していると、相変わらずBさんは手抜きをしていることが分りました。私はAさんに報告すべきかどうか、父に相談しました。父はまあ良い、ということでしたので、報告しませんでした。
そうやっていくうちに、その作業は終わりました。後日、Aさんに、私達の仕事はどうだったのか、と尋ねました。すると大失敗で、その原因は私にある、といわれてしまいました。
私は思わず、手抜きをしていたのはBさんでAさんもそのことを確認していたじゃないか、それにもかかわらずAさんはその後現場に現れなかったじゃないか、と怒鳴ってしまいそうになりました。しかし、そのとき思い出したのが、母のこの言葉でした。
考えてみると、Aさんは私とBさんを信用してあの仕事をまかせてくれたのでした。また私も初めての仕事でしたので、ミスがなかったとは言い切れません。そう考えて、謝りました。
その結果、Aさんは私を信用してくれたのか、年に数回私に仕事を頼んでくるようになりました。しかしその後私とBさんは、一緒に仕事することはありませんでした。AさんとBさんの関係がどうなっているのかは分りません。Aさんと話していてもBさんの話題は出ないので、ひょっとしたらBさんよりも私のほうを信用してくれたのかもしれませんね
イエはてなに出会う数ヶ月前のことでした。ですから比較的最近の話です。当時私は毎日のほとんどの時間を、家族とは別々に過ごしていました。仕事帰りに同僚と飲み食いすることが多く、休日もほとんどどこかに遊びに出ていましたし、家にいる時は自室にこもってパソコン三昧。両親と同居なのにここしばらく親の顔を見ていない、なんていうことも珍しくありませんでした。
そんなある日、珍しく私は休日の真っ昼間に、家族とリビングで過ごしていたんです。家族の顔が全て揃っている休日なんて正月以来のできごとです。夏でしたので、父が何か冷たい物を飲みたいと言い出しました。以下再現ドラマでお送りします。
母「今できるのはインスタントのアイスコーヒーくらいねぇ」
私「じゃ何か買ってこようか」
父「もったいない」
私「いいよ、そのくらいおごるから」
父「いやお金じゃなくて、せっかくこうして家族が揃っている所で一人抜けてしまうのがもったいないんだ」
私「そんな、10分もあれば戻るのに。自販機なら3分」
父「それでももったいない」
私「それなら俺がインスタントでないアイスコーヒーを淹れようか」
母「それはすてき」
私、キッチンに行き秘蔵の豆でコーヒーを淹れる。
母、いい香りと喜んでいる。
私、氷が冷蔵庫のなのが残念だと言いながらグラスを三つお盆に乗せてテーブルに運ぶ。
父「お、これはうまいな」
母「ほんとねぇ、こんなアイスコーヒー久し振り」
私「えへんえへん(童心に戻っておだてられた子供のように喜んでいる)」
久し振りに、子供だったころのような家族の時間が流れていきました。おだやかな、とても幸せな時間でした。母は、グラスを窓の光に透かして、まるで少女のようにそれを眺めていました。そして突然言ったんです。それも万感の思いを込めるような声で。
「私、この家に生まれてきて良かったわぁ(おそらく語尾にハート)」
これには私も父も噴き出してしまいました。母が生まれたのは母の実家であって、この家であるはずがありません。母は真っ赤になって、「私、今何か言いましたか?え?え?」と大慌てしています。私も父も、腹を抱えて笑ってしまいました。そしてやっと笑い疲れて落ち着いた時、父が言いました。
「私たちはたしかにこの家を作るべく生まれてきた」
感動しました。本当に私はこの家に生まれてきて良かったと思いました。子供のころはいつもこの家が大好きでした。家族と過ごす時間が大好きでした。いつのまに、そうしたことを忘れていたのでしょうか。
母の言葉は、ただの言葉のアヤというやつだったのかもしれません。しかし私には、本当にここが生まれ育った家と錯覚してしまうくらいに好きなんだという気持ちの表れだったんだと思われました。そんなすばらしい家庭を、この家で生まれ育った私が大切にしないわけがありません。
そんなことが切っ掛けになって、私は家族で過ごす時間を大切に考えるようになりました。同僚にどうだい今夜はと声をかけられても、その日の夕食が自分のためのメニューだとわかっているような日は、お袋がご馳走作って待っててくれるから、なんていう言葉が自然と出てくるようになりました。
そんな転換を経て、私はイエはてなと出会いました。母のあの万感の思いを込めたような言葉を聞いていなければ、私はこのコミュニティに、何の興味も示さなかったと思います。
イエコトを楽しむ。暮らしのプチハッピーを積み重ねていく。そんな毎日の過ごし方こそ、私の人生の大転換です。母の一言が、その転換の切っ掛けを与えてくれました。
子供のころ何度と無く親から言われた言葉。
あのころの親は絶対の存在であり、ある種の恐怖も感じる存在でした。
言われたことを守っていました。
今は、老いていく親をどうやって助けていくかを考える年になりました。
切ない気持ちにもなります。
ハタチをやっと越えたころ、父が飲みに行こうと誘ってきました。ははぁ、息子が成人したら一緒に飲みたいっていうアレかと思い二つ返事でOKすると、小料理屋みたいな所に連れて行ってくれました。最初はお決まりの、お前とこうして飲める時が来たか、父さんはうれしいよみたいな陽気なお酒だったのですが、次第に雰囲気がシビアになってきました。父の口数が少なくなってきたんです。そして重い口を開くように父が言いました。「あのな、父さんは弱い人間なんだよ」。そしてもう仕事が限界であり、いつまで重責に堪えられるかわからない、あそこから逃げ出したい、お前はこんなお父さんを軽蔑するかと。
まだ実社会というものを知らない学生の身にとって、とても即答できるような話ではありませんでした。が、仮に職場を逃げ出したからと言って、父を軽蔑するなどということはありえませんでしたから、自分の生き方を探したいんだろう、そういうのって格好いいと思うよと答えました。
すると父は、夢を語ってくれました。とても単純な夢でした。子供のころをすごした郷里に帰りたい。ただそれだけの夢でしたが、それを語る父の顔はとても柔和で、希望に溢れているように見えました。
家に帰って一人になって、色々考えました。いつも強くたくましい姿だけを息子に見せてきた父にも、実はそんなに辛い悩みがあったなんて、とてもショックでした。その反面、父の人間的な温かさに初めて深く触れたことをうれしく思う気持ちも強かったのです。
翌朝、父は何ごともなかったように出勤していきました。ただ出がけに私に向かってニッコリと笑いかけてくれたのが普段と違っていました。
その後父は結局会社を辞めることなく、何ごともなかったように勤務し続けて今日に至っています。しかし目に見えて笑顔が多くなり、母と一緒に野良猫を助けて家族に迎え入れるなど、とても優しい人間的な深みのある父になったように感じています。
あの時の「父さんは弱い人間なんだよ」という一言から、私はたくさんのものを得ました。
まず、どんな弱味も素直にさらけ出せる特別な相手としての家族の存在です。あの時私は父から、お前も辛いことがあったらどんなボロボロの姿でも安心してさらしていいんだぞというパスポートをもらったようなものだと思っています。この安心感があると、少しくらいの悩みは悩みのうちに入りません。
また人間、自分の弱さをしっかりと受け止めて認めることが必要なんだということも学んだ気がしています。自分は強くあるべきだと自分で自分を追い込んでいくばかりでなく、時には自分の弱さに気付いてそれを素直に受け入れていくことで、硬直した心に優しさが取り戻せる、人間らしさが取り戻せるんだということを、父は身をもって教えてくれたと思います。
そしてもう一つ。私の将来です。もし父の希望があの時のままだとするならば、私は今後そう遅くない時期に、父の郷里に移り住むことを計画することになるでしょう。仮に結婚することがあるとすれば、そういう地方生活を前提とした生活設計を視野に入れた新生活になっていくと思います。これは将来の私の人生を大きく変えることになりそうです。
実家の母が言った言葉です。
お花1つも咲かせられない人が、愛を育んで行く事は出来ないよ・・・と言っていました。
花にも愛情を持って水をあげたり世話をしてあげて、育っていく楽しみ、咲いてくれてありがとう!の心を持てる余裕があれば、人をも愛していく事はできる・・・です。
なので、我が家の庭にも少しですが花を植えています。
種から育てた朝顔。
毎朝のみずやりをして、今日は何個咲いたかな?と数える楽しみ、明日何個咲くか思いをはせる楽しみがあります。
子供も一緒に何個咲くか数えて、咲くのを楽しんでいます。
花を育てる愛情は、人間もそだてます。
○本当に難しい・・
特に種から育てるのが・・
小生も今年もポピーの花を咲かせられそうも・・
(種を蒔く時期が遅かったようでもある・・)
毎年ポピーに挑戦しています!・・
小学校のころ、死ぬほどお母さんが言ってました(笑)主に何かをおねだりした時、「○○買って〜」「だめ!」「なんでよ〜、みんなもってんねんで〜」「人は人、うちはうち」これは伝家の宝刀でしたね。そのおかげで、我慢を覚えるべきところが、「人は人、自分は自分」で、素晴らしくオリジナリティーのあるマイペース人間になってしまいました(笑)常識知らないし(苦笑)
うちの母親にも言われた言葉です。もうこれが出るとお手上げです。母親が議論の余地がないと宣言したも同然だからです。ぼくはこの言葉のおかげであきらめの早い人間になったようにも思いますよ。いくら粘っても無理なもんは無理だって。うん、淡白になりました(笑)
私が通っていた高校は女子がグループに別れてそれぞれ対立している、ちょっとシビアな雰囲気がありました。私はそういうのは好きではないので、どのグループにも加わっていなかったのですが、もう一人、どのグループにも「加えてもらえない」子がいました。いじめられやすいタイプというのでしょうか。いつも孤立している様子が気になっていました。話の都合上その子を仮にAちゃんとします。
グループから外れている同士、何となく話をするようになり、そのうち私とAちゃんは親しくなりました。しばらくそれで楽しい学校生活が続いていたのですが、そのうちAちゃんがある男子を好きになりました。親しくなってもなかなか心の奥までは見せてくれなかったAちゃんが初めてそういうことを打ち明けてくれたのがうれしくて、私はひそかにその気持ちを応援したいと思っていました。
ところが力のある女子グループにいた一人が同じ男子を好きだったので、Aちゃんの気持ちがばれたとたんに、色々な嫌がらせが始まりました。最初は精神的なものばかりだったので、気にすることないよと励ましていたのですが、ついにちょっとケガをしてしまうような嫌がらせが起きて、私は切れてしまいました。一発ビンタをお返ししただけだったのですが、自分が被害を受けていないのに人を殴ったと言われて、私は罪人扱いです。相手のグループが大きかったので、Aちゃんが嫌がらせを受けていたことは隠され、私が一方的に暴力を振るったことにされてしまいました。職員室に呼ばれ、親も呼ばれ、大騒ぎになってしまいました。私は停学ではありませんが、騒ぎが収まるまで自宅謹慎になりました。
翌日からAちゃんも学校に来なくなってしまったそうです。でもおとなしいAちゃんは親にも事情を話せなかったらしく、Aちゃんの登校拒否からも嫌がらせの事実は浮上しませんでした。
結局私は週末も入れて一週間、自宅で謹慎していました。前置きが長くなりましたが、本題はここからです。家に帰り、私は両親に事情を話して必死に弁解しました。嫌がらせを受けていた方が加害者にされた冤罪(?)も不正だし、Aちゃんへの嫌がらせを知ってもらってやめさせたいという気持ちもありました。父は黙って私の話を聞いてくれていましたが、私が話し終わると、こう言いました。
「暴力は全ての正義を一瞬で悪に変える」
父はただその一言をいって、私を部屋に帰しました。部屋で一人考えました。一日考えて、やっとわかりました。正義は理性。暴力は感情。暴力に訴えた時、もうそこには正しさの主張なんて無くなっていたんだって。それなら私は悪者にされて当然。殴った相手には謝らないとと思いました。Aちゃんへの嫌がらせをやめさせるためにも、自分の非をまず許してもらわないと話が進まないと思いました。
謹慎中で学校に行けないので、謝罪文を書いて学校に届けてもらうことにしました。そこではAちゃんへの嫌がらせのことには触れませんでした。私のビンタは私の感情から出た物ですから、殴った瞬間、もうAちゃんのこととは関係なくなっていたと思ったからです。
書いた謝罪文を父に見せ、こういう理由でAちゃんのことには触れないことにしたと言ったら、父は「それでいい」と言ってくれました。Aちゃんのことは謹慎が解けたらあらためて話し合ってやめてもらおうと心に決めました。
結局謹慎が解ける前に向こうからも手紙が届いて、Aちゃんへの嫌がらせもやめてもらえることになり、私が登校を再開するとすぐAちゃんも学校に来るようになりました。あの泥沼がこんなにすんなり解決してしまったことに驚きましたが、逆に考えれば本当は心底悪い人なんて誰もいなくて、暴力に訴えてしまった私一人が飛び抜けて悪かったんだと反省させられました。
よく考えたら、うちの両親は、たとえ叱る時でも絶対に子供に対して手を上げたことがありません。「暴力は全ての正義を一瞬で悪に変える」。そういう信念を子供に対しても持ち続けてきたのがうちの両親だったんだと思ったら、この言葉の重みがわかってきました。
私も将来子供を持つ親になった時、この信念を受け継いでいける親になりたいと思っています。私に子供ができたら、その子供の人生も変えてくれそうな言葉です。
子を叱る時でも、けっして手を上げることがなかったご両親。そのお父様から聞かされた「暴力は全ての正義を一瞬で悪に変える」という言葉。これは強力ですよね。単に口だけで理想を語るのではない、長年の行動で実践し続けてきた強い信念がバシッと伝わってきます。
親には懲戒権というものがあり、その範囲内であれば、一般的に「口で言って分からないやつにはこうだ」といった実力の行使は容認されると考えられています。それでも、はっきりとしたポリシーを持って、いかなる理由があっても暴力という手段をとらない信念を貫いてきたご両親は、本当にご立派だと思います。
その口から出てきた一言には、本当に重みがありますね。一つのスジをビシッと通してこられた人だからこそ言える言葉があるんだなあと感動しました。
もちろんこのお父様の指摘は、誰が悪だと決めつける目的ではなかったでしょう。そうではなく、これが父の信念である、娘のお前はどう考えるか、という問いかけだったのだと思います。言葉のキャッチボールというのはよくありますが、これは信念のキャッチボール。こんな体験、めったにできることではありません。
そんな貴重な体験の中で心に残ったこの言葉は、本当に人生を変えてくれる力を持ちますね。さらにそれが自分が親になった時に活かされ、その子の将来をも照らしていくことになる。素晴らしいことだと思います。
私も恋をしました。
これが運命の出会いと思って、これが生涯ただ一つの恋だと思って、
真剣に相手の人のことを思いました。
でも、ふられちゃいました。
他に好きな人が出来ちゃったからって。
この時は落ち込みましたね。
人間て、あまりに悲しくなってしまうと、もう泣かないんですね。
感情がみんな消えちゃうんです。
そんなふうになってしまった私を気遣って、母が話しかけてくれました。
「親子だから気兼ねしないで聞くわよ、あの彼氏とは終わっちゃったのね?」
「そんなのわかっちゃうんだ」
「そりゃそうよ、恋してる最中の悩みなら、そんな抜け殻みたいにならないでしょう」
「でも私、泣いてないよ」
「親子だからね、泣いてなくてもわかっちゃう」
「ふぅん」
そんな淡々とした会話が続きました。
話の場が持たないと思ったのか、母は一度立ち上がって、紅茶をいれてきてくれました。
二人で無言でお茶を飲みながら、しばらく時間を過ごしました。
そして、ぽつりと母が言ったんです。
「恋をするならね、将来生まれてくる子に感謝される恋をなさい。大人の恋ってそういうものだから」
目から鱗が落ちるような気がしました。
もちろん瞬間的に何かがわかったわけではありません。
あの人は、家庭が持てるような恋の相手だったのかな。
もしそうだったとしても、壊れた恋に執着して無理矢理取り戻したとして、どんな家庭が作れるのかな。
あの人はとってもいい人だった。でも壊れた器に未来の家庭はちょっと入らないかも。
少しずつ心の区切りがついてきました。
そして、私すてきな相手と巡り会って、いい恋したと思う。
でも、これが育ったら将来新しい家庭ができあがるなんて考えてもみなかった。
大人の恋をするにはわたしがまだ子供すぎたのかも。
なんていう感じで、前後の脈絡はありませんが、色んなことにも気付きました。
そして、ふったのはあの人と相手の身勝手さばかりを責めて、
ふられたのは私と自分を悲劇の主人公に決めつけていた子供っぽさにも気が付きました。
何となく心が軽くなって、紅茶おいしいねと笑顔が出ました。
まだ大人の恋をするにはガキすぎる私ですが、
とりあえずいつか子供を持つ母になったら、
子供にこんなかっこいいことが言える母を目指したいと、
そういう大人に成長してからあらためて一世一代の恋と言えるものをしてみたいと、
今はそんなふうに思っています。
この一言はその時の自分も変えてくれましたが、
これから何十年も先の私の人生も左右してくれそうな言葉です。
母の言葉って本当に身にしみますよね。
うちの母も別れて落ち込んでるときは「いい男に振られるならわかるけどさぁ。もったいないよ!」って言ったり。「誘いがあるうちが華よ!本当の恋愛をするまでたくさん恋しなさい!」って言います。
母たちはいい恋愛をしたからこそそういう事が言えるんですよね。
私も将来女の子が出来たらTinkarBellさんやうちの母みたいな
言葉をかけてあげられるかなぁって思います。
受験の時、私は今の実家のある県内の大学をメインに希望していました。
丁度、ダイオキシン問題や食糧自給率の話題がニュースになっていた時代で、
私としては環境や食糧問題をテーマにしている学校を選んでいました。
両親はそういうことにはこだわらず、とにかく『地元』進学を切望していました。
しかしながら結果は、県内の大学は惨敗・全滅。
まぁ浪人して次に備えよう・・・なんてアッサリ考えていました。
ただ、親に詳しい説明をせず、試験練習という理由で、他県の大学も受験していました。
しかも実家や親戚のいる太平洋側でなく、日本海側の○○県。
受験シーズンの冬には雪害報道も頻繁にある、雪国の大学でした。
親にとっては親戚も知り合いもいない、未開の土地で全く想定外の受験校。
私にとっては試験練習のつもりで、おまけ程度に期間ギリギリで受けた大学。
ですので、県内の希望校が全滅した時点で、
その結果を待たずに塾への入学手続きまで進めていました。
少々タイムスケールを巻き戻し、受験シーズン中の、我が家の夕食時の光景を紹介します。
母:「明日の天気はどうかしら?」とTVのチャンネルを天気予報に回します。
TV:『明日の県内は晴れ・・・○○県は大雪注意報が出ています・・・』
父:「お前が受験した県、明日も雪だなぁ。なんであんな寒い所受けたんだ?」
私:「だ〜か〜ら〜、試験慣れ。受験対策だって〜・・・」
こんなブーイングが毎晩、ブラックユーモラスな父母によって行われていました。
(父は持病の事もあり、冬とか雪が苦手です。ちなみに私は暑さより寒さに強いです)
さて、忘れた頃に雪国の大学から、通知が来ました。
ま〜ぁた、不合格だっしょ・・・。
そんな思いで通知を見て、目を疑いました。
受験届を再確認した所、どうやら自分は合格したらしい。
半信半疑ながら、夕飯時に、両親にそのことを伝えました。
きっとブーイングされるんだろうなぁ・・・
また大雪注意報が〜、とか言われるんだろうな・・・
その前にもう浪人確定で塾にも入学届け出したもんね・・・
あははは〜・・・
マイナス思考中の私に対し、両親の答えはあまりに素早いものでした。
母:「あら、良かったじゃない受かって」
父:「受かったんなら、行ってくればいいよ」
TV:『○○県は明日も雪・・・路面凍結にご注意・・・』
私:「・・・・・・・・( ゚Д゚)はぁ〜〜〜〜〜?」
ちょっと待て。父、母よ。
昨日までブラックユーモアで、反対色まる出しでしたよね???
見事なまでの『手のひら返し』は何処で身につけたテクニックですか???
それともこれは夢ですか???
親の豹変ぶりに、夢か現か幻か、頭の中は大混乱。
あわあわしながら、両親に確認しました。
私:「昨日まで、やれ大雪だ、わざわざ遠い所を受験なんて〜とか、
まるで進学は反対だってこと言ってたよね???」
父:「ん? よく言うじゃないか、『捨てる神ありゃ、拾う神あり』って。
折角拾ってもらったんだから、その大学に進学すればいいじゃないか。」
気まぐれユーモラスな両親のおかげで、私はその雪国の大学に進学。
研究テーマ自体は興味のある世界だったので、大学生活を満喫させて頂きました。
その後も、女の身一つで日本各地(程でもないですが)を渡り歩きました。
各地の文化や行事、名物・名産などにも触れることができ、
日本は狭いようで広いもんだと見聞を広めることができました。
この父の迷言、もとい名言により、私には前向きに考える精神が宿りました。
なので、適齢期超えてお嫁に行けなくても、拾う神ありと、開き直る今日この頃です(笑)
まだ補助輪がなければ自転車に乗れなかったころ、本当に小さなころの話なのですが、私が一生懸命自転車の練習をしていると、それを見ていた父が突然私の自転車を指さして言ったんです。
「おい、タイヤが回ってるぞ!!」
私は、え?え?何?何?とうろたえて、危なくひっくり返りそうになりました。すぐ父が支えてくれて助かりましたが、落ち着いてよく考えると、自転車はタイヤが回っていて当たり前です。お父さんひどいよと半べそで言うと、父はすまんすまんと笑っていました。
しかしこの父の冗談が、後日私を救ってくれました。実は私は一度だけ、とんでもないインチキ商法に危なく引っかかりそうになってしまったことがあるんです。とにかくいいチャンスになるかもしれないからと誘われて行ってみると、それはマルチ丸出しの自己啓発セミナーの勧誘でした。多数の被害を出して社会問題化した後のことですので、何々養成講座のようにうまくカモフラージュしてはいましたが、ちょっと話を聞けばすぐわかります。当然私は関わると危ないと警戒してかかりました。しかし、さすがに向こうはその道のプロですね。あれだけ警戒してかかっていた私が、弁舌たくみにいつの間にか乗せられそうになっているんです。そこでハッと気が付きました。
「おい、タイヤが回ってるぞ!!」
私はあの時、こんな当たり前のことを言われてうろたえて、ひっくり返りそうになってしまいました。ここから学べる教訓は、人は言葉の内容を理解する前に雰囲気に引っ張られやすい、それによって判断が左右されがちだから気を付けなければいけないということです。
その認識を持って話を聞いていると、この人たちも当たり前のことをさもおおごとのように言い立てているだけだったことがわかってきました。一度はとても感銘を受けたかのように思えた言葉も、実はちょっと考えれば当たり前の話でした。ただ口調や前振りなどの雰囲気作りで、ある時は不安感を掻き立て、ある時はいかにも希望の光が見えたかのように感じさせているだけだったのです。そのことが見えてきた私は、堂々とその場を立って、キッパリとお断りして帰ってくることができました。
あとで私を誘った人から、俺に恥をかかせるなよと電話がありましたが、「おい、タイヤが回ってるぞ!!」から気付いたことを話して聞かせると、おとなしく引き下がってくれました。その彼も、ほどなくしてあやしげな商法から遠ざかったようです。
もし子どもの時、父があの冗談を言ってくれなかったら。そしてあの時私がそれを思い出さなかったら。もしかして今ごろは多額の借金を抱えていたり、大切な友人を失っていたりとボロボロになっていたかもしれません。
親の言葉とナスビの花は千にひとつも無駄がないと言いますが、あんな冗談の一言でさえ後々生きてくるとは、親の言葉はありがたいものだと思います。
お話を聞いて「瓢箪から駒」という諺が浮かびました。意外な所から意外なものが出てくる・・・というときに使いますね。厳密には、瓢箪から駒(馬)なんて出てくるわけがないのに、冗談で言ったら本当に出たという意味で、冗談が本当になったという意味なのですが。
Oreganoさんの子供時代のお父様の冗談が、大人になってからマルチ商法対策になるなんて、冗談がらみで「意外な所から意外な記憶」が出てきたなってね。
まさかお父様も、子供が将来そんな被害にあうかもしれないと想定して、当時冗談を言った訳でもないでしょう。その時は、家族団らんの一コマだったんだと思います。
そんなたわいもない冗談が、家族の思い出としてOreganoさんの心に刻まれていたからこそ、瓢箪から駒が出たんだと思います。
妹に言われました。大好きって言葉、嬉しいものですね。
とてもしんどいときだったので、心に浸みました。いつもは特に思いませんが、姉妹っていいなぁ、と思った一瞬です。
嫌な事があって落ち込んでいたら、うちの母が「いつまでも落ち込んでいてもしょうがないょ。明日が楽しければいいじゃない!」と一言。
「そんな事言われても今すぐ明日の事なんて考えられないよ」って言い返したら、
「今こうしてる時間もあと数分したら過去になる。こうやってる瞬間にもどんどん時間は過ぎていくんだよ。いつまでも失敗を後悔するよりもこの先どうしたら自分は幸せになれるのかを考えればいいんだよ!」と。
つくづく能天気な人だなぁと思ったのですが、
そんな母も一時期すごい悩んでいた時期があったそうです。
短期間で5キロくらい痩せたらしく、その事があってから
その後から今のような考えになったといっていました。
それを聞いてから、年を取っても日々生き生きしている母みたいになるには今から考えを変えなきゃダメなんだ。と思いました。それからは何かあってもすぐ「あと数時間たてば今日は終わる。寝ておきたらまた新しい自分!」と考えるようになりました。
ある歌に、そんな歌詞があります。私もこの歌を聞いた時、choco-latteさんのお母様がおっしゃったことと同じようなことに気が付きました。
「今こうしてる時間もあと数分したら過去になる。こうやってる瞬間にもどんどん時間は過ぎていくんだよ。いつまでも失敗を後悔するよりもこの先どうしたら自分は幸せになれるのかを考えればいいんだよ!」
本当にその通りだと思います。失敗は過去のこと。嫌な過去は教訓として未来に生かせればそれだけでいい。明日の私は今日より確実に成長する。そのつもりがあれば、過去なんて他人の残してくれた教訓と同じ扱いで十分だって。
「寝ておきたらまた新しい自分!」
この考え方は本当に大切ですね。