いわしの回答(転記)
中学の時の技術家庭で弟が作った、本棚。
小学生の机とかにちんまりと乗っている感じの、教科書と辞書と鉛筆立てを置く位のもの。
あの頃、中学生の男子の技術家庭科で作ったものなのですけど、まだまだ現役。
出窓のところで、小さな鉢を飾ったり、時にはCDが並べられる棚になったり。
もう25年は経ているのにびくともしない。
あの時、技術家庭科の先生に怒られやり直しを何度もさせられて作った本棚。
段々木の肌も濃い色になってきました。
女子はこの頃、スカートとかパジャマをミシンで作ってましたっけ・・・。
以前からあるカラーセラピーに、ライトを使った療法です。
色のついたライトを照射することによって症状をやわらげたりするようで、照射するライトや懐中電灯タイプのものも販売されています。
基本的には太陽の光なのですが、それを現在自分が欲している色をあてることによってストレスなどを回避していきます。
もともとカラーセラピーは凄く好きで、受けたこともあったのですが、今はいろんなセラピーの方法があるのですね。
でも、色や色彩というものは人間の生活にとってとても大事なものだと思います。
現在はLEDのスタンドライトもたくさん出てきており、色が七色にグラデーションで光っていったりするものがあります。
しかもお風呂でもお部屋でも使えるものがあるようです。
私も買ってためしてみました。
お風呂が楽しくて仕方がありません。電気を消してライトのみにするとほんのり光の色に浮かび上がっている感じです。
しかもライトは寝室に移動できますので、寝るときには青い色をぼんやりとつけています。
寝つきが悪かったことが多かったのですが、これがあると不思議にすぐに眠れているようです。
色とライトの力、すごい!と思いました。
普通、私たちが色として感じる物のほとんどは反射光ですが、自ら発光するライトの色はさらに強く心身に影響してくれる気がしますね。最近は色々な色のLEDが登場していますから、そういうのが癒しに応用できるかもしれませんね。
青い色の薄明かりで眠るなんて、本当に熟睡できそうな気がします。そういえば青の高輝度LEDが手持ちにありますよ。間接照明みたいに物陰から点灯させたらいい感じになりそうです。帰ったらやってみたいと思います。
よく大きな樹木に抱きつくと、その木のパワーがもらえるって
言いますよね。
私は、パソコンなんかで体に溜まった電磁波が
ス?ッと抜けていくような感じがして、とても気持ちいいんです。
自然のパワーなのかなぁ。
大切にしたいですよね。
弟が、プラスチックのカバーの中に丸餅が入っている鏡餅を買ってきました。食品を扱っているディスカウント店の値引き品ワゴンの中に、なんと今ごろになっても売れ残って入っていたそうで、かわいそうだから買ってきたとのことでした。中のお餅を食べると、外側のプラスチック鏡餅を使って、弟が工作を始めました。中に豆電球を仕込んでACアダプターをつないで、ベッドランプだそうです。電気を通すと、寿の扇のついた鏡餅が光りました。その様子がおかしくて、おかしくて、私は転げ回って笑ってしまいました。弟は、これが作りたくて買ってきたのさと、とても満足そうです。豆電球だから発熱が少なく安全だと得意満面です。その鏡餅は弟の部屋の枕元に置かれています。おめでたい夢が一年中見られそうなランプです。
わたしの小さい頃、おばあちゃんがタンスにタマムシをしまってました。玉虫色のタマムシです。細長い甲虫で、メタリックグリーンの羽に赤い筋が入っていて、角度によって微妙に色合いが変わるきれいな虫なんです。タンスにしまっておくと、綺麗な着物を沢山持てるようになるという、おまじないだそうです。
その当時でも、タマムシはちょっと珍しい虫だったので、おばあちゃんがいつどこで捕まえたのかわからないんですが、大掃除の時にタンスの奥から出してきて「ほら、タマムシ。これをしまっとくと着物持ちになれるんだよ」って見せてくれました。虫は死ぬと変色してしまうものも多いのですが、タマムシは死んでも色が変わりません。外で日に当てたらキラキラ光ってとてもきれいでした。
○本格的な座禅を組んでみよう!
一度要領を覚えたら自己流でもできる!
時間は線香を焚き燃え尽きるまで座るというもの。
線香を目の前にして座ると意外に集中できるものです!
小生もまた再開してみようと思っているところです。
普段の姿勢が良くなることは確かです。
私は真空管アンプ作りが好きですが、それ以前からスピーカーボックスを作るのが好きでした。スピーカーボックスは木の箱ですから、私の自作オーディオは最初は木工作からスタートしたわけです。
木の厚板をしっかりとした箱に仕立てるためには精度が大切です。切り口が曲がっていたりするとまともな箱になりませんから、それで自然に真っ直ぐ正確に切るコツなどが身に付きました。大人になった今ならホームセンターの加工サービスで切ってもらいますが、最初はまだ中高校生でお金がないころでしたので、材料は新築工事現場で捨てられる合板の切れ端でした。家を建てている所を見つけると、遠くでも自転車で駆け付けて、大工さんにお願いして捨てる板をもらっていました。それを手持ちのノコギリで切って箱にしていたわけです。スピーカーを取り付ける丸い穴も回し曳きという細いノコギリを使って手で開けていました。そんな下積み生活(笑)が、今もとても役に立っているなぁと思います。
木工作の楽しみのひとつは、そういう捨てられるような廃材を「これ何に使えるかなぁ」と頭をひねって考えてみるところにあると思います。一番の最新作は、ばかばかしいですが、ごはんだよーの合図板です。昨年暮れ、友人がまな板を捨てました。もったいないのでもらってきて、表面を削り直して回し曳きノコで魚の形に切って紐を付けて吊せるようにして、樫の木で木槌を作ってセットにしてキッチンに下げてみました。叩くとコーンといい音がします。食事の準備が整うと母がそれを叩いて家族を呼びます。よく通る音で、それでいてうるさくないので、なかなかの実用作だと自分では思っています。母が面白がって叩いてくれています(笑)。
ちょっと時間ができた時に本屋に寄ったり、あとは寝る前に、動物写真集をゆっくり。
私は猫が好きなので、家には猫写真集が多いですが、
風景を取り込んで、そっと猫(首輪つき、なしにかかわらず)をとって
一枚の作品になってるような写真集が好き。その土地の匂いがする気がして。
あとは、パンダ、ペンギン、サバンナの野生動物などなどの写真も、土地の匂いがして。
幸せな気分になる、というより、気持ちが広がるような気分になります。
私も動物が好きなので本屋さんに行くとつい目を留めています。
眠っている犬や猫の写真集とか、ねこの肉球の写真集なんていうのもあります^^
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%AD%E3%81%93%E3%81%AE%E8%82%89%E7%...
自然にしている動物達の写真も、すまして写っている写真もどちらも好きです(^^)
私の母は、祖母から「片付けもの」をきつぅく躾けられたのだそうで、ものを「仕舞う」のがものすごく上手です。母には「ものが居る/在るべきところ」がいつもハッキリと見えていて、あるべきものが、あるべき所に、あるべき様にないと、ひどく「落ち着かない」んだそうです。仕事を持っていて忙しい人なのですが、家でも気が付いたら何か手にして、ぱっぱぱっぱと「あるべきところ」に戻してやっています。
なので実家はいつもきれい。そして私は「出来る母を持った娘」の常で小さい時から片付け物が大大大大の苦手。本は開けっ放し、ものは出しっぱなし、服は脱ぎっぱなし。いっぺんにまとめて脱いだ服をそのまま床に置いて「脱皮か、おいっ?!」と笑われる始末。そんな事言ったって、私が重い腰を上げる前に母がさかさかっと片してしまうし。。。
母はそんなナマケモノの権化の様な娘をのんびりと放置。私は祖父母などから「女の子なのに?」と、心配されるぐらい「片付けられない子」に育って行ったのですが、中学に入って「自分の部屋」を貰ってから状況が一変しました。それまでは「子供たちが寝る部屋」「両親が寝る部屋」「両親が仕事をする部屋」「みんなが作業をする居間」という部屋割りだったのが、改築を機会に「それぞれの部屋」を与えられたんです。
母がすごい(と今では思える)のは、子供たちの部屋は一切片付けなかったこと。なので私の部屋は見る見るうちに足の踏み場も見つけられない程に散らかりはて、居間や弟たちの部屋(弟たちは普通にキチンと片付けられる子だったんです、不公平な!)との余りの落差にさすがに恥ずかしくなり「自分の空間は自分の責任」という、どうしようもなく基本的な事を学びました。
その後もごみの山を作っては「うわあああ!」と焦って一気に片付けようとして体力と貴重な日曜日を浪費、効率の悪い事この上ない片付け方を何度も何度も繰り返して、中学を卒業して家を出る頃にやぁっと「こまめこまめに片付ける」という習慣を会得(?)しました。そしてその事を心の底からありがたいと思ったのが、高校の寮生活や学生時代の共同生活です。共同生活をした事がある方ならご存知と思いますが、共同スペースを片付ける・片付けない、部屋がキレイ・きたない等の基本的な生活の仕方にまつわるケンカって意外と多いんです。でも私は「ごみの山」から「塵一つ落ちていない」までを見ているので、結構どんな状態でも平気。しかもその中で「自分の空間はちゃんとする」という折り合いのつけ方まで知っていたので、ストレスフリー。同居人からは「アンタは最高の同居人!」というめでたい称号まで頂いて、快適な共同生活を送ってこられました。
数年後、一人の人と恒常的な共同生活をする様になって里帰りした時に、相変わらず「ぴっかー!」とキレイな実家を見ながら「よく『片付けなさい!』って注意するの我慢できたねー」と母に聞くと、「注意したって聞かないでしょ。本人が『片付けたい』と思わなきゃ」と母。「片付けたい、と私が一生思わないようだったらどうしたの?」と更に聞くと「思うよ。大丈夫。私の子だもの」。
う?ん、かなわないなー、と、嬉しくなりました。
すてきなお話ですね。「本人が『○○○したい』と思わなきゃ」は、何にでも当てはまると反省しました。本人が「勉強したい」「片付けたい」「練習したい」と思わなきゃ……ですよね。自主性が伴わなければ、身に付きません。
うちの場合は、祖母がきっちり派、その反動で母がわりとゆったり派、わたしはどちらなのかな……。そのときの状況によって、両方が偏在しているかもしれません。片付いた空間は、気持ちがいいですね。
楽天でもAmazonでも、「聴診器」で検索すると、千円台から売っているのが見つかります。最近は聴診器付きの書籍も出ていますから、書店でも買えてしまいます。こうした聴診器は自己健康管理用に売られている物ですが、これで「木の幹の音を聞く」と、これまた楽しいんです。
試しに聴診器を木の幹に当ててみてください。ごーっというような音が聞こえてきます。よく耳を澄ませると、ほかにも色んな音が混じっているのが分かります。
よく「導管が水を吸い上げる音が聞こえる」などと言われますが、それは眉唾。本当に音がするくらいの勢いで水を吸い上げていたら、木のてっぺんから水が噴き出してしまいそうです。でも、木の幹から聞こえてくる音は、その木が感じている「大地の音」であることだけは間違いありません。これが「地球の音」なんです。
木を変えて、場所を変えて、色んな大地の音を聞いてみてください。自然の音、人工的な音、色んな音が聞こえてくるのに気が付きます。そういう体験を通して、自然がいきいきと生きていることも分かりますし、自然に対して人間が与えている影響なども、ちょっと見えてきます。
音の世界を通して、新しい目が開かれる思いがします。聴診器で木の音を聞いてみると、木と語り合う気持ちになってきます。千円ちょっとでできる異世界体験。お勧めです。
私の叔父の家には大きな木の板がありました。
それは漁船に積んであって陸から船へ渡るためにかける木の板でした。
なんでそんなものを家の中の床の間に飾ってあるのかなー?と思って聞いてみると、漁師だった叔父の乗った船が転覆してしまったときに偶然近くに寄ってきたその板に、二晩もの間捉まって浮いたまま救助を待っていたそうです。
叔父によると「これは俺の命を助けてくれた命の木なんだ。地震や火事になったら真っ先にこいつを抱えて逃げるくらい大切だよ」とのことです。
まあ、そんな話は世に知れ渡っていないので「どこが言い伝えだよ」って感じですが、私に伝えられてここまで読んだ人にも伝わったと思うので、ささやかな「木」の「言い伝え」ということで。
そして、そんな大きな板は普通の家の中では床の間か押し入れくらいしか「収納」できないと思います。というマメ知識。
寝る前の明かりは、深い睡眠を妨げるそうで
オレンジ色の温かみのある電球のランプの傘を上に向けて枕元の壁に設置
直接の光ではないので目を傷めることもないですし、
適度に明るいので本も読めます。
ちょっとした工夫ですっごくおしゃれな空間になるんですよ☆
直接は関係ないかもしれませんが、教訓としていつも心の中にあるので今回書いてしまいます。
愛知・岐阜・三重の県境には、岐阜県側から流れる三つの川が合流して、伊勢湾に流れ込みます。ここは現在木曽三川公園になっていて、たくさんの松が植えられています。
岐阜県側から流れる川は木曽川、長良川、揖斐川ですが、これらがちょうど下流で複雑に合流して、戦国時代から水害が多いところでした。しかも川底の高さが違っていて、一番高い木曽川→長良川→揖斐川の順番に下に流れて大きな水害を巻き起こしていたんだそうです。
江戸時代になって愛知県側には大きな堤を作ったため、愛知側に水害が及ぶことはなくなりましたが、岐阜側に全部水が流れてきます。
そこで幕府は大名の力を殺ぐために、薩摩藩にその治水作業を行わせることにしたのです。それが宝暦治水とよばれるものです。これは川を三つに分ける作業でした。
しかし、この治水事業は一筋縄ではいかず、一年以上続き、大金が飛んでいき、また病気その他により薩摩藩士が約80人近く亡くなったのでした。
工事をまかされた平田靭負は全てが終わったあと、自害して果てました。
千本松原は、工事がすべて終わったあと、堤に薩摩藩士が涙ながらに植えた九州の松なのです。
このことが薩摩藩にとって維新をすすめていく大きな原動力にもなったそうです。
明治になって岐阜には碑がたてられ、昭和になってからは平田靭負を祀る治水神社が建てられ、その後岐阜県と鹿児島県は姉妹県になり交流が続いています。
小学校の時、学校で習い、また社会見学で千本松原にも行きました。
いろんな意味でショックでしたね。自然の怖さ、薩摩藩士への感謝、そして災害から守ってくれる松・・。
松を植えることによって自然などの災害を防ぐというのはいろいろな場所にもありますが、松というとどうしてもココを思い出します。
私が住んでいるのはこのあたりではないのですが、木曽川の水害で近くの家が水につかったことがあります。
今は公園となってのんびりできるところですが、このことは絶対に忘れずに語り伝えていかなければならないと思っています。
あまり馴染みのない木ですが、少し勉強になりました。
でも、本当に木が人間にとって役に立ってるんだなぁと実感できますね。
海沿いの地域では松ノ木が台風や海の潮風を民家に流れ込まないようにしてくれているとか聞くと、自然のありがたさを感じますね。
これはナンチャッテ灯りです。自分からは光は出しません。でも、パーティーなどの時にテーブルを彩るすてきな飾りになりますよ。
それは何かというと、お菓子で作るローソクなんです。用意する物は、あまり太くないロールケーキと生クリーム、あとはイチゴ。
ロールケーキは「恵方巻きロール」くらいの太さが最適です。ぶっといのしかなかったら、周りを何周かはがして細くします。はがしたのも巻き簀で上手に巻くと細身のロールケーキになりますよ。でもって、ロールケーキをローソクにみたてて、適当なサイズにカットして、お皿に立てて、周りにクリームを塗っていきます。最後にてっぺんに炎に見立てたイチゴを乗せて出来上がり。これを4本くらい作ってテーブルに並べると、大きなローソクが燃えているみたいな楽しいディスプレイになります。甘酸っぱい、食べられる灯りです。キャンドルナイトのテーブルなどにぜひどうぞ。
うちの前庭には、りんごとさくらんぼの木が2本ずつ交互に並んでいます。さくらんぼは、地元種のレニアさくらんぼ。りんごは小玉で、ぱきっとした歯ごたえだから、多分紅玉でしょう。楽しみは何といっても甘酸っぱい果実の恵みを享受する夏です。りんご豊作の年は、家では食べきれないので、りんごソースやりんごケーキを作り、ご近所のみなさんに配ったりしました。もちろん、そのままでもとても美味しいのです。マーケットで買うりんごとは一味も二味も違う、歯ごたえも、酸味も、世界で一番のりんご!とかじるたびに思ってしまうのでした。それは虫や野鳥も承知していて、穴もたくさんありますが。
でも、考えてみれば収穫期だけではありません。春のうす桃・白の花、そこに群がる蜂(おまけに、大きな蜂の巣……)、秋の紅葉、木を訪れるリスや鳥の姿にも1年中楽しませてもらっているので、4本の果樹のおかげで四季それぞれの暮らしがそれは豊かに彩られています。
子どもたちも毎年、大きな恩恵を受けてきました。りんごやさくらんぼの木に登り、実をもぐ楽しみほど幸せなことは、ないのでは――。りんごの木、さくらんぼの木に感謝しながら、今年も実りを願います。
靴を買ったときに入ってる箱にCDを入れて再利用しています
ブーツみたいに季節が限られる上に厳重に保管するものの箱は保管用にしてますが、1年中履ける靴の箱、結構丈夫だしデザインもいいので何かに使いたいと部屋を見回したら積み上げられたCDと目が合いました
サイズもぴったりでこれは良いです!
いつの間にかホコリだらけになっているお部屋の蛍光管。
蛍光灯の笠は掃除しても、蛍光管は意外に拭かなかったりします。
からぶきしてホコリを取り除くと、少し部屋が明るくなります。
以前、森と共に暮らす海外の人の特集をしていました。
その人は木をながめて、「あの木は、近づきがたい」「この木はいつも僕に多くを語り掛けてくれる」などと言っていました。
激しく同意しました。
優しい木、面白い木、気難しい木、いろいろあるんですよね。
また、別の本で、斉藤学さんというどこかの有名な学者さんが、「おかあさんの木を決めるといい」と書いてありました。つらいとき、厳しいとき、気持ちが定まらないとき、その木をお母さんと言うことにして、自分をしっかり見詰めるそうです。
おおー!これはいいと思いました。ゆるぎなく、うごかず、人よりもずっとずっと長くただそこに立っている木だからこそ、自分を変わらず見詰めていてくれる安心感が得られるんだなと。
そして、その本にはこういうふうに書いてありました。
【おかあさんの木の見つけ方】は、その木の前に立つと自然と涙がこぼれて、自然にすべてを赦せるような気持ちになるような、それがあなた自身のお母さんの木です。
以前、沖縄旅行をしたときにこういう木に出会いました。
ただ涙が出てきて、時間がとまったようになった、そして、あっという間に時間が過ぎていた木でした。とっても好きだ!と思った木でした。自分の大元に今もいてくれると思います。
私の場合は遠いの残念ですが、
近くて見付けられたら、心の芯の1つとなってもらいながら、よりよい自分、より自然な自分、より楽な自分でいれるんじゃぁないかなぁと思います。
私は中学生のころまではとても地味な子で、友だちもほとんどいなかったんです。
だから辛いことなどがあっても誰にも相談できなくて、
年の近いお兄さんが同じ学校にいたらいいなぁとずっと思っていました。
そんなお兄さん代わりになってくれるのが、校庭のイチョウの木でした。
辛いことがあるとその木の所にいきます。
とても頼りがいのある木で、そばに立っているだけで心が癒されました。
よく木の幹によりかかって、心の中で木とお話ししていました。
落ち葉が落ちると、お守りがわりに葉っぱをもらって持ち歩いていました。
今でもその木は私のお兄さんの木です。
時々見に行きます。
卒業してしまうと校庭に入りにくいので道から見るだけですが、大好きなイチョウの木です。
カバーが汚れてきたなあと思い、はずしてみるとものすごく明るい。こんなに明るいんだ?! と感動しました。なんだか、このままの方が良いな?と思い、それ以来、カバーを戻していません。明るくなって元気が出るのです。
我が家に古いヤマナシの木があります。実も大きくなく、収穫したことがないので「なんのために
植えてあるのか?」と疑問に思っておりました。
しかしある人の話では、昔は家の鬼門の方角に植え、「鬼門無し(ナシ)」と縁起を担いだそうです。参考までに、ヤマナシの花の画像です。
http://norihana2.web.fc2.com/y-yamanashi_01.htm
割合可憐な花で綺麗だと思います。気に入った人は植えてみてはいかがですか。花を楽しめて、縁起をかつげる。一石二鳥です。
鬼門というと南天かと思っていました。
http://myhome.nifty.com/kiso/kasou/qa/20050414.jsp
なるほど「難を転ずる」という意味があったのか>南天。
ヤマナシも同じような意味なんですね。
うちの押入れや、クローゼットは整理したつもりでも、
「あれ?こんなのがあるー!」と懐かしいものが時々出てきます。
片付けるために覗いていたとしても、たいてい、そこで見入ってしまって
なかなか先に進みません。
今日、雪が降りましたが、雪の積もった木々を見るのがだいすきです。
木の茶色と雪の白、細い枝の1本、1本までも積もった雪はとても素敵です。
うちの方は朝、雪降っていませんでした。
天気予報で夜雪マークがついていたりすると、翌朝カーテンを開けるとき少し緊張しちゃいます。子供の頃程はとてもうれしかったのですが、今となっては、降って欲しかったような、降らなくてホッとしたような複雑な気持ちですね^^;
家のどこにも収納できない、ガラクタのようなものを置いておくスペースです。以前、暖房設備の置いてあった一角の木壁を外し主人に作ってもらいました。入れてあるものは、布の端切れ、リサイクルの包装紙(日本からの頂き物などの包装紙)、リサイクルのリボン、ペンキ、毛糸、編み物道具、いつかまとめようと思っていて全くできていない雑誌の切り抜き、ポスター、紙袋等。10年以上使っているので特に端切れは何百種類もごちゃごちゃとあり、いくつも大きな袋に入れてどさっと置いてあります。秩序のない空間ですが、逆にいろいろあって、ここを開くのが一番楽しいかも。それは子どもも承知で、何か作りたくなると、このスペースに突入しています。少なくとも、子どもが小さなうちは、残しておきたいスペースでしょうか。壁の戸をはめれば一応何もないかのような壁に戻るので、それもよし。(いつか知らない間に猫が入り込んでしまって、戸を閉めた後にガリガリと大騒ぎしていたことがありました!)
とっさに片付けたいときに、とりあえずこの手のスペースに入れておくと便利です。
ランプシェードを手作りされている方も多いと思いますが、和紙を使って作ったランプシェードは、なんともいえない温もりがあっていいですね。
ネットで調べてみると作り方の書いたたくさんのサイトがヒットしますので、参考にしながら挑戦してみるのも楽しいと思います。
子どもの服やおもちゃがなかなか手放せずどうしたものか……と悩んでいたら、主人が「とりあえず屋根裏に保管しておいたら」ということで、まとめて置いてあります。譲った物もありますが、思い出深いものは、どうしてもさっと手放せない性質で、これが整理整頓の大きな障壁になっていることは確か。でも、屋根裏に思い出を詰め込んで時間を置くアイデアは、なかなか気に入っています。手放した後で後悔したくありませんし、とりあえず思い出の保存ができていることに満足ということで。これって、たぶんしている家が多いと思います。子どもが成長した後に箱を開け、感じることはまた違うのでしょう。
わが家は屋根裏が使える構造になっていないので、
思い出は物置に収納するしかありません。
物置は、どうしても家の外に追いやってしまうイメージが付きまといます。
その点屋根裏は、思い出と同じ屋根の下にいられる気持ちがしていいですね。
長く暗い冬が続くと気持ちがだんだん滅入ってくる――。緯度の高いシアトルに住み、冬場に気持ちが塞いでしまう人々の気持ちがよくわかりました。季節性情動障害 (SAD=Seasonal Affective Disorder)は、俗にウィンター・ブルー(Winter Blues)と呼ばれ、北欧やロシアなど緯度の高い北国ではアルコール依存症につながるほど、結構深刻な社会現象になっています。北欧では20%、米国アラスカ州では(SAD傾向のある人々が)25%と診断されているそうで、これを聞いて環境が人間に及ぼす影響がよく理解できました。スカンジナビアで6世紀にその症状が明らかにされたと言いますから、忍耐強い風土は長きに渡る暗い夜がもたらしたのか……とも思わずにいられませんでした。
SAD一番の療法は、明かり療法。時間が経つにつれて、太陽のように少しずつ明るくなる電灯です。でも昔の人々は、このような便利な明かりはなかったのですから、どう冬を越していたのか……。早く春になって欲しいと願うばかりです。
Seasonal affective disorder - Wikipedia, the free encyclopedia