いわしの回答(転記)
今は結婚式でも着物を着たりする人が減ってきていますが
着物は海外でも通用する素晴らしい日本の文化ですよね。
彩り素晴らしい華やかな着物はぜひとも残していきたい文化です。
成人式では、よく母親が着ていたものをそのまま来ている女の子もよく見受けられますし
何年経っても変わらず着ていられるので、1着持っているだけでも価値ありますよね。
季節の移り変わりは、家の庭やベランダの植物の彩りを変えてくれます。
一年に一度の花や収穫を楽しみにしたり、四季それぞれ楽しめるように工夫をしたり……
四季折々に気候が違うことによって、さまざまな楽しみ方をさせてくれます。
また、四季が変えるのは、植物だけではありません。
自分たち人の服装、装いにも変化を与えますし、家の中の装いも大きく変化させます。
夏の扇風機、冬のコタツなど、家も四季によって装いを変えますよね。
植物だけではなく、人や家にも変化を与えてくれる四季。
地球の気候の変化などで、ずっと未来にどうなっているかわかりませんが……
美しい日本の四季は、永遠に残っていてほしいものだと思います。
「軍歌」とタイトルにあるので、平和を愛する皆さんには「え?!」と驚かれてしまうかもしれませんが、とりあえずお読みください。
「ソノシート」とは、アナログレコードの一種ですが、通常のレコードとは異なるペラペラの塩ビシートなどにプレスされたレコードのことで、薄く、柔軟性があって割れないので、雑誌にレコードを添付するなどのメディアミックス製品に多用されていました。
「ソノシート」という名称は朝日新聞社の関連会社だった朝日ソノラマという出版社(2007年会社清算)の商標で、同社は59年末より「音の出る雑誌」というキャッチフレーズの「月刊朝日ソノラマ」を刊行するなどして一世を風靡しましたが、その後は多数の会社が、懐メロや民謡、童謡、童話の朗読、テレビ主題歌、その他様々なテーマの「音の出る単行本」や「音の出る絵本」を刊行。60年代はソノシートの時代と言ってもいいくらい、たくさんの製品がリリースされていたようです。
そんな中に、「軍歌」のソノシートがありました。今私の手元にある物は祖父の家からお預かりしてきた物で、ジャケットは何ページにも及ぶ立派な本になっています。そこには歌詞だけでなく、曲の沿革や当時の時代背景などが詳しく説明されていて、なかなかの読み応えです。そして、数ページに1枚ずつのソノシート。ソノシートの保存状態はあまりよくなく、きっと何度も何度も繰り返しかけては聞いていたのでしょう、かなりノイズがひどくなっていましたので、PCで録音してデジタルデータ化してバックアップとすることにしました。
その作業中、それぞれの曲をじっくり聞きました。最初は単に資料的価値だけで作業していましたが、聴き込んでいくうちに、だんだんそれぞれの曲の本当の姿が見えてきました。
今「軍歌」と呼ばれている物の多くは軍隊のためではなく庶民のために作られた「戦時歌謡」とでも呼ぶべき歌で、戦時下の世相を反映してテーマは軍隊や戦争ですが、その内容はけっして戦争を礼賛するものばかりではなかったのです。
たとえば「戦友」。
此處は御國を何百里
離れて遠き滿州の
赤い夕陽に照らされて
友は野末の石の下
日露戦争を舞台に作られたこの歌は戦場で友を失った一兵卒の悲しみを歌ったもので、軍律に反して戦闘をかなぐり捨てて友の手当てを行う様子などが歌われています。こうした内容が軍規を乱すとして、太平洋戦争中、軍隊内では「禁歌」とされていたそうです。ある意味これは戦争の悲惨さをリアルに歌い上げる反戦歌でした。
「ラバウル小唄」
さらばラバウルよ
また來るまでは
しばし別れの涙がにじむ
戀し懷しあの島見れば
郷子の葉かげに十字星
ラバウル(ラボール)はニューブリテン島シンプソン湾を臨む都市の名で、太平洋戦争中は日本軍の占領下にありました。日本軍の一大拠点として陸海軍合わせて9万余名が駐屯。自給自足体制によって食料を確保するなどして、兵士たちは現地に「定住」するかのように過ごしていたといわれています。この歌はラバウルを生まれ故郷のように思いはじめていた兵士たちの帰還を歌ったもので、現地の女性との淡い恋心や別れの悲哀なども歌われています。兵隊はけっして殺人兵器なんかじゃない、やはり血の通った人間なんだと教えられます。
「麥と兵隊」
徐州徐州と人馬は進む
徐州いよいか住みよいか
しゃれた文句に振り返りゃ
お國訛りのおけさ節
髭が微笑む麥畑
この歌は、雑誌「改造」に連載された火野葦平の同名小説が評判となったことから、陸軍報道部の依頼によって作られた「国策歌謡」でした。
作詞は当時から多数のヒット曲を手がけていた藤田まさと氏。藤田氏は当初、出だしを「ああ生きていた/生きていた/生きていましたお母さん」としたそうです。ところが軍当局から「お国のために死ぬことが軍人精神だ」とクレームが付き、仕方なく「徐州徐州と人馬は進む」の歌詞に書き直したというエピソードが残っています。
藤田まさと氏は戦後もヒット曲を多数手がけていますが、その中に、未だ帰ってこない息子を待ち続ける母を描いた「岸壁の母」があります。本来なら「麦と兵隊」にも、息子を愛し安否を気遣う母心が歌い込まれるはずでした。
このように、「軍歌」と呼ばれる歌には、実は戦争の悲惨さを伝え、兵士といえども血の通った人間であることを歌い、戦時にあっても変わらぬ母の愛を歌い上げるなどしながら、ひたすら平和の訪れを待ち望む歌が少なくなかったのです。表面的にはいかにも戦争礼賛の歌のように聞こえますが、真実はその逆でした。
私は多数のレコードやCDをコレクションしています。いつかそれを博物館的に公開するのが夢ですが、その多数のコレクションの中でも特にこのソノシートを、戦後に刊行された物ではありますが、戦時にあって平和を待ち望んだ人々の心を伝える物として、大切に保存し、未来に伝えていきたいと思っています。
私の住むマチ・沼津は古くから東海道の宿場町として知られ、広重の画にも描かれている当時から大きなマチです。
現在では、東名高速道路や国道1号線、旧国道1号線、電車では東海道本線。さらに、隣の三島駅になりますが東海道新幹線も通る交通に便利なマチです。
しかし、交通が便利になったからと言って、これまでの生活と比べ豊かになったのでしょうか?
知り合いの交通工学の先生に聞いてみると、電車や自動車で通勤時間が短くなっても、生活の質の向上が認められなかったというのです。
単純に、主観的な判断に基づく集計結果なので断言はできませんが、電車や自動車内での生活の質は上がったでしょうが、本来の目的は生活にかかる時間を減らして、家庭あるいは仕事場での時間に充てることが目的だと思うんです。
そのためにも、普段の通勤・通学の時間はなんとか大切にして、生活の質を意識した時間にしたいですね。
私の場合、通勤ですと隣(?!)の市まで自転車でおよそ40分程度。これを1年、2年、5年と続けていったらバカになりませんよね?
そこで、私の提案は単純で、もっと道や街道をマチの資源として活用することです。
道の駅があるように、歩こうの駅、すなわち歌碑や石碑、あるいは一里塚で歩みをいったん停め、その土地土地を愛でると言うことをしたいのです。
歴史を貴重な観光資源と認識しているマチですと碑が建っていたり、どことなく昔の通りの名残が隠れています。
私たちのマチといいますと日々の生活するためのマチばかりが強調されますが、実は隣のマチともつながっています。現代では交通の手段が多様化になり、特に自動車の出現は多くの連絡路を作りました。
しかし、歩くことやツーリングの楽しみも同時に再注目されています。自分の足で、当時の人とと同じ視線で。そんな思いが碑や史跡を残そうと私は考えついたわけです。
街道あれば、史跡あり。史跡あるところに歌碑・石碑あり。碑あるところに生活あり、です。
街道や歌碑・石碑の周りには、美しい花々や木々、先人を魅了した美しい景色があります。それを私たちは守っていきたい。
先人の生活や労苦が積み重なった上に、いまの私たちの生活が成り立っていることを自覚し、貴重な観光資源としての(再)活用を望みます。
街道と歌碑・石碑が、私が将来にバトンとして遺したい、未来に残したいモノですね。
どんなコンピュータを使っても実現出来ない匠の技が沢山あります。これは長年にわたる修行による、神業と言っても過言ではないでしょう。こういった伝統の技が今、継承者不足の問題で悩んでいるそうです。なんとか解決したいものです。
いろいろ便利になって今はほとんどのことを機械がかわりにやってくれたり、たいていのものはプラスチックの代用品が存在したりします。そんな中でも人にしかできないこと、古くから日本にある伝統工芸など厳しい時代ですがなんとか受け継がれていくとよいですね。
私の未来にも残ってもらいたいイエ・モノは銭湯です。
銭湯はかつては地域のコミュニティの一翼を担っていました。夕方になるとおじいさんが入りに来て、夜遅くになると働いているお兄さんが洗面器とひげそりを持ってやって来たのを眺めていました。
銭湯は小学校へ入る前に社会のルールを学ぶ大切な場所でした。服をたたむ、他人のモノを盗まない(ポスターに書いてあった)、お風呂上がりは周りをぬらさないようにしっかりふく。周りの視線があったからしっかりとやらなければいけないと父に諭されました。当たり前のことなんですけど、子どもだからいい加減になってしまいます。そうすると近所のおじちゃん、おばちゃんが「○○ちゃんダメだよ、しっかり体をふかないと風邪を引いちゃうよ」、「○○はきれいにたたまないから服が怒るよ」なんてコミュニティーの場として機能していたように思えます。
また、イエとしてだけでなくモノとしても素晴らしい。遠くから見た煙突や間近で見つめるボイラー室は大きくて火がごうごうとしていて幼心に、そしていまでも印象深いです。銭湯も私の町内にはすでになく、車で20分くらいの所にスーパー銭湯があるだけとなりました。昔ながらの銭湯がまだ私の住む市には残されているので、なんとか残ってもらいたいです。
そのためには、教育の場としてモノ・イエのコミュニティーとして利用して行けたらいいですね。幼稚園のお風呂教育など。
子供のころに聞いた童謡は、ある程度の年齢になってからしばらくの間、耳にしなくなっていました。でも、周りに子供が出来てきて、また自然と童謡が聴こえてくるようになりました。アレンジが入ったりしているものの、いい曲・音楽はいつまでも続いて欲しいなと思いますね。
童謡を聴いたのはおばあちゃんの声が初めてでした。祖母はいまもう他界しましたが、母の歌う童謡よりも優しく、子守歌よりも物語性があって祖母が来てくれるのが楽しみでした。
赤ん坊の耳に残る歌声はヒット曲に通じるものがあると思います。しかも、大人でも受け入れられる音楽だと言うことを、自分が子育てをしてみて感じたことです。子どもだけでなく大人も音楽を楽しむことのできる珍しい音楽です。他にはドラえもんやあんぱんまんの曲くらいでしょうか?
誰でも簡単に歌うことができて、それでいて歌詞に込められた意味を知ると、日本のよさを知ることができる。そこには人びとの生活があります。
そこで提案なのですが、童謡を「イエはてな」で作ってみませんか?まずは何を残したいのか、何を伝えたいのかコンセプトを固め、歌詞を作り、そして曲をつける。音楽に疎い私なので、自分で作曲はできませんが、ここにいる多くの方の協力で童謡ができたらと思います。
わが家に、そして世界中に残し、伝えていきたいもの、それはイエはてなです。
イエはてなが積み上げていく語らいから生まれていく文化を、色んな形で次の世代に伝えていきたいと思います。
たとえばイエはてなから生まれていく色んなシーズンサプリを、新しいわが家の「伝統」にして次の代に伝えていくとか、
イエはてなが教えてくれる色々な暮らしの楽しみ方を、新しいわが家の家風として伝えていくとか。
その輪が日本中、世界中に広がった時、それは人類の文化として継承されていくものになります。
きっとイエはてなの語らいは、私がおばあちゃんになっても続いていると思います。
メディアも多彩になって、あらゆる媒体がイエはてなのアウトプットに使われていくと思いますし、
学校でも地域でも色んな世代の「イエコトクラブ」が楽しく活動していると思います。
そんな時代に、私は孫に向かってこう言うんです。
「イエはてなの最初の語らいを作っていったのは私たちなのよ」
って。
「おばあちゃんも色んなサプリを考えたの?」
「そうよ」
「ねぇねぇ、今も残ってるサプリはある?」
「いっぱいあるわよ、ほら、これとか、これとか」
「わぁ♪」
イエはてなの本を一緒に見みながら、私たちが積み重ねていったイエコトの歴史を孫と一緒にたどります。
そして孫たちがさらに豊かに発展させていくイエはてなを楽しく眺めつつ、
孫には内緒で相変わらず二十歳代の娘の振りをしていわしに参加しているワ・タ・シw
なんてね。
家族と暮らしを愛し、イエコトを楽しみ、一つ一つ小さな幸せを紡ぎながら、それを未来に伝えていく。
私が未来に残していきたいものは「イエはてな」とそこから生まれるすばらしいサプリの数々です。
私もイエはてなを残したいと考えています。イエはてなとの出会いによって毎日の生活にハリが出てきて、毎日何かいいことないかな?と観察眼を持って生活できること、楽しみを誰かに伝えるために家での生活、外出の楽しみが一気に増えた気がします。
イエでの語らいのみなさんもできれば今後とも多く語ってもらいたいです。私がいいと感じたものは毎週印刷してノートに貼り付けて、何度も読んでいます。日々の生活に生き甲斐があるといいですし、生活の楽しみを多くの人と共有できるだけでもネット社会のよさを実感できます。
きっと、インターネットという伝達媒体も変わっていくでしょう。そのときのイエはてなの語らいの内容にも興味があります。でも、いま私が少なくともやるべきことは多くの人に納得されるいわしを書き上げること。いま読んでいる人だけでなく、この記事を読む誰か、またイエでの語らいを元にした本を読まれる方、そんな人をも意識した日々の生活にしたいものです。
今住んでいる所の民話はまだちょっと調べていませんが、以前住んでいた場所には、こんな民話がありました。登場するのは、おじいさんとおばあさん、そしてタヌキです。
ある日、おばあさんはご馳走作りに張り切りすぎて、晩ご飯を作りすぎてしまいました。そこで、裏のタヌキにお裾分けと、残り物をお皿に乗せて外に出しておきました。
そんなことがきっかけで、おじいさんとおばあさんは、毎日のようにタヌキたちへのお裾分けをするようになりました。しばらくの間は恐がって一匹も寄りつきませんでしたが、しだいにたくさんのタヌキたちがやってくるようになりました。おじいさんとおばあさんは、中でもお腹の大きなメスだぬきと、そのつがいのオスだぬきに注目していました。
「いつ子ダヌキが生まれるんですかねぇ」
「楽しみだねぇ」
しかしある夜、つがいのオスだぬきだけがやって来ました。様子が変です。お裾分けをその場で食べようとせず、口にくわえて運んでいきました。
「変ですよ」
「変だねぇ」
「私、後をつけてみますから」
おばあさんが後をつけていくと、タヌキの巣穴がありました。もしや子供が生まれたのかと、そーっと中を覗いてみると…。とんでもない。中ではメスだぬきが脚から血を流して苦しんでいました。
大変だ!おばあさんは慌てておじいさんを呼びに走りました。山仕事になれているおじいさんは、こういう傷の手当てにもなれているのです。おじいさんの手当てのお陰で、メスだぬきは命を取り留めました。その後メスだぬきは無事出産。可愛い子ダヌキたちに恵まれました。
子ダヌキたちが大きくなってくる頃、おじいさんとおばあさんに不思議なことが起こるようになりました。おばあさんが水を汲もうと思えばもう瓶の中に水が一杯だし、おじいさんが薪を割ろうと思えば、いつの間にか割ってあります。不思議なこともあるもんだと思っていましたが、ある時発見しました。タヌキたちの後ろ姿を。おじいさんとおばあさんは、いつものお裾分けを、さらにどっさり美味しい物にしたのは言うまでもありません。
こうしておじいさんとおばあさん、そしてタヌキたちは、つかず離れず、お互いがお互いを驚かさない距離は保ちつつも、いつまでも仲良く幸せに暮らしたということです。
と、これはどこの民話だと思いますか?
なんと東京杉並区、中央線阿佐ヶ谷駅近辺に伝わるお話なんです。東京にも、こんな自然豊かな暮らしがあったんですね。
実は今も杉並近辺には少なくないタヌキが生息しています。残念ながらそれは交通事故による死体の回収で確認されているという痛ましい現状がありますが…。
こういう郷土の民話は、人が自然と共に暮らしていた頃の大切な記録でもあります。そういう民話と一緒に、残り少ない貴重な自然を次の世代に伝えていきたいと思います。
民話には語り部が、自然には守り手が必要です。昔はどちらも間に合ってますと言いたいくらいだったと思いますが、今は違います。民話と自然を伝えて行くには、どちらも努力が必要な時代です。私もその一翼を担える人になりたいと思います。
何とか広島、長崎を訪れる機会がありましたが。これは、是非残して頂きたい・・・。広島球場(今は違うでしょう)も目の前あって、球場から垣間見える芝生の緑と、ドームの無機質なコントラストが印象に残っています。修学旅行は一回は広島・長崎にして頂きたいと思います。
ランドセルで登校する小学生が少なくなってきました。リュックサックやパソコンを運ぶようなカバンを抱えているのです。私の幼い頃はランドセルを背負って通うのが当たり前でした。男の子は黒、女の子は赤と決まっていました。
それが十年ほど前からピンクのランドセルが出てきて、あっという間に登山用のリュックサックです。子どももピンクのランドセルがいいなんて言うもんですから、「6年生のお姉さんになっても使うんだよ?!いいんだね!?」と高圧的に抑えました。派手な色合いなものを小さい子どもは好みますが長続きさせることはおそらくできないでしょう。それが、いまでは3年生。ようやくあのときのことを言うと「ピンクは恥ずかしい。お姫様みたいで」と言うのです。ランドセル選びは子どもに判断を任せてしまうと誤ってしまう好例だと思います。
また、私はランドセルをみんなでじゃんけんぽんして帰る小学校の帰宅がとても楽しかった。みんなで遊んで地区のチャイムが鳴ると帰ろうよと自発的に帰宅します。どんなに遊んでいても、楽しくても、自分たちだけの世界を現実へ引き戻す鐘の音でした。そのなかで、「チョコレート、グリコ、パイナップル」とみんなのランドセルを抱えて、ジャンケンで勝った言葉の歩数だけ歩ける。それが次の電信柱まで。どんなことがあっても、大人数の場合は前にランドセルを持った人は必ず連続で持たせないというルールがあった。弱いモノいじめを未然に防ぐ、そもそもみんなが楽しむゲームでした。ガキ大将でも運動もできなくて頭も悪い子でも笑ってランドセルを下ろす時を楽しみにしていたんです。だんだんと通学路ですから、友達が減っていき、私の家までになるともう3人だけ。同じ町内の友達になると最後に負けた人が玄関まで持って行く特別ルール。さながら召使いですね(笑)
いまでは、モノを残すことも大切な記念品。ですが大きなランドセルを押し入れに、あるいは倉庫に入れておくのはスペースを占めますし、場合によっては痛んでしまっていることも多い。最近、知ったのですが数年前の雑誌に「思い出を残そう」というコーナーがあり、ちょうどいまの私たちと同じくらいの年齢の夫婦が、ランドセルを保存している内容を発見しました。それは、ランドセルを小さくミニチュア化して、保存するというのです。ランドセルを小さくできれば保存も簡単ですし、何よりも無心で毎日が楽しかった小学生の思い出を残すことができる。それも、身近に撮っておくことができる。
みなさんも息子さんや娘さんがいたらぜひランドセルをミニチュア化してみたらいかがでしょうか?私の娘はあと3年で小学校を卒業します。なんとかそれまでランドセルを使ってくれればいいのですが、「ママ、このカバンを使いたい」なんて言ったら
どうしましょう。
ランドセルで登下校する小学生の姿、ランドセルを各家庭の息子さんや娘さんのそれぞれを私は残したいですね。風景としてもありますし、モノとしても。少子化で子宝を実感するのも子どもの姿あってこそなのです。
「ランドセル ミニチュア」の内容で見たんですが、私の当時読んだ内容はありませんでした。しかし、「ランドセル 保存」で検索してみたところ、2つ役立ちそうなサイトがありました。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~harmonym/
ミニランドセル
http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10001200999409040130078/
思い出ランドセル
1994年9月4日
最近はプライバシーとかいって高い壁で囲ったりする家が増えてなんだか怖い。生け垣なら威圧感なく、周囲にとっても気持ちいいのに。
最近は、生け垣ではなく、壁で囲ってしまっているケースがほとんどですね。
生け垣だと、やはり管理や手入れが大変かとは思いますが……
日本家屋には、生け垣がよく似合います。
緑を増やすという観点からも、復活していってほしいですね。
これもイエ・モノに含まれるかな?
今の時代、携帯電話やパソコンが普及してメールや電話ですませることが多くなったと思います。
わざわざ時間がかかる手紙で送らなくてもと思う人もいるかと思いますが、やはり手書きの文字には温かみがあります。
以前新聞の投稿欄で、手紙は情報だけでなく手書きの文字をみて相手の体調や気持ちまでが伝わってくるという事を読んで、ああそういうことまで手紙は伝えてくれるのかと改めて手紙のすごさがわかりました。
私も昔、祖父が送ってくれた手紙を大事にとっています。
今はもうなくなってしまってしまいましたが、当時の祖父の思いを読み返すたびに感じます。
コレだけは未来にも残っていて欲しいものです。
2日前に書いたところです、手紙。
実は当方のしでかした失敗を謝る謝罪の手紙だったのですが、メールでは代用できない意味があると思うのです。
実際には謝罪に現場に赴きました。
しかし担当の方がおいででなく、こちらもアポを取るのもどうかと思いいきなりお邪魔したので仕方なかったのですが、なにせお詫びの訪問ですから、そこで手紙によるお詫びと相成りました。
電話やメールでももちろん意図は伝わるでしょう。
しかし手紙の文面から、あるいは意匠から伝わる言外のメッセージ、そういうものこそ我々日本人が大切にしてきたものなのですよね。
手紙のやり取りはいつまでも受け継ぎたい文化です。
実家にアップライトのピアノがあります。
ぼくの妹のために両親が買ったもの。
ピアノがうちに運び込まれた日のことはよく覚えています。
あれからもう30年も経って、今では部屋のインテリアと化しているピアノですが、それでも正月や両親の誕生日パーティーなどで妹、弟がそれぞれの子供を連れて集まってくるときには大活躍するんです。
なんといってもまずは子供が「ピアノのフタを開けて」とおねだりを始めます。
「猫踏んじゃった」を教わりながら鍵盤をたどたどしく叩いていきます。
子供が弾きはじめたのに、いつのまにか妹が昔取った杵柄で本格的に大人向けのショパンだかなんだかを弾きます。
そのころには酒に酔った父親が「おれの歌える曲を弾いてくれ」とリクエストが入り、演歌の伴奏が始まります。
子供らが「いつになったら猫踏んじゃったの続きを教えてもらえるんだよぉ」とすねたり、母親までもが「次は私の歌う曲を」と台所から出てきたり。
年に数回しか出番のないピアノですが、こうやって親から子供、子供から孫へと受け継がれていく予定です。
CDなどで聞けますし、作曲ソフトなどで多くが表現できますが……
実際に楽器で演奏されたものを生で聞くのは、全く違うものがありますよね。
それだけあって、消えることはない存在であるとは思いますが、ピアノも含めて楽器は消えて欲しくはないです。
仮に未来の技術で、全く同じ音を機械的に生み出せたとしても。
高校までは、授業の始まりと終わりに、必ず全員で起立・礼・着席をしました。大学になるとそれもなくなるのですが、せめて高校までは残しておきたいと思います。礼儀も自ずと身につくと思うからです。
お寺やお茶室にある丸い窓。吉野窓とも言うそうです。
明り取りというよりは、季節ごとにお庭の様子を切り取る額縁の役目の方が大きいですよね。古人の美意識の高さにため息が出ます。
しかし、四角い窓の方が合理的だからか、はたまた円窓が似合う風景が現代の家屋にはないからか、旅行先でもないと滅多にお目にかかれませんよね。まあ、非日常にこそ似合うものなのかもしれませんが。
円窓と切り取られる景色、それからそれを美しいと思う日本人の美意識、3つセットで残したいです。
私は東京生まれ、東京育ちですが、なぜか鉄瓶だけは「京鉄瓶」が好きなんです。
鉄瓶は大きく分けて、南部鉄瓶と京瓶など関西系に分かれます。南部鉄瓶は本体と共に蓋も鉄製で、蓋のツマミ部分も一体鋳造されています。
これに対して京瓶などの関西系は主に蓋が銅で出来ていて、凝った物になると銀などによる金工象嵌が施されている物もあります。蓋のツマミ部分も銅板を加工して作られたいわゆる梅つまみ。さらに底には「鳴り金」という、その名のごとく沸騰すると軽やかな音を立てる細工も施されていたりします。
この「鳴り金」は、まさに岡倉天心が「茶の本」の中で茶釜が歌うと表現した、その仕掛けと同一です。天心はその音色を、水煙に覆われた滝の音や、遠くに聞こえる岩問に砕ける海の波音、竹林に吹く風と雨音、さらには丘に立つ桧が奏でるの颯々とした音色にもたとえています。
このように、京瓶などの関西系鉄瓶の特徴は、茶道の茶釜に通じる物なんですね。日常使いの湯沸かし道具にも茶の道の風情を楽しんでいく。そんな雅な心が込められた道具が、京都の鉄瓶なんです。
私はこの京瓶が大好きです。私が手に入れられる物は、保存状態が悪い鉄屑寸前の物がせいぜいですが、それを丁寧に手入れして再生します。「鳴り金」の細工は底に鉄片を漆で貼り付けた構造ですから、保存状態が悪い物はほぼ例外なく剥がれ落ちていますが、それはこれから長くその鉄瓶を愛用していくことで再生します。
「鳴り金」のそもそもは、長年にわたって付着していった水の中のミネラル分。それが化学実験の時にビーカーに投入する沸騰石と同じように、底から立ち上る水蒸気の泡を細かくしてくれるんです。すると、ボコボコという無粋な沸騰音が抑えられて、可愛い音がするわけですよね。それを模して作られた仕掛けが「鳴り金」ですから、私は人工的な細工ではなく、使い込んで行くことで生まれる自然の「鳴り金」の生成を目指します。
湯を沸かすだけの道具ではない。湯を沸かすという日常的な作業の中に、豊かな風情を楽しむ雅の心と、禅にも通じる侘び寂が同居する。こんな豊かな精神文化が日本にはあったんです。
鉄瓶という道具を受け継いでいくことで、そうした文化と日本の心も受け継いでいく。鉄瓶で湧かすお湯は、茶釜で沸かすお湯と同じまろやかさがありますから、これでお茶を淹れると本当に美味しいですよ。本当に旨いお茶を飲みたかったら、水だけでなく、湧かす道具にも凝ってみてください。わが家だけでなく、日本中で受け継いでいってもらいたい道具、それが鉄瓶です。
いつも博識をその折々のテーマにそって、ご披露してくださるTomCatさんのメッセージ。
「京鉄瓶」,「鳴り金」のこと、大変興味深く読ませていただきました。勉強になりました。
長火鉢で鉄瓶のお湯が沸く、なんとも心が温かくなる音を聞きながら、祖母の手作りのお茶を飲んでいた幼き頃のことが思い出されました。今でも、幼心にも美味しかったその味が忘れられません。
暮らしそのもののスタイルが変わった現在、あえて求めるスタイルになってしまったようですね。今では、“癒し”は買う時代。昔は、普段の生活の中に、知らず知らず癒されていたことがたくさんありますね。
な・つ・か・し・い・・・。そして、「鉄瓶」復活を!!