いわしの回答(転記)
今は居ない犬や猫、小鳥とかの家族。
人間より寿命の短い生き物はどうしても先にいなくなってしまいますが、「この場所が好きだったな」とか、「この柱の爪とぎキズはやっぱりすごいものがあるな」とか、イエのいろんな場所を見ていると元気に走り回っていたわんにゃんや、玄関にいた十姉妹とインコを思い出します。
イエのキズや痛み具合も思い出ですよね。
ちょうど今、台風第13号が本州太平洋側をかすめるように移動しています。東京もだいぶ雨足が強まってきました。こんな時思い出すのは、台風で停電になった夜のことです。
その夜も段々雨足が強まり、風も出てきて、本格的な台風の勢力圏内に入りました。もう子供が起きている時間にしては遅い時間でしたが、私は不安で、父母と一緒にテレビの台風情報を見ていました。
もう寝なさい、朝になれば台風は通り過ぎているからと言われて自分の部屋に行きました。念のためと渡された懐中電灯を枕元に置き横になりましたが、風雨の音が気になって眠れません。何かあった時に恐いと思い、部屋の電気を点けっぱなしにしているので、よけいに眠れません。トイレに行く振りをして部屋を出てみると、まだ父母はテレビの台風情報を見ていました。
台風どうなった?と居間に入ったとたん、電気が消えました。思わず変な声を上げて叫んでしまいました。父は落ち着いて手元の懐中電灯を点け、大丈夫、すぐつくからと言ってくれましたが、いつまで待っても復旧しません。電池がもったいないのでローソクを使おうかということになり、テーブルの上にローソクが灯りました。
ローソクの揺らめく炎が外の風雨の音と合わさる感じがして私は恐くなりましたが、そんな様子を察した母が、クッキーとお煎餅を持ってきてくれました。目がローソクの灯りに慣れると、段々不安感が薄らいできます。父が子供の頃の思い出話を始めました。初めて聞く話なので、私は台風の不安も忘れて、話に引き込まれていきました。母も、そんな話初めて聞いたわと楽しそうです。ローソクの灯りは家族の心をいつもよりずっと近付けてくれました。
話が佳境に入ったその時、パチパチッと蛍光灯が瞬いて、電気が復旧しました。急に辺りが真っ白になったかと思うまぶしさでした。しかし私はそれでホッとするよりも、せっかくのローソクで過ごす楽しい時間が終わってしまったことを残念に思う気持ちの方が強かった感じでした。
今わが家では、時々ローソクで楽しむ夜を設けています。全国規模で呼びかけられるキャンドルナイトのほかにも、時々思い立ったようにローソクで過ごす夜を楽しみます。ローソクの灯りに照らされながら過ごしていると、私は子供時代に心が帰っていく気がします。懐かしい光景が蘇ってきます。
今夜も一応、ローソクを準備しています。おそらく今回は使うことはないと思いますが、テーブルの上に用意されたローソクを見るとあの夜のことが思い出されて、何があっても家族がいてくれれば安心だという気持ちにさせてくれます。
材料になったのは、電気製品の梱包に使われていたダンボールでした。大きな箱だったので、おそらく冷蔵庫か洗濯機が入っていた箱だったろうと思います。それを父が小さな家に改造してくれたのです。
他のダンボールを足して三角の屋根を付け、箱の側面には窓と扉が開けられていました。窓の内側には母が余り布でカーテンを付けてくれました。扉もちゃんと閉めることができるので、閉めると中はすてきな子供の隠れ家になります。
箱の中には座布団を敷いてもらいました。箱は壁際に置かれましたので、壁に接している側なら寄りかかってくつろぐこともできます。今思えば小さな箱ですが、小さな子供には十分な大きさでした。
私はその箱の中が大のお気に入りで、毎日その中で遊んでいました。自分が中に入っていない時は扉を開け、入り口に当時大好きだったワンコの縫いぐるみを置きました。ワンコのお留守番です。
その家は、一度は崩壊の大惨事にも見舞われました。中でウトウトしてしまった私は、寄りかかる方向を間違えて、窓が開けられた側に背をもたれさせてしまったのです。背中を支える感触が弱いのに気付いて、しまったと思いましたが、もう箱はひしゃげてしまっていました。子供心に自分で自分のしてしまった失敗が許せなくて、泣くに泣けずに涙をこらえていると、母がガムテを持ってきて、別のダンボールで補強して直してくれました。その後父が箱の側面をぐるりと模造紙で覆ってガムテを隠し、下の方にはカレンダーか何かの花の写真の切り抜きを貼ってくれました。崩壊した家が、花壇に囲まれた真っ白な家に生まれ変わったんです。父が早く中に入ってごらんと言いましたが、私はもっと外側から眺めていたくて、入り口を開けて犬のぬいぐるみを置いて、ずっと生まれ変わったそのダンボールの家を眺め続けていました。
先日猫の寝床をダンボールで作っていたら、母に、あなたも子供のころダンボールの家に住んでたねと笑われてしまいました。猫のダンボールを、幼かりしころダンボールハウスがあった場所に置いてみました。猫が入ったダンボール箱を眺めながら、子供時代の懐かしい思い出に浸りました。
もう50年以上も前です。当時は家を造るのは大工さんでした。今のように工場で部材を加工したり、ユニットやパーツとして作り上げたものを使う工法はありませんでした。大工さんにお願いして、木材の準備から設計、組み立て、など一連の作業をしてもらう時代です。
豊かでなかった我が家は、家を建てるとき新築する程予算がありませんでした。そこで、道を隔てたところに立っていた家を買い取り、それを改修することになりました。道の向こう側から、こちらの敷地まで家を運ばなくてはなりません。大仕事が行われました。
すでに建っている家を土台から切り離し、家の形を保ったまま持ち上げ、レールのような鉄材の上に乗せます。誘導するためのレールを敷き、その上をコロを使って滑らせながら動かすのです。動かすのはジャッキで手動です。実は、この作業がどのように行われたのか断片的にしか記憶にないのです。
道路を越えて家を動かすのですからある一定時間道路を封鎖しなければなりません。当時は交通は少なかったものの、道路封鎖となると夜中しか許可が出なかったようです。大きな工事になっていることはわかっていましたが、幼かった私は夜中の様子を見ていないようです。
道の向こう側にあった家が、朝起きてみると道のこちら側にあり、その姿は柱の上に屋根が乗っているような丸裸のようなものでした。家の周りに置いてあったたくさんのレールや短い鉄の棒(ころ)、そしてとぐろを巻いているワイヤーなどから工事の様子を想像したものです。
今なら重機を使ってやるような工事を、当時はほとんど人手で行っていました。家を動かすという大がかりなことをしても、建築費用が節約できたのでしょう。柱や屋根をそのまま活かした改修ですから、間取りの制約もあり、部材も再利用のものが多かったようです。新しい家と言うものではありませんでいしたが、父が最初に立てた家でした。それまでの借家からの引っ越しはやはり嬉しいものでした。
ものが豊かになった時代、もうこのようなことをする人はいないでしょうが、昔は古いものでも活用し、いろいろと工夫して生活していたのだと思い出しました。
実際に見る機会はなかなかないでしょうね。
テレビで見ていても、なかなか大変そうな作業でした。
究極のリサイクルなんていってしまうと変かもしれませんが、
家を大切にする心が伝わってくるような気がします。
昔は手間をかけて物を大切にしましたね。
今は手間をかけると値段が高くなるので新しいものへと変えてしまうんでしょうね。
もし近所の家が「曳き家」をしたら、きっと見に行ってしまうと思います。(笑)
オトナになった今ではと被害とかそういう事も考えてしまう
台風の襲来ですが
子供の頃は、学校が臨時休校になるのが嬉しくて
兄弟で夕方の天気のニュースなどを見て
台風が接近してきたら
明日は、休みになるかな〜とかおしゃべりをしたものです
台風接近と聞くと思い出す風景ですね
小学生のころでしょうか。チャボを10羽ほど、名古屋コーチンの雄一羽飼ってました。ある日、チャボのメスが卵を抱きました。それを見て父がいいました「コーチンとチャボのあいのこが生まれるかもしれないな。ひょっとしたら、コーチンぐらいの大きさで、チャボみたいに足の短い鶏が生まれるかもな」といいました。
それを聞いて私達は、本当にそんな不恰好な鶏が生まれるのか、見たくなりました。鶏のヒヨコは3週間ほどで孵りますが、ものすごく待ち遠しいと思いました。一週間目に検卵してみました。夜に卵を一個づつ懐中電器にあてて見たのです。すると黒い影があったので、大興奮。ますます待ち遠しくなりました。
そして19日ぐらいから、毎日見に行きました。ある夜父が親鶏をどけると、卵から孵ったばかりの雛がいました。黄色いヒヨコでした。ただ孵ったばかりで濡れていて、地肌が見えてややグロテスクでした。でも、とても興奮しました。
その後他にも数羽孵り、すくすくと育ちました。残念ながら当初期待していた体が大きく、足が短い不恰好な鶏は誕生しませんでした。しかしそれぞれが異なる羽色の羽が生えてきたので、どういう鶏になるのだろう、と興奮して大きくなっていくのを見ました。
その日は友だちが家に遊びに来てくれていました。しかし些細なことで言い争いになり、それが、何だよ、そっちこそ何だよとドツキ合いに発展し、しまいに取っ組み合いの大げんかになってしまいました。しかしその頃、私は柔道を習っていました。相手の胸ぐらを掴んだ瞬間、ケンカに技を使ってはいけないんだったということを思い出しました。その一瞬の隙をついて相手のパンチが顔に入り、私は鼻血を出してしまいました。友だちはびっくりしてもうケンカどころではなく、大丈夫か、大丈夫かと鼻血を拭いたりしてくれました。
しかし負けん気の強かった私はケンカに負けたことが悔しくて仕方がありませんでしたし、もう一つ、いつも道場で厳しくケンカ禁止を言い渡されていたのにそれを破ってしまったことへの後悔も合わさって、もうどうすることもできないような気持ちになっていました。
しばらくしてすぐに鼻血は止まりました。友だちは何度もごめんな、ごめんなと謝ってくれましたが、私はただ黙って壁を見つめるばかりでした。
友だちは知らないうちに帰っていました。そんなことにも気付かず、私はずっと壁を見つめ続けていました。壁に小さなシミがありました。そのシミが、涙でだんだん大きく見えてきました。そのうちシミが見えなくなりました。涙を拭いました。また小さなシミが見えました。そのシミが涙越しにまた大きくなって…。そんなことを真っ暗になるまで繰り返していました。
母が帰ってきて、あらあらこんなに真っ暗になっても電気もつけずに、といいながら電気のスイッチを入れてくれました。すると私が座っていたすぐ横の床の上に、メモ用紙が置かれているのに気が付きました。友だちの字で「本当にゴメン、反省する、明日からも仲良くしてくれ」というようなことが書いてありました。すぐご飯にするから居間にいらっしゃいという母の言葉に振り返るころには、もうすっかり笑顔になっていました。明日は自分こそちゃんと謝ろうと思いました。
その壁は、今は部屋の模様替えで家具に隠れて見えません。でも、あの時見つめていた小さなシミは、今でも心に深く刻まれています。その友人とも、今もずっと友情が続いています。謝る心の美しさを教えてくれた、最高の友との思い出の一コマです。
うちの実家は、私が小学生3年生の時に、一部屋を残して建て替えました。
その古い家のイメージが 心に残っています。
写真とかもないので、本当に心に刻みこまれたイメージだけです。
外観のイメージと障子が部屋の中にあったぐらいしか覚えていません。
部分的にしかイメージに残っておらず、今から思い起こすと どういう家だったんだろうなって
ちょっと残念な気持ちがありますね。
もう少し ちゃんと覚えておけばよかったと。
小学三年生までしかいなかった家だから、そんなに記憶できたもんじゃなかったと思いますけどね。
新しい家に引っ越したりするのは うれしいことですが、その前に住んでたところだって
住めば都ですからね、大事にしたいものです。
と、そのうち引っ越したいなと思っているの昔の家を思い出して
ふとそう思いました。
障子は当然のこととして、ふすまも穴だらけにしてました。子供ってモノを破壊することに抵抗がないのかな。障子も張り替えてちょっとしたらすぐ穴だらけにしてたな〜。よく怒られたものです。
幼稚園児の時に植木屋で祖父が1m程度の高さのを買ってくれました。
11か月間はまったく活躍する事もないただの青々とした針葉樹として立ってるだけなのですが、
12月になるとオーナメントで飾られて、家の前を通る方々から眺められる存在でした。
ふふ、一ヶ月の間の栄光がなんか素敵ですね^^赤鼻のトナカイさんみたいです。オーナメントで飾られているおうち、結構ありますよね。私もながめちゃいます。すてきだなぁ。
私が小学校高学年の時のことです。オーディオ好きの父が蓄音機をもらってきました。ゼンマイを巻いてターンテーブルを回す、古い古い蓄音機です。でもラッパは付いていません。蓄音機も後年になるとラッパをケースの中に収めたコンパクトな製品が登場しますが、これはそうではなく、本来なら大きなラッパが付く蓄音機でした。父は、おそらく戦争中にお国のためにと供出してしまったんだろうと言っていました。
父のラッパ作りが始まりました。ラッパはただ朝顔型に開けばいいという物ではありません。綿密な計算によって、ラッパの開き具合を決めていかないといけないのです。父は何日もかかって計算を繰り返し、図面を引き直していました。母はそれを見て、あのくらい熱心に仕事してくれたらいいのにと笑っていました。でも私は趣味に真剣になる父の背中が好きでした。この時の父の背中が、まず私の第一番目の「心に刻まれたイエの光景」です。
やっと図面ができあがり、次の休日にラッパの製作が始まりました。材料は真鍮板です。まず父がボール紙で型紙を作りました。型紙をテープで仮止めして、組み立てればちゃんとラッパの形になることを確認します。続いて型紙を真鍮板に乗せてケガキます。ケガキとは、針のような物で表面を引っ掻いて線を付けていく作業です。ケガキが終わると真鍮板の切り出しです。ケガキと切り出しは私が手伝いました。
その間に父は木を削り出して型を作っていました。その型に合わせて真鍮板を曲げていくのです。こうして出来上がったパーツを、ハンダ付けして組み立てていきます。私は軍手をはめて、組み合わせる真鍮板どうしを動かないように押さえる係です。それを父がデカいヒーターのハンダゴテでつないでいきます。
まず最初は要所要所だけをハンダで止めていきます。そしてラッパの形に組み上がったら、仮止めしたハンダを全部溶かしてしまわないように注意しながら、接合部分全体にハンダを流していきます。これは息を飲む作業でした。もたもたしていると仮止めしておいたハンダに熱が回りすぎて外れてしまいますし、手早くやりすぎると熱が回らずハンダが流れません。その中間の一瞬の頃合いを見極めてハンダを流していく緊迫した作業の様子が、私の二番目の「心に刻まれたイエの光景」でした。ハンダゴテの熱と父の熱気が渦巻くような光景でした。
そして出来上がったラッパに本体との接続金具をハンダ付けし、最後に外側に、振動を防止するためのパテを塗っていきました。まだパテは生乾きですが、ひとまず出来上がったラッパを蓄音機に取り付けてみました。すばらしい立派なラッパの完成でした。
母が、できたの?とお茶を持ってやって来ました。さっそく音を鳴らしてみました。レコードは古いジャズです。軽快なスイングが流れてきました。父はご満悦で聴き入っています。母も、あらすてきと楽しそうに聴き入っていました。私は自分がこのラッパを作るためにどんなに重要な作業を担ったかを母に自慢したかったのですが、音楽に聴き入っている母に声をかけるのはやめにしました。この手作りのホーンから音楽が流れ出した時の様子が、私の三つ目の「心に刻まれたイエの光景」です。
この時私は、手作りの装置で音楽を奏でることのすばらしさに目覚めたのだろうと思います。この時に心に刻まれた光景が、その後の私の手作りオーディオの原点になってくれたと思います。この時の手作りホーンの付いた蓄音機は、今も現役ですばらしい音楽を奏でていてくれます。
ぼくは小学生でした。
電話帳2冊分くらいの、今考えるとものすごくでっかいテープレコーダーが我が家に登場したんです。現在の年齢がアラウンド40の方ならきっとどなたでも経験されたと思いますが、家中、静かにしてもらってのテレビ番組の録音。録画ではないですよ、録音、音声だけを記録して、それを後でもう1度楽しむって事をしました。
「熱中時代」だったかな、水谷豊のドラマを録音したのを覚えています。
凄く寒いところに住んでいましたので、ストーブ(薪、石炭)をガンガン焚いてますと、ストーブが真っ赤になります。頼もしく感じたものです。その熱を利用してお湯を沸かすタンクも付属していました。洗濯ものも良く乾燥しましたよ。今の家より冬は湿度が保たれていたかも?煙突掃除は女の役目でお袋が頑張ってました。思い出しますね。
うちの父が、私たち兄弟の誕生日に成るといつもケーキを買ってきたのを思い出します。
丸いケーキのときもあれば、普通のケーキの寄せ集めのときもwwありましたが、懐かしいですね・・!
誕生日にお祝いされるって、なんだか暖かな気持ちになりますね。
父は無口な人でしたが、こういうところはなんだか好きでした。
私の実家は海に面していて、夕方になると水平線に沈む夕日が見られます。綺麗ですが、お天気に左右される(あたりまえ)ので、毎日が観賞に耐えうる景色というわけではありません。子供の頃から見ており、のどかな風景や、たまに幻想的な美しさをみせたり、飽きることがありません。地方ならではの贅沢ですね。
私は子供の頃、祖母と一緒の家に住んでいました。祖母は日舞の師範で、大変厳しい人なんです。ああいう世界は武芸に通じるところがあるようで、祖母の周りには、まるで武士のようなキリリとした気が漲っていました。祖母は一人で部屋でくつろぐような時も、常に姿勢を正し、背筋をすっくと伸ばして座っていました。
もちろん着ている物は全て和服です。髪を乱れなく結い上げ、シャキッと襟元が整えられた姿は、子供にはちょっと近寄りがたい雰囲気がありましたが、かっこいいなぁと憧れも持って見ていました。
祖母の部屋は純和室で、とても清楚にまとめられていました。余分な物は何も置きませんので、飾られた季節の花がとてもよく映えます。祖母はいつも自分で花を生け、部屋に飾っていました。花を生けている時の祖母は、とても優しい顔をしていました。いつものキリリとした厳しい表情が、とても優しい表情に変わっているのです。
そういう時は孫の私も近付きやすいので、ちょっと恐る恐るですが、おばあちゃん、と声をかけてみます。すると、こっちへおいでと呼んでくれて、この花は何々っていう名前なんだよ、おばあちゃんは若い頃、この花をいっぱい花束にしてもらったことがあってね、なんていう話もしてくれました。おそらくその花束を贈った人が、私のおじいちゃんにあたる人だと思います。
花を生け終わると、お茶の時間です。お茶といっても祖母のお茶はお抹茶です。手慣れた手つきでシャカシャカと点てて、はいどうぞと飲ませてくれます。お菓子はたいてい羊羹でした。お抹茶の苦さと羊羹の甘さが、厳しくて優しい祖母そのままのようで、祖母と過ごしたこのお茶の時間も忘れられません。
私はずっと、キリリとした気の漲る祖母の顔ばかりを見ていたと思います。でも今になってみると、優しい祖母の顔ばかりが思い出されます。
その後引っ越しをして祖母とは別々の家になりましたが、私の心に刻まれているイエの光景というと、引っ越した後の家よりも、祖母と一緒に過ごしていた家のことの方が強く思い浮かぶのです。
生家の階段はとても急(傾斜角が大きい、踏み台1枚1枚が狭め)で、子供の頃に滑り落ちたことがありました。その階段を祖父母も利用していましたが、いつも「よいしょ」と声賭けしながら祖母が昇っていたのを思い出します。
私も急な階段を降りていて、お尻で真ん中あたりから下まですべり落ちたことがあります!
飼っていたネコがすごくびっくりして見てました(笑)
急な階段ってお年寄りには特に大変ですよね!