「プロの蕎麦職人がお客様、おもてなしは無謀にも父の手打ち蕎麦」by id:Fuel


母方の遠い親戚に、プロの蕎麦職人がいます。小さな蕎麦屋ですが、一貫して手打ちの自家製麺にこだわり続けて何十年というお店のご主人です。そのおじさんが所用で上京してくることになり、わが家に立ち寄りたいと連絡してきました。しかもその目的が、父の打つ蕎麦だというのです。せっかく近くまで行くのだからどんなものか一度味わわせてくださいとのこと。おじさんにしてみればプロのちょっとした洒落っ気というところでしょうが、父にしたら大事件です。


いよいよ、老舗のご主人がやってきました。父はこの日のために選びに選んだ蕎麦粉を取り寄せ、何日も前からまるで運動会前の子供のように浮き足立っていました。まずはるばるたずねてきてくださったおじさんにお茶など召し上がっていただきながら世間話ですが、おじさんもお蕎麦が好きで好きでたまらない人ですから、自然に話はそちらの方へ。父はもう、憧れの野球選手にでも会った子供のように目を輝かせて聞いていました。


いよいよ父の蕎麦打ちです。蕎麦は打ちたてが命ですから、素人が素人なりに少しでもおいしい蕎麦をお出ししようと努力するなら、必然的におじさんが見守る前で打つことになります。父は緊張しまくりでしたが、蕎麦の打ち方は一つじゃない、人それぞれ色んなこだわりがあっていいし、色んなやり方があっていいんです、いつもやっているように自由にやってくださいとのお言葉をいただき、いよいよ作業が始まりました。


最初はヒヤヒヤするくらいぎこちない様子でしたが、やっと調子が出てきて、いい手際になってきました。笑顔も出ています。作業は割合スムーズに進み、ほどなくして四人分のざる蕎麦ができあがりました。薬味は一切ありません。蕎麦だけの味を楽しみますから何も要りませんと、おじさんがそう指定されたのです。


いよいよ試食です。自作の蕎麦を、おそるおそるおじさんに差し出す父。おじさんの箸がザルの上のお蕎麦に伸びていきました。緊張の一瞬です。箸で蕎麦をつまみ上げて、おじさんは「ほう」と言いました。「たいしたもんだ、丁寧な仕事が仕上がりに生きています」とのこと。これはアマチュアにとっての最高の誉め言葉でしょう。技術ではプロにかなうはずがないのですから、心を込めて丁寧にやる以外、アマチュアにできる努力はありません。


続いてまずつゆ無しで蕎麦を口に運びました。しばらくして、うん、これなら店に出せますよと、これまたすごい誉め言葉でした。親戚としてのリップサービスもかなりあったと思いますが、父はもう大喜びでした。あとは皆でズズーと元気な音を立てながら、楽しくお蕎麦をいただきました。


おじさんは、自分で作ると出来具合ばかり気になるし、息子さんが作ってもそう、同業者の所に食べに行っても専門的なことばかり気になって心から楽しめない、久し振りに心の底から楽しめるお蕎麦だったと、これもかなりお世辞が入っていると思いますが、とても喜んでくださいました。


あとは、おじさんと父で心ゆくまで蕎麦談義。親戚と言ってもかなり遠縁の方ですから、こんなに親しく話をしたのはお互い初めてだったようですが、プロの職人さんと趣味のアマチュアの違いはあっても蕎麦を愛する心は通じ合うようで、とても楽しそうでした。


後日おじさんから、プロの目で選んだとっておきの蕎麦粉が届きました。別便で手紙も届き、いつか遊びにいらっしゃい、そのまま住み着いてうちの暖簾を継いでもらっても構いませんといったようなことが書かれていました。もちろん冗談でしょうが、父は「食べてもらうだけでない、おもてなしの蕎麦を目指す」と、半分本気になって蕎麦打ちに励んでいます。あれだけお世辞を言われても天狗にならず研鑽に励む姿勢だけは、わが父ながら拍手です。父が退職を迎えたら、本気で蕎麦職人になりたいと言い出すかもしれません。


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