「年始の親戚の挨拶や集いにあたっての申し合わせ」by id:Fuel


最近うちの親戚一同では、ある申し合わせを行いました。それは年始の挨拶や集いは、基本的に同一の立場同士で行うということです。そうしないと大変なんです、お年玉。
家族で年始の挨拶に行く場合も、基本的に親は親同士、子供は子供同士でもてなし、もてなされ合うことにします。もちろん世代が違ったらそっぽを向いて相手しないということではありませんが、たとえば私が伯父さんの家に挨拶に行く時は、従兄弟の客として訪問する、ということです。たとえ年下の小さな従兄弟や従兄弟の子がいたとしても、従兄弟同士でのお年玉の配慮は無用。いわばお年玉レスの年始回りということになります。
子供にとって親戚からもらうお年玉は重要な収入源(笑)ですが、結局は親がその金額に相当するお返しをしているわけですから、これからはその分も自分の親にねだりなさい、ということですね。これはいい子にしてないともらいっぱぐれますから子供たちは大変ですが、ひとつ頑張ってもらいましょうw。
昭和の時代には盛んに生活改善ということが言われ、地域社会での慶弔や見舞いに過度の金銭が飛び交う習慣を改める申し合わせが、各地で行われたということです。たとえば入院した時にお見舞いを頂いてもお返しは不要である、といったような申し合わせです。でもいまだに親戚間のお年玉は、かなり派手に飛び交いますね。これが特に若い家庭には金銭的にも気持ち的にも大きな負担になり、大切な年始の挨拶に及び腰になるという風潮が広がっています。これではいけませんね。
お年玉の起源は神社に奉納された餅で、年神様よりの授け物として参拝者に分け与えられたのが始まりと言われています。年神様から頂く丸いお餅だから「お年玉」。あるいは鏡餅は魂を映す鏡だから「お年魂」。親が子に与えるお年玉も、そういう縁起物のお餅を小分けにしたものだったと言われています。それがいつのまにか、お正月にあたって大人が子供に手渡すお小遣いに変わってしまったんですね。
本当のお年玉は、親や年長者が子どもの成長や健康や幸せを願って分け与えた神様からの授かり物だったということ。こういうお年玉の本来の意味も、これを機会に見直していこうと申し合わせています。お年玉を楽しみにしていた子供たちにはちょっと気の毒かもしれませんが、どこかで本筋から外れてしまった習慣を、伝統に基づきつつ現代生活に合った形に見直していくことは必要でしょう。
そんなわけでわが一族のちびっ子たちよ、今年はお兄ちゃん、お年玉はあげないけど、君たちの健やかな成長を祈ってるよ。ちなみに年始にはおそらく従兄弟同士で麻雀大会が行われると思います。後ろに回った子どもが配牌を片っ端から読み上げてしまうので、萬子や字牌を中心にした役は要注意です(爆)。


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