「優しかったピアノの先生」by id:Cocoa


その先生はピアノの先生にしては珍しい男の先生でした。まだ大学を出たてくらいの若い先生で、噂ではどこかの学校の講師もしているらしかったので、今思うと正式な教師になるまでのつなぎのバイトだったのかもしれません。
最初は、男の先生なんて嫌だなぁと思っていました。レッスンが厳しいとかそういうことではなく、私が緊張してしまうのです。小学生の女子が大人の男の人と一対一で狭いレッスン室の中なんて、息が詰まりそうになってしまいます。しばらくは教室に通う足が重かったです。
雨の日の午後、相変わらず重い足取りでレッスン室に入ると、先生がにっこり笑って、今日は普通のレッスンはお休みにしてピアノで遊ぼう、と言い出しました。え?と思っていると、先生はピアノの前に座って、ショパンの子犬のワルツを弾き始めました。とても優しい、流れるようなメロディでした。それまで何度も発表会などでこの曲を聞きましたが、指の動きが速い曲なので、速さに釣られて刺々しい音になってしまうことが多いのです。ところが先生が弾くと、音がフワッと流れ出てくるように聞こえてきました。
弾き終わると先生は、今度は大イヌのワルツだよ、おっきなおっきなゴールデンリトリバーと言って、同じ曲をゆっくり、時々速さを変えながら弾いてくれました。本当に大きな犬がのっそりのっそり歩いてくるようで、思わず笑ってしまいました。
じゃ次はポメラニアンの子犬のワルツと言って、ものすごく速く弾き始めました。目にも止まらぬ速さで指が動いていきますが、とても優しい音で、本当に小さな小さなポメラニアンの子供が爪先立ってはしゃいでいる感じがします。途中でポロンと音が止まって、先生が一言。
「あ、こけた」
そしてゆっくり曲が再開されて、すぐにまたちっちゃなポメのはしゃいでいる様子になりました。私はもうお腹を抱えて笑っていました。
弾き終わって先生は、ね、音楽ってすごいだろう、音だけで、まるで目で見ているように姿が伝わる。こういう音楽の素晴らしさをみんなに伝えたいんだ、だから僕はこうしてピアノを教えている、と話してくれました。私は先生の言葉に感動していました。そしていっぺんにその先生が大好きになりました。
大好きになると、先生の素敵なところが色々見えてくるようになりました。よく見るとすごくかっこいい。笑顔も素敵、声も素敵。ある時街角で先生の姿を見たことがありますが、教室の外の先生はドキッとするくらいかっこよかったです。
それに先生は子供の演奏もばかにしません。「じゃ通して弾いてみようか」と言われて弾いていると、先生は目をつぶりながら、本当に熱心に耳を傾けていてくれるのです。そして弾き終わると、演奏の悪いところではなく、良かったところを誉めてくれます。だから私は誉められなかったところを次までに練習します。今度はここをほめてもらうんだ。そんなふうに頑張ることが出来ました。今思うと、先生はこういう自分で気付く練習を大切にしてくれていたんだと思います。悪いところを他人に指摘してもらうのは簡単です。でも自分で自分の欠点に気付いてこそ伸びるということ。今になってみると、先生の教え方の素晴らしさがよくわかります。
私はバレンタインに、手作りのチョコを作りました。生まれて初めて作りました。とても不細工なチョコになってしまいましたが、先生はそれを渡した夜、わざわざ電話をくれたほど喜んでくれました。
レッスンの日は玄関の鏡を覗き込んで、少しでも可愛く見えるようにと笑顔の練習をしてから出かけたりしてたなぁ。発表会の日は特別なドレスを着せてもらえるので、それを着て先生の前を言ったり来たり。お、可愛いねなんて声をかけてくれないかと期待して。われながらとっても一所懸命な恋するちびっ子でした。


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