いわしの回答(転記)
鉛筆・色鉛筆・クレヨンがシャープペンシル、マジックペンなどの影に埋もれてきたような気がします…
文房具店に行っても明らかにおいてある数がなくなってきたように思います。是非残していってもらいたいですね。
そういえば、文房具屋さんにもクレヨンとかは少ししか置いていないですね。クレヨンですが、甥っ子は私や妹が小学校の時に使っていて、残っている物を見つけて家で使っています(^^)
子供の塗り絵とかにはやっぱりクレヨンや色鉛筆がいいと思いますので残したいですね。
イエとして次代に残せるものがあるんだろうか>うち。
地域の次代…っていっても都会だからコミュニティ意識薄いしなあ…江戸時代のお金持ちとかだったら、「Kumappus用水」(wとか名が残せたんだろうけど…。
なんかこういうテーマだと「次代」ってものそのものを考えさせられてしんみりしてしまう。
野鳥が住める環境。
(勿論他の動植物もですが)
これ以上地球の環境が悪化しないで欲しい。
少しでも地球環境が悪化しないように今年の冬も省エネ生活です。
(家の中でも古くなったコートなどで厚着をしています。)
というか、わが家らしさを醸し出しているポリシーみたいなもの?です。
私の家では「感謝」がポリシーです。でもわが家で言う感謝はちょっと特別で、「サンキュー」「ありがとう」の意味だけではなく、感謝を「感じて謝ること」の意味にもとらえます。
「ありがとう」と「ごめんなさい」の両方が素直に言える人になる。そして「ごめんなさい」から「あなたと一緒にいられるのがうれしい、ありがとう」が生まれるし、そういう素直な心が幸せを呼び寄せると教えられてきました。
だからうちでは親も子供にごめんと言います。お母さん、今朝は何々お願いって頼んでおいたのに、あ、ごめんなさい、あ、私の方こそ無理言ってごめんなさい、みたいに親子でごめんなさいを言い合って、お互いの事情を理解し合います。時にはけんかになることもありますが、そのあとは謝り合戦になります。
こういうのはほんの一例ですが、わが家らしさを作っているポリシーみたいなものが、ずっと子や孫の代まで受け継がれていってくれたらうれしいと思います。
二人の子供の名前は、奥さんと二人で決めました。
その意味を説明する『由来』を作っています。
まぁ、子供なんて、いい意味でも悪い意味でも親の期待通りには育たないものなんでしょうけど、親の想いはその時々で常に本気なんだゾ!と。
その原点にあたるのが命名なんじゃないかと。
それに、自分の名前の由来ってちゃんと知りたいじゃないですか。
だからちゃんと文章で残っているのっていいんじゃないかな?と思うんですよね。
つーか多分、面と向かって言えないんじゃないかと思うので。照れくさそう。
「僕の名前ってどういう意味なの?」
「ん?え、えーと、あれだ。はい、これ。部屋で読んで。」
便利だよきっと。
以前「家にある無用の長物」のテーマの時にご紹介させていただいた、父の書く、書の掛け軸。私はこれを次代に伝えていきたいと思います。父の書は何の賞も取ったことがありませんし、展覧会などに出すわけでもないので、客観的な評価として優れているのかどうかはわかりません。でもとても勢いがあり、それでいて独特の落ち着きを併せ持つ、とてもいい字だと思うんです。また書かれる言葉も天地の恵みを感謝する言葉や自然の美を讃える言葉など、説教臭くなく、それでいて何かを教えられるような言葉が多く、父の人柄がよく表れています。
父は自分の書を自分で「無用の長物」などと呼んでいるくらいですから、それを次代に残していきたいなどといったら恥ずかしがると思いますが、その価値は十分あると思います。父が心を込めて書く掛け軸は、将来わが家の家宝にしていってもおかしくない物だと思っています。
私のうちには、私が生まれた時に買ったキューピー人形があります。
私が赤ちゃんのときの写真にも写っています。
母が言うにはネズミが齧ったらしく左の足先がすこし削れたキューピーです。
私の子供も、このキューピーと一緒に写真を撮っています。
なんてことないキューピー人形なんだけど、
赤ちゃんへの愛情とともに伝わっていってくれるといいなと考えています。
赤ちゃんだったsayonarasankakuさんのお友だちになってくれたキューピーさん。きっとsayonarasankakuさんの成長をずっと見守ってきてくれたキューピーさん。そのキューピーさんが今度はsayonarasankakuさんの子供さんのお友だちになって、その成長を見守っていくなんて。うぅ、私、こういう話に弱いんです。なんだか胸がキュンとしてしまいます。
sayonarasankakuさんのお母様も、きっと次の世代にこのお人形を伝えたいなって、そう思って大切にしておいてくださったんですよね。そして今、sayonarasankakuさんも同じ気持ちになって、そしていつかお子さんも大人になって子供ができた時に同じ気持ちになって。母親の愛と一緒に、ずーっとキューピーさんが受け継がれていくなんて素敵です。
幼い頃、母が色んな歌を歌って聞かせてくれました。ピアノに合わせて色々と。その中には新しく作られた歌もありましたが、母自身が子供の頃に聴いて育った歌もたくさんありました。
ですから私は、今でも古い童謡や唱歌がたくさん歌えるんです。さすがに歌詞は一番しか憶えていないものもありますが、メロディはちゃんと憶えていますから、歌詞さえ分かれば何でも歌えます。
前にも少し書いたことがありますが、こうした歌には、失われつつある美しい自然や、今の人々が忘れかけている様々な生き物との共生の素晴らしさが歌い込まれています。
都会では嫌われ者のカラスも「七つの子」が作られた当時は誰もに愛される鳥でした。
公園の鳩に餌をやっていると今では悪人扱いされかねませんが、「鳩ぽっぽ」が作られた頃は、鳩に餌をやることは子供の楽しみの一つでした。
専用殺虫剤まで売られるに至ってしまったアリも、「おつかいありさん」が出来た当時は、子供の興味深い観察対象であり、仲良しのお友だちでした。
「とんぼのめがね」や「めだかの学校」は多くの人が歌える歌だと思いますが、皆さんは今年トンボや野生のメダカを何匹くらい見ましたか?これらの生き物が歌になった時代には、日本全国から「数え切れないくらい」という答えが返ってきたに違いありません。
「鷲」なんて曲はご存じの方、いらっしゃるでしょうか。これはかつての文部省唱歌です。雄々しい鷲の姿と、愛情深く雛を育てる優しい鷲の姿を一番と二番でそれぞれに歌っていく歌なんですが、今はもう鷲の仲間の多くはレッドデータブック入り。自然の空を飛んでいる鷲の姿を見たことのある子供なんて、どのくらいいるのでしょうか。
長くなってしまいましたが、私はそんな、歌に歌われてきた豊かな自然や、人間以外の生き物と共に手をたずさえるようにして生きてきた人の歴史を、後世に残していきたいんです。たくさんの歌たちにそのメッセージを乗せて。
もちろん、失われたものを懐かしんで歌う歌とせず、いつまでも残していかなければならない大切なものを歌う歌として、です。物としては、それらの楽譜と歌詞集でしょうね。巻頭にこうした私の歌との出会いや次世代に伝えたい思いを記して、編纂してみたいと思っています。
童謡のCDで聴いたというのではなく、
おかあさんに歌ってもらったというのが、とても大切なことだと思います。
こうして愛情とともに口伝えに子供へと伝えられていくのですね。
目をつぶると、今でも歌声が聞こえてくるのではないでしょうか。
私は本当は人間が土地を所有するなんて間違っていると思います。だって地球ができた時からあるものを勝手に自分の土地だって言い張ってるだけですから。でも、この家の土地には愛着があります。生まれた時から住んでいる場所…ではありませんが、ここは父や母が苦労してやっと夢を現実にした場所。私の思い出もいっぱい詰まっています。庭の石ころひとつにも愛着があります。だから…。いつまでもいつまでも、ここがここであってほしい…って思うんです。神様、どうか大好きなこの場所を、私や私につながる人たちに、これからもずっと使わせてください。生き物の命を損なうような毒で土を汚したりしません。やってくる鳥や虫たちをいつも歓迎します。植物を植えて、いつもいきいきとした場所に保ちます。だから、ここをいつまでも私たちの子々孫々の家として使わせてくださいね。お願いします。
最近は平成の大合併で、古くからの町や村の名前が消えています。
産まれた町の名前が大都市の名前になって味気ない感じさえします。
土地の名前はその場所を示した名前が多く、その名を聞くだけでその土地を知る事、想いを浮かべる事も出来る名前が多いです。
富士見町と付けば富士山が見える町なのかもしれないと思ったり。
学校の名前に残ったりしていればまだそこから昔を想う事も出来ます。
最近では第一小学校とか番号で着いた学校名。まるで背番号みたいでしっくり来ません。
簡単にわかりやすい名前かもしれませんが、その場所や町の名前が付いたほうが住民の皆さんの愛着も違うと思います。
昔の通りの名前、町の名前、残して欲しいです。素敵な呼び名の町が消えるのは哀しいですから。
すでになくなりそうなものを次代の誰かに渡せるか、ということなのですが…。
よく読んでいた真空管の雑誌に連載されていたかたが急になくなってしまい、その雑誌上でその方が作っていたアンプを実費程度でお譲りしますという記事が出ていました。
かなりの長期連載でしたので、おそらくちゃんとしたアンプはご遺族のほうでお知り合いに譲られたりしたのかもしれませんが、そこに出ていたのは実験的なアンプでおそらく知らない人が扱うと危険そうなものや知識がないとセットアップできないようなものだったと記憶しています。果たして貰い手がついたんでしょうか…。
振り返ってみて手元に何台かアンプがあるわけですが…そのうちただの粗大ゴミになっちゃうんだろうなあなどと考えたりします。説明書があるわけじゃないから知らない人が見たら全然使えないだろうし。部品にも耐用年数があるわけで、僕が生きてる間にもどこか壊れてしまったら修理する気力があるかどうか。そうなったら粗大ゴミになるわけで。
何だかそう考えると何だか変な気分です。
そういえば往年の雑誌執筆者の皆さんの中で故人になられてしまった方、いらっしゃいますね。そういう方達の遺してきた様々なノウハウも、次世代につないでいきたい物だと思います。
製作品そのものは、たしかに耐用年数の問題もありますから、ゆくゆくはいつか再生を待つ展示品みたいな形になってしまうかもしれませんが、それでもアンプに寄せる思いと共に受け継いでいって欲しいですよね。
ところで私は今、いわゆる並三、並四ってやつ。昔のオートダイン式ラジオです。あれの再生を数台手がけてるんですよ。パーツがボロボロなので苦労します。バリコンなんか錆びて粉吹いてますので、バラして洗浄です。コイルも腐食して切れているのは巻き直し。端子も腐ってたりするのでコイルで使えるのはボビンだけのものもありますね。当然コンデンサなんかは全取っ替えです。すごいですよ、パラフィン含侵のペーパーコンデンサなんかネズミの囓ったあとがあったりします(笑)
電源部はトランスを含めて新品に取り替えないと恐くて通電できませんし、ま、そんなこんなでほとんどのパーツが交換になってしまうんですけどね。それでも何とか現役だった当時の形跡をできるだけとどめられるように努力しています。
Kumappusさんのアンプも、もし将来再生修理が必要になったとしても、そういうマニアがきっと現れてくれます。浜の真砂は尽きるとも世にマニアの種は尽きまじです(笑)
Kumappusさんのアンプはきっと、もっとずっといい保存状態で受け継がれていくでしょうから、球が入手できる限り、百年後でもきっと素晴らしい音を奏でてくれていると思います。
現代は、着物を着て生活する場所ではなくなりました。着物を着て生活を実際にしてみるととてもたいへんです。洋服のほうがたしかに動きやすいというのもあってか、着物を着る人は本当に少なくなりました。
それによって着物の着方を忘れてしまい、着れなくなり、いざ着物を着る際には着付けの人に着付けてもらうしかなくなってしまいました。
そして自分で着たい場合には着付け教室にお金を払って教えてもらうことになりました。
しかし、私の着物の師とあおぐ方曰く、着付けは習いにいくのではなく、昔は親に着方を教えてもらうのが常。
たしかに私の場合も親が着なくなって久しく着方を忘れてしまったので、着付けの教室に習いにいきました。
なので、私は次の世代には自分で教えてあげたいです。ごくごく一般的な方法ではなく、その人にあった着物の着方を教えていけたらと思います。
その土地土地によってある方言なども、今はおじいちゃんおばあちゃんは使うけど、私たちは使わなくなってしまったものが多くあります。
言葉ってとても大事なものだと思うんです。言葉には意味がある。標準語ではない自分の家で使っている言葉をそのまま次の世代に伝えていけたらと思います。
東京にも様々な土地土地の言葉がありました。たとえば下町のべらんめえ。多摩地区には「だんべー」言葉もありました。島嶼地域には伊豆半島の方言に近い「ずら」言葉もあります。でも、今はほとんどそうした言葉が使われることはなくなってしまいましたね。
東京の場合、今はもう親の世代がその地域特有の言葉を全く使わない世代ですから、おそらくどの家庭の中でも、いわゆる標準語しか使われていないと思います。
家の中に郷土の言葉が生きている地域の人たちは幸せだと思います。土地の言葉は使っていないと忘れてしまいますから、どんどん家庭の会話で使って、次の世代に伝えていってほしいと思います。それは文化を伝えることでもあると思います。
わたしの場合、短歌です。
(……といっても、ここのところ欠詠が続き、毎月母親から催促の電話を受けているという情けない状態なのですが……)
祖母が某短歌結社創設者の愛弟子で、うちはわたしで三代目の社友になります。
三十一文字に残される心情は、人の生き方そのものを投影し、胸を打ちます。
定型であるからこそ、深さが生まれるのですね。
祖父が結核で倒れ、女手一つで暮らしを支えた祖母の生き様は彼女の短歌にそのまま表れ、当時の彼女の年齢を越えたわたしに痛切に伝わってきました。
歌が彼女を支え、歌があったからこそ乗り越えられた、そんな気概です。
わたしも自分の生きる証として短歌を詠み、家族に残していきたいなと思います。
モノとして残すのであれば、歌集でしょうか。
いつのことになるやら。
とりあえず、今月は詠草を送らなければ……と、まじめに想い直しました。
その家の文化、これも是非残したいです。私の家だと、年末までに家をきれいにしておき、お正月の朝には、全員で仏壇や神棚にお礼という。神棚に向かって座り、父が先頭に座ってみんなが後ろに座り、お礼と感謝のお辞儀をします。朝は薄味でだしの聞いたゆずの香りの雑煮と、重箱に入った贅沢ではないが、愛情と気持ちのこもった手作りのおせちを食べながら、色んな話をします。そういった各家の、習慣や文化。風邪を引いたらこれを作ってあげるんだよみたいな。そういうのをずっとつなげていきたいなと思います。
地域での人と人とのつながりが、どんどんなくなっていきますね。
でも何かあったときには人のつながりが役に立ちますので、今ある地域での交流を何とか残していきたいです。
空き地が開拓されて、宅地販売されるとそこに新しいコミュニティーの住宅街が出来ます。
ですが、そこだけで完結してしまっている住宅街ばかりが多いようです。
その中では知っていても、隣の通りの方々とは全くの交流もないってのもありがち。
住宅を購入する世代が、子供が出来てとかの30代40代が多いので、昔から住んでいる方々の世代とかけ離れている場合も。
地域交流がないと、中越地震みたいな大き目の地震が起きた時の助け合いと、相互の確認が出来なくて困難かも・・・と思ってしまいます。
プライベート干渉とか言われるとそこでシャットアウトされている事も多いはず。
町内でお餅つきとかして、交流している町内を見ると羨ましいです。
作ってくれた人、お肉になってくれた動物や魚に感謝をする気持ちを残したいです。食べきれない分は作らなかったり注文しないように、残ってしまったら明日のご飯の1品に。食べ物も限りあるものだと思いますので大切にしたいです。