いわしの回答(転記)
友人が家を建てることになりました。こつこつと資金を貯めて憧れのマイホーム造りに着手したその真面目さを讃えようと、親しい者同士で祝いの席を計画していたのですが、それより早くに本人から、上棟式をやるので来てくれとの声がかかりました。
さっそく祝いの一升瓶などを持って現場に駆け付け、無事上棟式を済ませた後、まだ柱しかないような建てかけの家の中で、焼き肉パーティが始まりました。
男性陣は工事用の電灯から電気を引いてホットプレートをつなぎ、「炭火でやりたいな」「新築現場だからマキは山ほどあるぞ」「やめてくれ、新築前にここを燃やす気か」などと騒ぎながら準備。奥さんの友達も駆け付けて、まるで屋外バーベキューのような室内(?)パーティになりました。
友人の中で一番にマイホームの夢を実現した友に何度も乾杯をし、その満面の笑みを肴にさらに飲みました。心に残るプレ新築パーティとなりました。
もう想像するだけでワイワイと楽しそうですねー!柱組みだけの建設中の家でパーティとは、そう滅多にできないこと。出来上がる前から人が集まって祝ってくれて、きっと幸せな家になるでしょうね。しかし炭火でバーベキューは厳禁ですね!棟梁がやって来て怒られそう(笑)。ホットプレート焼肉でよかったです。完成した家はプレ新築パーティに参加した人には格別に愛しく思えそうです。今度は家の誕生パーティも毎年記念日としてひらくと楽しそうです!
〈ハザマ〉
高校生の頃。友達の誕生日を祝ってやろうと、カラオケに行く計画を立てていました。ところが当日、肝心の主人公が学校を欠席。どうしたのかと思って電話してみると、風邪をひいて熱もかなり高いとのことで、ガラガラ声で、カラオケ行きたかったよなどと言っていました。
そこで学校が終わってからみんなでケーキや果物を買って、お見舞いに行ってやろうということになりました。行ってみると、もうだいぶ具合が良くなったようで、喜んで迎えてくれました。
両親とも仕事に行っているというので、何か食ったかと聞いたら、何も食べていないとの返事。さっそくケーキを出して、コップを借りて飲み物も出して、みんなで乾杯。
男だって熱を出して一日一人で寝ていれば、気も弱くなります。その友達は、俺家で誕生日祝ってもらったのなんて小学校以来だよと、ちょっと涙顔になっていました。
その後は両親が帰ってくるまでゲームなどをして盛り上がり、楽しい時間が過ごせていい誕生パーティーになったなと思っていたのですが、少々ハメを外しすぎたようで、友達はまた夜に熱が上がってしまったとのことで、翌日も学校を休んでしまいました。
まあ本人はすごく喜んでくれましたし、なにかと無茶をしがちな頃の楽しい思い出です。
風邪で寝込んで弱っている時に友達が助けに来てくれたらどんなにうれしいか!私も独り暮らしが長いですが、その友達のうれしさがよーくわかります!でも、男子でもケーキや果物を持って行くって、とても気が利いていて優しいものなんですねぇ。そこで遊んで盛り上がり、また熱が上がってしまったというのは高校生らしいお話ですけど(笑)。
私が高校生の頃にはせいぜいスナック菓子を持ち寄って部屋でお喋りするくらいだったかなぁ。あ、カラオケがあるおうちに行ってカラオケ大会したり、卓球台があるおうちで卓球大会なんてやったなぁ。私が高校生の頃はわりと誰かの家で遊んでいた気がしますね。懐かしいですー。
〈ハザマ〉
まだ小学校の低学年だったころ、友だちの家でお泊まり会をしました。そこの家はけっこう大きなお風呂場なので、おばさんに子供はいっぺんに入りなさいと言われて、友だちと、その妹と、私と、三人で一緒にお風呂に入りました。
お風呂のふたを開けると、桃の葉っぱが浮いていました。いい香りで、とてもすてきなお風呂でした。今考えると、きっとおばさんは、桃の葉の一番風呂に子供たちを入れてあげたいと思って、みんな一緒に入りなさいと言ってくれたのだと思います。でも子供ですから、桃の葉っぱを体に貼り付けて遊んだりして、せっかくの葉っぱがちぎれて台無しになってしまいましたが…。
三人で体の洗いっこをしたりして、もともと仲良しでしたが、もっと仲良しになった気がしました。
それから夕ご飯。おばさん手作りのおいしい料理をいただいて、そのあと、三人でテレビを見たりトランプをしたりして遊びました。
ただそれだけのことですが、今でもその時の楽しかった思い出は忘れられません。
子供の頃のお泊りは楽しくて忘れられませんが、「桃の葉風呂」のおもてなしがあったとは素敵なお話です。きっといい香りなんだろうなぁ。お友達のお母様の優しく楽しい演出ですね。
私も小学二年生頃だったか、同じクラスで仲良しになった男の子(!)のうちにお泊りに行ったことがあり、その時も男子と女子なのに一緒にお風呂に入ったんですよね。そしたら、男の子が学校で「僕、この子と一緒にお風呂に入ったんだもーん」って平気でみんなに言いふらしていて、私の顔は真っ赤(笑)。「入ってないってば!」と私、「入ったもん!」と男の子。今でも忘れられないエピソードです^^。
〈ハザマ〉
丁度同じくらいに新居をもった、主婦友達の間で、
毎月それぞれの家でホームパーティをしました。
個人の負担をなくすために、みんなでいろんなものを持ち寄りしました。料理ももの凄くたくさんになってしまいましたが、お酒好きの友達ばかりなので、じっくりお昼の3時から、夜の11時まで、それぞれ旦那をそっちのけで楽しみました。
新しい家って見るのもすごく楽しいし、
子ずれママの赤ちゃんも家だと安心!
毎年開催したいですね。
主婦友達でなかには子供さんもいらっしゃったら、家でのパーティが一番安心してくつろげますね!しかし午後3時から10時までって、ずいぶんたっぷりと楽しまれるのですねー(笑)。それだけお喋りすることが多くて!ってことでしょうね。
私は家でパーティする時は夕方遅めから始めるのですが、あっという間に時間が過ぎて終電がきてしまい、いつも「今度はもっと早くから集まろう!」と言っているのですが、なかなか早くには集まれなくて…。考えれば、7時間くらいすぐ経ちますね。遊んでいる時の時間はどうしてこんなに早く過ぎるのでしょう?不思議!
〈ハザマ〉
というのをやりました。イラク料理を作って食べ、食には国境がないということを実感しながら、本当の国際貢献とは何かを考え合うパーティです。
作ったのは、まず代表的なラマダーン料理の一つ、レンズ豆のスープ。ラマダーンはアラブの歳時記の核とも言える主要行事ですから、これは日本のお節にあたるような料理でしょう。
材料はレンズ豆とタマネギ、塩、黒コショウ、油(イラク人はひまわり油が好きなようです)。乾燥レンズ豆は、数時間水戻ししたものを持参しました。
レンズ豆は中火で約1時間、水から煮ていきます。色が変わって柔らかくなったら火から下ろして冷まします。
レンズ豆を煮始めるのと同時に、豆1カップあたりタマネギ中1個を適当に切り、しばらく空気にさらします。こうするとタマネギの辛み成分が血液をサラサラにしてくれる成分に変わるんです。この行程はアラブ料理とは無関係。私のオリジナル(笑)
レンズ豆の粗熱が取れたらフードプロセッサに入れて潰します。そして豆1カップあたりブイヨン3カップと共にさらに攪拌。
タマネギは油を引いたフライパンできつね色になるまで丁寧に炒めます。
炒めタマネギと、どろりとしたレンズ豆を厚手の鍋に移して、中火で約1時間。黒コショウと塩で味を整えて出来上がり。ポタージュのようなスープになります。
ちなみに仕上げにカレー粉を豆1カップあたり小さじ1ほど振ると、カレー風味のレンズ豆スープになります。こういうのもイラクでは有りなのだそうです。私は両方のバージョンを作りました。
カレーバージョンに、仲間が「具」として肉団子を入れてくれました。牛挽肉に砕いたニンニク、塩、黒コショウを混ぜ合わせ、小さな肉団子にして、ひまわり油で揚げます。これをスープに入れて10分ほど煮ると、食べてお腹満足の一品に早変わり。
主菜は、なんといってもカバーブです。私たちは簡単にフライパンで作りましたので、なんかハンバーグみたいになりましたw でも、イラクの一般家庭でもこんなもんだそうです。
これに、ピーマン大1個、トマト大1個、タマネギ中1個、小麦粉1カップ、刻みパセリ小さじ1、ニンニク2片、塩小さじ1、黒コショウ適宜、油。
作り方は、まずボウルの中に、挽肉、荒みじんに切ったピーマン、タマネギ、潰して荒みじんにしたニンニク混ぜて混ぜます。黒コショウ、塩、パセリなどを加えてさらに良く練り、肉に粘りが出てきたら小麦粉を少しずつ加えて練っていきます。
全ての小麦粉を加え終わるとだいぶボソボソしてきますので、ここでサイの目に切ったトマトを水分も含めて全て加えます。まだボソボソしすぎるようなら、少し水を加えても構いません
うまくパテ状にまとまるようになったら、お弁当ハンバーグくらいの大きさの楕円形に成形。
あとはフライパンを熱して油を馴染ませて焼くだけです。油はカバーブが半分浸かってしまうくらい多めに使い、焼き上がった後に油切りをすると、より現地の風味に近付きます。油が切れたらレタスをあしらった皿に盛りつけます。
主食はナンのようなパン。これにカバーブと野菜を挟むとイラク風ハンバーガーになります。ほかにも仲間がナス料理などを数種類作ってくれました。
こんなのを作り、食べながら、イラクについて考え合いました。今イラクでは、食べるどころか生きることもままならない人達がたくさんいます。
軍隊主導の「復興支援」は、正しい言葉では「占領」と言うのだー!!
世界は一刻も早くイラクの軍事占領を解くべきだー!!
全ての復興をイラク人自身と、アラブ周辺諸国主導の国際協力に切り替えていくべきだー!!
というような結論を得て、世界に目を開く有意義なパーティとなりました(^-^)
子供の頃のクリスマス。「輪になって座って、歌に合わせてプレゼントを回して、歌が終わった時に自分が持っているプレゼントをもらう」というプレゼント交換をしたことがあります。
が、男の子に可愛い物があたったりその逆もあったりして、その交換方法はそれ一度きりでした(^^;
でもたのしかったですよー^^
ちなみに私が貰ったのはお菓子でした(嬉)
学生時代にしました!買った人の個性がでて開けて楽しいですよね。これは誰が買ってくれたんだろうって考えるのも、自分のものが誰に当たったか見つけるのも楽しい♪
私はカエルのボックスがあたったことがあります。長い間私の家で口を開けててくれました。
とあるまんがでしているのを見ておいしそうだと思い、おせんべい好きの友達と一緒にまねをしました。海苔せんべいが大好きです。
東北出身の友だちの家で食べたお鍋がせんべい汁でした。お鍋におせんべいを入れるというのがとても珍しくて、おいしかったです。郷土色ゆたかなホームパーティになって、とても楽しかったです。
子供2人、同じ月の5日違いのバースディ。
家族での誕生日会を同じ日にして1回で済ましたら
すご?く不満のようでした。
たったの5日違いというのが困ったですね。私が子供でもエー!?と不満に思うかも(笑)。よく、誕生日がクリスマスに近いのでプレゼントも一緒に済まされたというのを聞きますが、それって大人になっても一生言ってますよねー。子供にとって誕生日というのは自分が主役になれる数少ない日なので、やっぱり一人一人でしてあげた方がいいのでしょうかね?親はタイヘンだけど!
〈ハザマ〉
近所の歴史が好きな人と史跡めぐりにいったり、お祭りに言ったりすることが多いのですが、さて夕飯をどうするか?と言う話になったとき、
「俺作るよ」とうちのダンナがいい、料理をつくってくれてみんなで食べました。
ダンナの料理がおいしかったらしく、それからはどこかに食べに行くのではなく、家が居酒屋状態にw
ちなみにうちのダンナは今では大将とよばれていますw
いっしょに時代劇なんかをみてツッコミいれたり、すごく楽しいです。
それからうちでご飯をたべることを、居酒屋鎧を開くというようになりました。
あはは、旦那さまは「大将!」と呼ばれているんですね。きっとお料理が上手いんでしょうねー。うらやましいです!そんな時、vivisanはお料理せずに旦那さまだけが作られるんでしょうか。やっぱりホーム居酒屋には男の大将ですよね!vivisanは女将さんとしてテーブルを切り盛り、でしょうか(笑)。何だか楽しそう。「○○屋」といった名前も付けられるともっと楽しいのではないでしょうか?
〈ハザマ〉
本当は不当解雇励ましパーティーですが…。
突然クビを言い渡された友達のために、みんなで食べ物を持ち寄って、そいつの部屋を占拠して一晩飲み明かしました。やり場のない怒りをどこにもぶつけられない友達には、ただ一緒にバカヤローとグチを言い合ってやることしかできませんでした。
食い散らかして、酔ってうとうとして雑魚寝して、また目が覚めると飲んでとやっているうちに、一人が、大学の頃ってよくこんな飲み会をやっていたよなと言い始めました。そこから、まだ俺たちは若い、ここから始める人生があっていい、そうだそうだ、おー!と急に座が明るくなって、はじめてクビを喰らった友達が笑いました。窓の外が、もう明るくなりはじめていました。
これが直近の一番思い出深いパーティー(?)です。
坂の途中に見事な桜の木がある所があります。その向かいに友達のアパートがあり、桜が咲くといつもそこに集まってはお花見をやりました。近所の誰かが工事用のライトを持ってきてライトアップしてくれているので、夜桜がそれはきれいです。
まだ学生の頃でしたので、男どもはビールや焼き鳥、女子は手作りの色々な料理を持ち寄って、男女混合で夜通し楽しみました。
少しアルコールが回ると、部屋を出て桜の下に行くのも恒例でした。要領のいいやつはすぐ女の子と二人きりになってしまいます。私も一度だけ、いいなと思っていた女の子と二人で夜道を散策する機会がありました。
坂を下りると橋があって、その脇にもう一本桜があります。そこまで行って桜を眺めて、橋から川を眺めてアパートに戻りました。遅くなって、みんなに冷やかされたのが嬉しかったです。その直後に彼女は留学。結局そのままになってしまいました。思えばあれが、おくての私には、初めての恋愛感情だったような気がします。そういう意味で、思い出深いお花見パーティでした。
これはお花見パーティなのかお見合いパーティなのか!?楽しく甘酸っぱい思い出ですね(笑)。
でも、家の庭に桜があったり、家から桜が見えるというのは素敵だ?。私も何度か知人の家の庭でのお花見会にお呼ばれしましたが、いわゆる桜の名所で人のごった返した中でのお花見とはひと味もふた味も違ってゆったりと素晴らしい会でした!
〈ハザマ〉
妹の誕生日がクリスマスということもあって、うちでは妹の誕生会=クリスマスパーティでした。
(自分の友達が家に集まってパーティのときは妹も混ざって楽しみました)
やっぱりいつもよりちょっと豪華な食事でしたね。
ちなみに、妹の誕生会の日には、よくそのやりとりを父が録音していました。
そういえば、今そのカセットどこにいったんだろう・・・。
カセットで録音ですよ!(強調)
今ならビデオを回すのだろうけど、時代を感じますねぇ(苦笑)
ただ、自分の録音された声を聞くのがイヤで、(自分の耳に聞こえてくる音とあまりに違いすぎて)テープがなくなるまで全くしゃべらなかった年があるのを覚えています。(いつだったか定かじゃないですが)
やっぱりお父さんって、子供たちの記念日を記録するものなんですね。たしかに今だとビデオでしょう。でも私は恥ずかしながら今まで一度もホームビデオというものを持ったことがなく、どんな記念の会でもパーティでもいまだにデジカメでスナップ写真です。で、パーティの場合、持ち寄ったり作ったりして並べたお料理の写真も必ず撮ります。特別に作られたものだし、おもてなしを考えて盛り付けも美しいのでつい食べる前にパチリ。そういう記録って、後々で見るのも楽しいものですね!
〈ハザマ〉
やや照れくさかったんですけど、友達が名前入りのケーキを用意してくれた事には感動したな?
ちょっとした事ですけど
懐かしいです。子供の頃のバースデーケーキには必ず名前を入れてもらってましたね。今は残念ながらそれはないけど、もし名前入りにしてくれたら断然うれしいかも。そうだ、今度からオシャレなケーキに凝るばかりでなく、友達のバースデーには名前を入れてあげよう!
〈ハザマ〉
パンの先生もできる人がいたから皆でパンを作ったんですけど、
出来たてホヤホヤの手作りパンは今まで食べたパンの中で一番めちゃめちゃおいしかったです。
わぁ、いいなぁ。焼きたてホカホカのパンの美味しさにはうっとりしますね。私はその場で焼いてもらったことはないです。いつも、パン屋さんでたまたま「焼きたてでーす」と言って並べられたのをすかさず買ってその場で食べる!それくらい焼きたては美味しい。私もパンづくりの上手なお友達が欲しいです(笑)。
〈ハザマ〉
友達の知り合いとかも集めてホームパーティーした時に、普段あんまり話したことない人と仲良くなれた
家で集うととても親密な雰囲気になりますもんね!初めて会う人がいても、自然と友達の輪の中で親しくなれる。これが家での集まりのいいところ。私もうちでパーティする時は知らない友達の同伴も歓迎してます。新しい出会いは楽しいものです。
〈ハザマ〉
ガーデンパーティといえば、私はこれまでに教会や日仏会館などのお庭でのパーティしか参加したことがないですが、季節のいい時には格別に気持ちがよくて素敵ですよね。ドイツでのガーデンパーティはどなたかのお宅だったのでしょうか。私もできることなら、芝生と緑の木々に囲まれてガーデンパーティができるような家に住みたいです。日本だとちょっと無理っぽいですが、そんなに広くなくてもいいので…夢ですね!
〈ハザマ〉
95で亡くなった祖母の精進落しが心に残ります。
病じゃなくて、老衰で亡くなった大往生だったので、精進落しの会も悲しみの涙ではなくて、楽しい祖母との思い出を語る会でした。
おばあちゃんと血縁関係にあるものが一同に介して、思い出を語るのは聞いていて、知らないおばあちゃんの面をしったり、血の繋がりのあるものだけが分かり合える気持ちなどで、ほんわかした会でした。
まるですぐそばに亡くなったお婆ちゃんがいて、皆の話をニコニコして聞いているような気分がしたほどでした。
その時の精進の時にしか出ないメニューも心に残っています。
血のつながった人で思い出を分かち合って、さぞおばあ様もお喜びだったことでしょう。こういう最後の迎え方ができたら、送られる方も送る方も本当に幸せだと思います。とても温かな気持ちになるおはなしでした。
まだ子供のころのことですが、友だちの家に呼ばれました。ほかにも仲良しの子が数人呼ばれていました。行ってみるとお菓子やご馳走が並んでいて、何のパーティ?お誕生日じゃないよね?などと不思議がりながらも、仲良しどうし、楽しい時間を過ごしました。
しばらくしてその子のお母さんが入ってきて、じつは、と言って、引っ越すことになったと話してくれました。友だちは泣いてしまって、私たちもみんな泣いてしまいました。
その日のお菓子やご馳走は、その子とお母さんが二人で手作りしたそうです。帰りに星形の可愛いクッキーをおみやげにもらいました。ありがとうと書かれたリボンが結んでありました。
その友だちからは、今でも年賀状が届きます。転校してから一度も会っていませんが、素敵なお別れパーティで結ばれた友情は大人になっても変わりません。
ネタで、一部にわさび、からし、豆板醤などいろいろ入れたんですが、焼いている最中から不穏な香り漂うチョコ以外は好評で、拍子抜けでした。
しっかしみんないいパソコン持ってるなあ・・とか思いました。
私の村は浄土真宗なのですが、法事の後にパーティをします。
家族としては負担は少ない無く、うちの奥さんなんかいやだと言ってますが。隣に最近住み出した人はコミュニケーションが出来ていいと言ってました。私もどちらも当たっていると思います。
住職は人生を考えろと言ってますが、そこまではなかなか難しいです。
学生時代バイトしていた会社は夫婦で立ち上げたIT会社で、会社の名前も小さいと言う意味の外国語でした。
社員は夫婦だけ。後は派遣のお姉さん。私達はバイトだったんですが、ずいぶんかわいがってもらいました。
あるとき鍋パーティをしたいというバイトの話に社長の奥さんがのってくれて、闇鍋パーティになりました。当時お金がなかったので皆が持ってきたのは餃子やうどん、チョコレートやパイナップルだったのですがえらく盛り上がって泊まった人もいました。恋の話や結婚の話、色んな話を飲みながら話して、みんなで飲んだくれて盛り上がりました。(社長さんも優しくて、奥さんは特に面白い人なんです)。以降今でもその夫婦とはつながっていて時折集まっては飲みに行ったりしています。集まると当時の感覚が残っていて、「○○○!←会社名 カンパーイ!」みたいなノリになり、大笑いです。何であんなに毎日笑ってたんだろうって言うくらいいつも皆で笑っていたような気がします。
いまはもうそのちっちゃい会社はなくなったのですが、パーティや、その日々のたのしい思い出はしっかり残ってます。
今書いていて又メールしたくなりました。笑
高校生のときにケーキ屋さんでバイトしていたときに
クリスマスが終わったあと(師走との間くらい)に
オーナーがクリスマス会を開いてくれました。二回がフランス料理屋さんだったので、料理は超豪華!そのときはじめて鹿とウサギの肉を食べました。ケーキ屋さんはクリスマスが勝負時なのでもちろんバイトも休めず、当時付き合ってた彼氏にはブーブー文句を言われて冗談じゃない!って思っていたのですが、おいしいご飯をいただけてよかったって思いました。
私は6年前から近所で集まって餅つきを12月30日に参加しています。(29日は「2重に苦しむ」からだめなんだってさ)思い起こせば1回目の時は力任せに杵を振り下ろし臼の縁に直撃し杵を追ってしまったなどと言う失敗談もありましたが最近は自他共に認める餅つき士に成長したという自負があります。8時から午後3時まで餅をつき続けます。白餅、青のり餅、海老餅、キビ餅、粟餅、よもぎ餅など色とりどりの餅をつきます。炊きたての餅米を食べたり、餅を丸めながら談笑したり、餅米が炊きあがる合間に飲むお酒や料理を味わったりつきたての餅をバイト先や友達にあげるととても喜んでもらえると20代の若造ですが幸せを感じます。ただ餅つきが終わると指が動かなくなってしまうんですけどね。まぁ喜びと苦しみは等価なのでしょう。
小さい頃にともだちの家で催されたクリスマス会ですね。
その時はまだ家族だけのパーティーしかしらず誰か他所様の家に集まって過ごすクリスマスなんてはじめてだったので、とても新鮮に感じてました。大勢の友達で集まってケーキを切ったりプレゼントを交換したり、普通のことなのに全てが目新しかったので些細なことまでが楽しく感じられました。
社宅に住んでいた頃、セキセイインコを飼っていたのですが
(イヌネコはダメでもインコはOKだったので)
自分の家と同様に、インコを飼っているイエが多く、
インコ同伴でパーティということもありました。
もともとうちのインコは人間語はしゃべりませんでしたが、
当然のようにインコ同士の会話はインコ語。
私たちにはインコが何をしゃべっているのかわかりませんでした・・・。
でもインコたちも楽しめたようなのでOK?
父親がいない時に、居間のガラス窓を突き破って鳥(きじだったかどうか忘れました)が侵入してきました。
そこにいたのは、母と父方の祖母と自分だけ。
母親は
「これは吉報が来る知らせだ。昔、私の母親から聞いた事がある」
と言って大喜びしていました。
しかし、その年に父方の祖母は脳溢血で亡くなってしまいました。
母親は、自分の母親に再度確認したところ
「鳥が家の中に入り込んでくるのは凶事の起こる知らせ」
だったそうです。
悲しい思い違いでした。
でも未だに、鳥が家の中に入ってきた時の母親の大喜びしている姿が何故か忘れられません。
今ちょっと検索してみたのですが、やはり鳥が家に入ってくると吉と書かれたブログがいくつか見つかりました。地域によって色んな言い伝えがあると思いますが、野生の生き物が家に来てくれるというのはやはり特別なことですから、それは良い知らせの前兆と考えていいんじゃないかと思います。
お祖母様のことは悲しい出来事でしたが、それもきっと良い人生を送られ、幸せに旅立って行けたということなのではないかと拝察します。
ホームかどうか、微妙ですが。。。
大学生の夏、一ヶ月ドイツの語学学校に行ったのですが
スペイン人たち主催でサングリアパーティーが開かれました。
サングリアって、ワインとフルーツの混ざったお酒らしいです。
トルティーヤというスペイン風オムレツを食べさせてくれました。
私のルームメイトは一つ年上のスペイン人の女の子だったので、
その子のおかげで日本人だけで固まらずに、
いろんな国(といっても西欧が多い)の人たち話せました。
日が暮れると音楽かけて皆、踊りだしたのですが、
あえて有名なヒット曲を選んでるらしく、
私でも聞いたことのある洋楽がちょこちょこあって、
一緒に適当にカタカナで歌いながら踊って楽しかったです。
若者だけじゃなく、年配の人も混ざってるのが印象的でした。
「年上を年上扱いしない」って良い側面もあるのだなぁ、と
感動した覚えがあります。
あとでわかったんですが、同じ語学学校でも
その時のそこの受講地は来てる人の層が良かったらしいです。
持ち物とられる危機感とか、東洋人に冷たいとか
露骨に味わわなくて済んだのは良かったなぁ?
海外の映画でも良く年配の人がダンスしたり、おしゃれしたり、とってもチャーミングですよね。自分も歳をとるのだし、お年を召された方が皆で楽しんでいるのって楽しい未来が見えてる感じで素敵です。
小学校4年時に友達たくさん招待して誕生日会をしてもらったのを今でも憶えてますね。
なぜならすごく好きな女の子も誘ってその子にも祝ってもらえたから!
プレゼント交換みたいなのは、なかったような気がするけど、それでも十分たのしめました。ケーキたべたりゲームしたり。
親しい友人が5、6人居たので、自分の家に集まってパーティをしたことがあります。
季節がいつだったのかは覚えていませんが、たぶんクリスマスだったと思います。
ただ、当時の家が1階建てだったため、友達全員は泊まれないので、友達のうち二人は自分の家に泊まり、
残り3人は別の友達の家に泊まりました。
小学校時代では一番楽しい時期でしたね<小学校5年・6年
ケーキやいつもよりちょっと豪華な食事。
それが楽しみでした。
甘いものが大好きな友達と美味しいと思うケーキ屋さんのケーキを数個買って持ち寄り、みんなで試食会…。
20個以上のケーキを女3人で食べつくしました。
今は体重が気になって出来ないですが、またやってみたーい!
一人6個以上は食べたという事ですよね。
読んだだけでお腹いーぱいです!
20個のケーキは並べるとお店と変わりませんよ。
甘いものが好きな人にはたまりませんね。
私の小学校の時にもやりました。転校してしまう子の家でやったらその子が「転校したくないよー」と泣き出してしまってちょっとしんみりしてしまいました。
大人の別れは、その気さえあれば、いつか会うことができますが、
子供にとっての別れは近くても一生の別れくらいの出来事になります。
転校にあこがれていた私は、
送る方しか体験したことしかないですが、とても寂しいでしょうね。
友人が書道師範となったのを記念して(?)、書き初め新年会をしてきました。
当の友人以外、ほぼ全員、書道なんて小学生以来。しかも、その、子どもの頃の嫌な記憶と関連させないため、『楷書でなく行書で書き初め』という無謀な会(笑)。
上手くは書けませんでしたが、行書だったおかげで、動きとか空間を追うだけの絵を描くような感覚になれたので、とても楽しめました♪自分の思ったように筆が動かない感覚、それこそが楽しかったのです(笑)。
またやりたいですー!
書道はストレス発散になります。
大きい字を半紙にドーンと書きなぐるとすごい事を成し遂げたような満足感♪
知らず知らずのうちに30枚も同じ字を書いていたりします。
みんなでああだこうだ書くのも楽しいでしょうね。
子供のときは、友達を誘って家で 誕生会をしたものですが
大人になるにつれ、そういうのは しなくなってしまいましたねぇ。
ま、今度は 自分の子供ということでしょうが、子供がいないので いつになったらできることやら・・・。
小さい頃は社宅(6棟あり、1棟あたり約30世帯入居のアパート)に住んでいたこともあり、近い年齢の子が沢山居て、
お互いの家をいったりきたりの状態で、誕生会もそれぞれの家でやった記憶があります。
父の転勤で別の土地に移ったとき後は、既に皆成長していて(おおむね中学生以上)あまり行き来はなくなってしまいましたが(1軒くらいかな遊びに行ったのは)
その当時を振り返ってみるとなんだか寂しくなりました。(しんみり)