いわしの回答(転記)
とても小さなころですのであまり記憶が鮮明ではありませんが、私は祖母の背中におんぶをしてもらっていました。だんだん夕暮れがせまってきて、西の空が真っ赤な夕焼けになっていました。祖母は「夕焼け小やけの赤とんぼ」の歌を歌ってくれたと思います。西の方はずっと開けていて、ただまばらに木が生える雑木林だけが見えていました。
私は直前まで祖母にわがままを言って困らせていました。メロンパンが食べたくて食べたくて、買って買ってとせがんでお店まで連れて行ってもらったのですが、メロンパンは売り切れていたのです。近所にお店はそれ一軒しかなく、そこで売り切れていたらもうどこも買いに行く所はなかったんだと思います。
それでも私はやだやだ、メロンパンメロンパンとぐずり続けていたので、祖母は仕方なく私をおぶいながらお散歩をして気を紛らわしてくれていたのでした。
私は、おばあちゃんごめんねと言いました。祖母は、私こそメロンパンを買ってあげられなくてごめんよと言ってくれました。真っ赤な夕日が西の空に沈みそうになりました。私は祖母の背中から降りて、手を引かれて帰りました。本当は背中から降りたくありませんでしたが、これ以上祖母にわがままを言ってはいけないと思ったのだと思います。
その後私はあまり祖母と会う機会が無く、次に会った時はもうずいぶん大きくなっていたので、祖母におんぶしてもらったのはおそらくこれが最初で最後だったと思います。でも、この時祖母の背中で見た真っ赤な夕焼けと太陽は、今でも記憶にはっきり残っています。温かかった祖母の背中の感触も一緒にです。
人って結構それぞれににおいがありますよね。特におじいちゃんはそばにいるとおいだけで存在が分かりました。今どきなら加齢臭なんじゃないか、といわれそうですが、実は貼付薬だったんです。ドラッグストアとかで貼付薬売り場に近づくとおじいちゃんを必ず思い出します。
おばあちゃんの思い出で一番覚えているのは、・・(^_^)
恥ずかしいけど、みんなもそんな経験あるのかな。
私がとっても小さい頃、
ししゃものようなお魚を食べていたとき、
そのかけらが目に入ってしまいました。
痛くて痛くて、いたいいたいと片目をつぶっていたら、
おばあちゃんが
こっちへおいでとひざの上に手招き。
言われるがままにひざの上に寝て、上を向いて横になって。
そして、手で目に入ったししゃもの尻尾のかけらを取ってくれるのかなとおもっていたらなんと!!!
おばあちゃんは私の目をパックリ食べたんです!
めちゃくちゃびっくりしたけど、
終わったら、目のチクチクは無くなっていました。
おばあちゃんは、にっこりしていたのか、どんな顔していたのか覚えていないけど、
私はいきなりの経験にビックリ!!
まるでキスされたようなきもちでした。
昔の人って、こんなことしてくれるんですね。
めちゃくちゃに驚いたけど、
あったかくってやわらかかった感触を覚えています。
って、ちょっと恥ずかしい話で、誰にも言ったことなかったです
(^_^;)
でも 子供心に、ちくちくをすぐにそうやってとってくれたきもちが嬉しかったです
生まれたのがいわゆる戦前のおばあちゃんなのです。何かにつけもったいないと言っては大事に使います。食べ物もそう。今ではエコとかそういう観点からリサイクル料理が時々スポットを浴びますが、こんな言葉が無かったころから食べ物は十分に使い切ります。
私の中での一番人気は、パンの耳のカリカリスティックです。サラダ油で軽くサクッと揚げたのにお砂糖やジャムをまぶしただけのシンプルさがいい。味もシンプルで飽きないんですね。
後はスイカの皮付近の果肉です。よくある再利用法としては糠漬けにでもするというものですが、これを甘く煮てデザートとして出してくれることがありました。桃缶とかの汁が残っていれば、それで煮ると桃風味でスイカの味は殆どしない不思議なスイカのできあがりです。
イエの料理が伝えられていくとすれば先々代のイエの味伝承者ですものね!リサイクル料理も時代的にわざわざ「リサイクル」とかって呼ばなくても、ちゃんとやってた人も多いでしょうね。
私のおばあちゃんは、今時珍しく五世代が一つ屋根の下に暮らす家で生活をしています。なんと10人家族!
おばあちゃんの住む街では他に例が無いそうです。
7人の子供を産み、20人近くの孫がいて、ひ孫はその倍近く(詳細不明)、そして最近、玄孫(やしゃご)が産まれました☆
それだけじゃないんです。うちのおばあちゃんの凄いところは、この子供(は当たり前だけど)から玄孫まで全員の名前と、生年月日を覚えている事!!
親戚同士でも「○○のうちの子供の名前なんだっけ?」とか「○○のお嫁さんの名前は?」なんていう会話が飛び交うのに、おばあちゃんは正確に覚えてるんです。
どこどこのうちは今年、小学校入学だ、成人式だと、節目の度にお祝いを用意してくれます。
90を越えた辺りから身体も自由が利かなくなり、居間でのんびり生活しているおばあちゃんだけど、テレビをみながら高校野球の対戦表をつけていたり、何よりもプロレス観戦が好きなおばあちゃん(笑)
孫が全て結婚するまでは、生きてて欲しいと願っています。
おばあちゃんは、たいしことじゃなくても、
「すごいね」「えらいね」
と、いつも褒めてくれた気がします。
話も聞いてくれたし、とても優しかったです。
親の優しさとは、また違う優しさでした。
大人になると分かるんですが子供って凄いんですよね、何かにつけて・・・だから、おばあさんとかおじいさんとかと普通に呼ばれる(ヤンキー結婚2世代連続の場合を除く)年齢の人達から見ると余計に「凄い」と思えたり見えたりすることも多いのかも知れません。
祖父は元気な人で盆などで帰省すると数人いる孫たちを引き連れて近所の川原や広場で一緒に遊んでいました。両腕を持ってもらって振り回してもらう、ジャイアントスイングという足首を持つプロレス技の逆パターンが一番人気の祖父の得意技でした。
祖父母とは帰省シーズンにしか会えないんですが、何かにつけ子供と遊ぶのが好きでしたね。孫たちは子供だけに近所の子と仲良しになったりします。すると、そういった子と一緒にちょっとした遠足に連れて行ってくれたりして楽しかったです。
私もハザマさんと同じく、生まれたときには母方のおばあちゃんだけでした。
うちは私が幼稚園の頃より両親が働いていましたので、おばあちゃんが私達兄弟の子守担当でした。
母は6人兄弟でしたが、歩いても30分の距離のところにおばあちゃんのイエがあり、一番イエが近かったのでいつも通ってきてくれました。
そういう意味でいえば、数ある従兄弟たちの中で一番おばあちゃん子でした。
今では珍しいですが、おばあちゃんは腰が曲がっていたので、歩くときには必ず籐でできた乳母車をひいていました。
どこへいくにでも乳母車をひいています。近所の買い物でも。
歩けるにもかかわらずおばあちゃんの乳母車に乗せてもらうのが楽しかったです。
今考えると重いのにひどいことをしたなぁ・・って思います。
おばあちゃんが使っていないときに乳母車で何度遊んだことか・・。
田植えをしているときは、いつもお昼どきになると乳母車の中におにぎりと水筒をいれて差し入れてくれていました。
私は遊んでいるだけでしたが、おばあちゃんにありがとう♪といいながら、おにぎりをほおばっていました。
おばあちゃんのおにぎり・・いつも梅干しかはいっていなかったんだけど、おいしかったのです。
おばあちゃんが亡くなったとき、ぽつんと乳母車が置いてありました。
それを見て号泣した覚えがあります。今はもうありませんが・・。
私はおばあちゃん子だったので、何かとかわいがってもらった記憶がいろいろあります。
お菓子買ってもらったり、おもちゃ買ってもらったり。
しかし、年取ってくるとわかったんですが、それって母親とばーちゃんの確執を生んでいたようで(笑)。
嫁姑問題ってのを子供の身ながら感じていました。
気をつかうってことを、そこで覚えたはずなんだがなあ(笑)生かせていない。
父が、おじいちゃんラジオが壊れちゃったんだってさ、と言いました。私は、夏休みに会いに行った祖父の姿を思い出しました。いつも何かしら体を動かして仕事をしている人でした。傍らではいつもラジオが鳴っていました。
当時私は中一くらいだったと思います。電子工作にハマりだしていた頃でしたので、そうだ、自分でラジオを作ってプレゼントしようと思い立ちました。
雑誌を調べて一番ケースがかっこいいキットを選んで、乏しいお小遣いで注文しました。届いたキットを組み立てました。それは既に出来上がっている無調整の基板がセットされた物でもなければ、IC一個で出来ているような単純なものでもありませんでした。一つ一つパーツを基板にハンダ付けし、組み上がった後も若干の調整が必要な古典的なキットでした。
基板の組み立ては無事済みましたが、トラッキング調整というやつがうまくいかず、どうもダイアルの低い方と高い方の感度が均一になりません。なかなかうまく調整ができきれないまま祖父の誕生日が近付いてきてしまったので、仕方なく不完全な調整のままで、もしかしたら良く聞こえないかもしれないけどと手紙を添えて、そのラジオを送りました。
数日して祖父から手紙が返ってきました。すばらしい手作りのラジオをありがとう、おじいちゃんはNHK第一ばかり聞いている、NHKはとてもよく入る、これからはこのラジオをずっと愛用していくよ、というようなことが書いてありました。
しばらくしてまた祖父から手紙が届きました。孫が作った手作りのラジオで聞いているということを番組あてに書き送ったら、そのお便りが採用されて番組で読まれたというのです。
以来、私も時間があるとNHKラジオを聴くようになりました。祖父と同じ番組を聴きたかったのです。祖父のお便りは、その後も何回か番組に採用されていました。私の作ったラジオで聴いてくれているということが生で伝わってきて、本当にうれしくなりました。
買い物についていくと必ず何かおもちゃを買ってくれた。そんな記憶ばかりですね。
じいちゃんよりばあちゃんの想い出の方が強いのはそのせいかもしれないですね。
祖父がよくやってました。うちの地方では「やいと」と言います。
子供心に「なんで大人はあんな熱い・痛いものをするのだろう?」
と不思議でした。事実、時々加減を間違えて「熱う!」と飛び上がって背中を払っていました。・・・正直な話、今でも疑問です。
やった事のある方に「気持ちいいですか?」と聞きたいです。
私の祖父は「建具師」でした。私が小学校に入学する際にお祝いとして「お手製の机と椅子」を貰いました。期待したと思うのですが、勉強は程々で・・・ でも(傷だらけですが)まだ残ってます。
おじい様手作りの机と椅子なんてすごいですね。それもプロの建具師の仕事なんて。お孫さんのことを思って精魂込めて作ってくださった世界に一つの机と椅子。すごいです。素晴らしいです!!
今もちゃんとその机と椅子を持ち続けていらっしゃるんですね。使い続けてできた傷も含めて宝物ですね。いつまでもいつまでも大切にしてください!!
家族で祖父の家に遊びに行った私は、毎日が楽しくて楽しくて仕方がありませんでした。祖父も私が来たことを本当に喜んでくれて、連日山や川に私を連れて行ってくれました。私も、おじいちゃんおじいちゃんと祖父にひっついて回っていましたので、父の休みの終わりが近付いて家に帰る頃には、もう祖父の家から離れられないような気持ちになってしまっていました。
家に帰る日の前の晩、祖父が、楽しかったよ、また来いよと言ってくれたのをきっかけに、私は帰りたくないと泣き出してしまいました。おじいちゃんに抱きついて、離れたくないと、いつまでも駄々をこねていました。
けっきょく祖父母の取りなしで私はもう少しとどまっていいことになり、父母は先に帰ることになりました。それから約半月の間、私は祖父の子分のようになって、連日田舎の遊びに駆け回りました。祖父は面白いことをたくさん知っています。昔の子供の遊びをたくさん私に教えてくれました。
夜寝る時も祖父と布団を並べて眠りました。寝る前には、土地の珍しい古い話をたくさん聞かせてくれました。
そして田舎の子供のように真っ黒に日焼けした私を、祖父が家まで送り届けてくれました。一緒に列車に乗って、駅弁を買ってくれたり飲み物を買ってくれたり、帰りの道もそれは楽しい旅になりました。
祖父は一晩私の家に泊まって帰っていきました。さすがにその時はもう、離れたくないと駄々をこねてはいけないと思っていましたので笑顔で見送りましたが、やはり涙が出てしまいました。
あとで考えてみると、祖父は生業はもうリタイアしていたものの、地域の役職などがたくさんある忙しい身の人でした。その祖父が私のためだけに、いったい何日の時間を費やしてくれたことでしょう。また、矍鑠としていたとはいえ、もう高齢の祖父には、遠路私を家まで送り届けてくれたことも、大変な負担だったと思います。
都会育ちの私には「ふるさと」と言える場所がありません。でも、祖父と遊び回った山や川が私の「ふるさと」です。今でもその地に立つと、あの時の楽しかった思い出が昨日のことのように思い起こされます。祖父に連れられて遊び回っていた野山は、父が子供の頃に駆け回っていた野山と同じです。そのことが父と私をつなぐ絆にもなってくれました。
私に「ふるさと」をくれたおじいちゃん、大好きです。
都会で生まれ育つと都会が故郷なので、「田舎」とイメージできる「ふるさと」とは縁が無いって感じになりますね。私も都会人二世なので、第二のふるさとが「田舎」になります。
親と違って雰囲気が優しいから私ら孫は安心できるというのと、お年寄りだからゆっくりと動くというのとかで、なんだか一緒にいるとゆったりとのんきに過ごせるように思います。
いつもおばぁちゃんに言いつけておかあさんの事を叱ってもらっていました。
普段は怖いおかあさんはいつもおばあちゃんちに行くと優しくなるので、化粧をすると人格が変わるのだと思っていました。
私のことを叱りすぎだとおばぁちゃんに怒られたおかぁさんはもちろん帰りの車の中で私のことを叱るのでした…。
子どもだった当時は、ショックでした。田舎に行ったとき、祖父は孫の私が来てくれたとても喜んでくれました。田舎のことで何もご馳走するものがないといろいろ心遣いをしてくれたのです。その中の一つ、鶏肉を夕飯に出してくれることになったのです。肉は肉屋さんから買うとばかり思っていたのですが、田舎にはそんな店はありません。自給自足です。庭で飼っていた鶏を捕まえて、喉を切り、血を出してから熱湯に浸け、羽をむしり取ります。そして解体して肉を取るのです。骨も無駄にはしませんでした。細かく砕いて肉団子を作ります。この一連の作業を見てしまったのです。自分が生き物を食べているのだということを実感として見てしまいました。結局、自分の前で起こったことを子どもだった私は理解できず、その事実に圧倒されて、夕飯に出された鶏料理には一つも箸を出すことはできませんでした。
今だからこそ、孫を歓迎するつもりで祖父がしてくれたことを懐かしく思い、そんな時代だったのだとほのぼのと思い出します。その祖父も90歳の天寿を全うして旅立ちました。食べると言うこと、生きると言うことを実体験として教えてくれた祖父でした。
今は日本全国大して変わり映えのしない風景が増えたから、そこまでガチにワイルドな体験というのはしなくて済むと思いますが、自然豊かな「田舎」では小さな命たちの生々しい生き様を直に見ることができます。ペットを飼うと命の大切さの教育になる、という話もちらほら聞きますが、自然たっぷりの田舎でワイルドな体験をするのが人間の原点に近く、一番いいのかも知れませんね。
なんか、すごく居心地がよくって帰りたくないなぁ?と思っていた記憶があります。でも、ジジババとずっと一緒にいるとヒマで飽きてきちゃうんですよね。
弟が生まれるとき一週間くらいおじぃちゃんちに預けられました。
生活のリズムがあんまりにも違い、眠くないのに寝かされた覚えがあります。でも目が覚めて、おとうさんの帰りをひたすら待っていたような。今だったら絶対に待たずに寝てますね。ハイ…。あの頃はいい子だったなぁ…わたし。
本当のおばあちゃんは物心つくまえに亡くなられたので、わたしは「おばあちゃん」というと、親戚のおばあちゃんです。
子供好きのおばあちゃんで、孫ではない私にもやさしくしてくれました。そして「イチゴのおばあちゃん」と孫たちみんなから好かれていました。
それは、子供の日になるとおばあちゃんが作っているイチゴ畑に孫たちを呼んで自由にイチゴ狩りをさせてくれたからなんです。(とても現金な愛称ですよね(笑))毎年、子供の日は甘くて大きいイチゴがとても楽しみでした。
私が大人になっても、子供の日にはたくさんのイチゴをパックに入れて届けてくれました。背中が大きく曲がって歩くのも大変なのに、その日だけはちゃんと来てくれる「イチゴのおばあちゃん」。
ある日、イチゴのおばあちゃんの家を修理するお父さんにくっついて行ったとき、なんだか様子が変でした。
私の顔を見るなり「立派に大きくなって。。。」と何度もうなずきながらら、静かに泣き出してしまったのです。
なんだか分からないけど、涙の止まらないおばあちゃんの顔を見ていると私も涙がでてきてしましました。
どうしてだったんだろう??と疑問が残りました。
その年、イチゴおばあちゃんが亡くなりました。
おばあちゃんは私と会うのが最後だと分かっていたんだと思いました。
あの日、ちゃんと最後のあいさつに行けてよかったと思いました。
「おばあちゃん、おいしいイチゴをいつもありがとうございました!」
幼い頃はプロ野球ローカル地域に住んでましたが、年に一度、家族3代で応援してる読売巨人がやってきます。父のコネでバックネット裏の席を取ってもらい、その日だけ唯一、学校を早退させてもらい、じいちゃんと座布団もって応援に行ってました。普段はTVでしか観れない生の選手達を目の当たりにして、プロのプレイにじいちゃんと一緒に一喜一憂していた事が、今でも目に焼きついています。
夏に田舎に帰り、親戚一同で食卓を囲んで、わいわいと食事をしていたときのこと、
3、4歳ぐらいだった私が、急に、ワ?!!! と大声をだして泣き始めました。
周りは、何がおこったのか、わからず、辛いものがあったのか、食べては行けないものをたべてしまったのか、背中を叩いたり、逆さにしてみたり、とても大騒動でした。
しばらくして、そういうことではないらしいとわかり、わたしもようやく落ち着きはじめて語ったところによると、
「う、えぐ…、ひっく…、お、おじいちゃんの…えぐ…歯が…う…ぜんぶとれちゃったよ?…ひく…う…」
だったようです。
単に総入れ歯をはずしただけだったのですが、見慣れない子どもにとってはびっくりだったんでしょうね?^^);;;
私本人は全然覚えていないのですが、夏に集まるたびに言われます…。ただ、おじいちゃん、おばあちゃん含め、その場にいた人がどんどん少なくなってきているのが寂しい限りです。
私も祖父母ではありませんが、親戚に総入れ歯のおじいちゃんがいます。ばくんと入れ歯を外したのを見た時には驚きました。当時は総入れ歯というものを知らなかったので、本当にびっくりしました。
それからしばらく、歯磨きが恐かった思い出があります。あまりゴシゴシやると自分の歯もああいうふうに取れてしまうのではないかと…。
だんだん、そうしたご高齢の人たちがいなくなってしまいますね。寂しいです。会える時にたくさん会っておきたいと思います。
うちのおじいちゃんは旅行が大好きで毎年夏休みになると、私達孫を数人連れて山梨や静岡の温泉に連れて行ってくれていました。
ある日おじぃちゃんから電話がかかってきて
「今からちょっと小旅行に行ってくる。お土産いっぱい持ってくから待ってろよ」
と…。
千葉か群馬あたりに旅行に行ったのかと思っていたのですが、
おじぃちゃんと電話で話して1?2時間たった頃
ピンポーン
と玄関のチャイムが鳴りました。
出てみると、そこには梨やら葡萄やら、かごいっぱいに持ったおじぃちゃんが…。
「あれ?旅行に行ったんじゃなかったの?」と聞いてみたら
「ここまで自転車でくるのは小旅行だよ」と…。
おじぃちゃんちの家はうちから車で30分?40分。
ちなみにその時のおじぃちゃんは70過ぎ…。
つい先日果物狩りに行ってきたらしく、早く私達に食べさせてあげたかった
ので家まで来ちゃったらしいのです。
「言ってくれたらこっちから出向いたのにぃ?」
家族みんなでビックリしちゃいました。
うちに入り、おじぃちゃんが持ってきたフルーツを食べて
おじぃちゃんの旅行の話を聞いて、
夕方になったところで
おじぃちゃんが「そろそろ帰る」というので
帰りは父が「車で送って行くょ」と言ったのですが、
「ちゃんと一人で帰ってこそ旅行だ」と言い張り
再び自転車に乗って家に帰ってしまいました。
おじぃちゃんはもう死んでしまったけど、
いつも私達にサプライズな事をしてくれたとても愉快なおじぃちゃん
でした。
私の祖母は、一種異様な近寄りがたさを感じさせる人でした。特に名家の家柄というわけではありませんが、若い頃から茶道や華道に精通してきたらしく、立ち振る舞いが凛としていて、隙がないのです。子供の頃は、その風格が恐いように思えて、祖母の前に出ると、とても緊張していました。正直苦手な人でした。
ところがある時、私はちょっとした事故にあって、入院してしまったんです。そこに祖母がやってきてくれました。遠くから電車を乗り継いで駆け付けてくれたんです。
ベッドで寝ている私を見て、祖母は、恐かったでしょ、痛かったでしょ、でもよかった、たいしたことがなくて本当によかったと、私の手を取って泣いてくれました。その姿はあの近寄りがたかった祖母とは別人のようでした。
それからしばらく祖母は私の家にとどまって、毎日のようにお見舞いに来てくれました。枕元にお花を飾ってくれたり、楽しいお話をたくさんしてくれました。お見舞いに来てくれる友だちにも優しくしてくれました。というより、友だちとの話の輪の中に入って微笑む祖母は、まるで同じ歳の友だちの一人に思えるほどでした。
そんなことがあってから、私と祖母との関係は一変しました。あの近寄りがたかった祖母が、誰よりも優しいおばあちゃんに変わったのです。
今はあまり会えません。遠くに住んでいるので、めったに会うことはできません。でも、優しいおばあちゃんの笑顔を思い出すと、会いたくて会いたくてたまらなくなります。今でも親戚の人たちの中には、祖母のことを苦手だという人がいます。おばあちゃんは相変わらず、凛とした気を放っています。でも、その下に隠れている少女のような可愛らしさを私は知っています。すてきなおばあちゃんです。
うちの祖父も、ちょっと近寄りがたい威厳を感じさせる人でした。
でも孫には優しいんです。
包み込んでくれるような優しさがあります。
そういう優しさを知っているのは孫だけの特権かもしれませんね。
親戚の人も緊張してしまう凛とした気の御祖母様。
でもその下にある本当のやさしさをSweetJellyさんだけが知っている。
すてきですね。
正月には身内が祖父母の家に集まって、新年をお祝いするのが恒例になってました。男性陣は麻雀に興じ、女性陣は料理の支度やら配膳やらと忙しくしてました。幼い私は、ばあちゃんと従姉妹達と花札をやって、ばあちゃんをやっつけるとおこずかいを貰えるので必死にやってました。そんな正月がとても心地よかったですね。
ややぼけて来たので、私がジグソーパズルを与えました。祖母はすっかり嵌ってしまい、ほぼ死ぬまで一日中やってました、すっかりぼけ症状も改善!びっくり。ジグソーパズルの箱も沢山たまりましたよ?。亡くなった時、好きだったコーラとジグソーパズルも一緒にお棺の中へ。なんと100歳の大往生でした。婆孝行したかな?
母が勤め人だったので、保育園の頃はおばあちゃんにくっついてました。
お買い物に行くのにも一緒にで、まるで金魚のフン状態。
おばあちゃんと過ごす時間のほうが、両親と過ごす時間よりも長かった気がします。
冬の終わりに、私は骨髄ドナーになりました。
手術の前日に見た夢に、もう亡くなっているおばあちゃんが出てきました。
ニコニコ笑っていたので、きっと応援していてくれるんだと思いました。
おばあちゃんにくっついていた金魚のフンの孫娘の応援に来てくれたんだと。
経過良好で、ドナーになった私も、骨髄液を受け取った弟も元気です。
3歳から事情があって核家族で、祖父母の思い出が少ないです。
ただ、今30を過ぎて、祖父母に心で語りかけるようになりました。意外と親が理解できない自分のことをわかってたり、話が合ったりしたかも・・・と都合の良いイメージで、エピソードで聞いた人柄から推測して「こう言ってくれるかも」と思うと元気が出ます。