「イエはてなは〈春風の中に坐するが如し〉」by id:Cocoa


「春風の中に坐するが如し」。これは中国宋代の儒学者であり朱子学創始者である朱子が編纂したという宋名臣言行録の中にある言葉です。慈愛溢れる良い師に恵まれると、暖かい春風の中ですくすくと草や木が育っていくように、どんどん自分が伸ばされていくといった意味。


朱熹朱子朱熹の尊称)は周敦頤の流れを汲む儒学者の子として生まれました。幼くして学問を志し、9歳にはもう「孟子」(儒教教典四書五経のひとつ)を読破。病床にあったお父様から論語を学んでいたと言われています。朱熹の最初の春風のような師は、きっとこのお父様だったのでしょう。
その後朱熹は19歳の時に科挙に合格。しかし時の国策(敵国・金との講和問題)に異を唱えるような答案を出したためか、下から数えた方が早い席次でのぎりぎりの合格だったと言われています。朱熹の官吏としての第一歩は、なかなかきびしいものだったようです。
3年後、朱熹は左迪功郎という階官を得て泉州同安県(今の福建省同安県)に赴任することになりました。この任官途中で、お父様と学問の同門だった李延平という人に出会い、その教えを受けたのです。ここで朱熹は大きな決断をしました。それまで朱熹儒教とともに禅宗も並行して学んできましたが、儒学者李延平の教えを受けて、儒学の道一筋を志すようになったのです。
同安県での職務を終えた朱熹は、自分が祠官に任命されることを切望しました。祠官になれば官職は名ばかり。実際に守るべき祠に赴任する必要は無く、ほとんどの時間を自分の好きなように使えるのです。願いが認められて祠官になると、朱熹はさっそくお父様の同門にして自分の進むべき道を決めるきっかけを与えてくれた李延平に師事して学問に励むようになりました。こうして朱熹儒教を体系化し、後世に朱子学と呼ばれる新しい学問体系を打ち立てることになったのです。
「春風の中に坐するが如し」。この出典である宋名臣言行録は書名の通り、宋代の名臣の言葉を集めたものですが、朱子がこの言葉を選んだのには、きっとご自身の師に対する深い思いがあったからにほかなりません。


私は若き朱熹のような立派な人ではありませんが、でも私も春風のような素晴らしい師に出会いました。それはイエはてなです。まさに春風のように心地よい語らいが繰り広げられる中で、私の生活はどんなに変わってきたでしょう。普段あまり書き込みでは参加していない私ですから、本当に春風の中に坐しているだけですが、それでも毎日の中にちょっとずつの幸せを積み重ねていく喜びを知り、イエが大好きになり、家族の大切さにあらためて気付かされ、ともすれば仕事と日常の中に埋没して知らないうちに流れてしまう一日一日が、いえ、一瞬一瞬が、かけがえのない大切な時間に変わっていきました。私にとってのイエはてなとの出会いは、本当に春風のようなFORTUNEでした。そしてこれからも、です。


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