ディア・ライフ #004
「幼年から今年まで……仲間や家族とのひと夏の思い出」
「幼年から今年まで……仲間や家族とのひと夏の思い出」
さて、今日は“ディア・ライフ”#004の語らいのスタートです。イエと暮らしの小さな物語、今回はちょうど夏休みシーズンということもあって「幼年から今年まで……仲間や家族とのひと夏の思い出」をお題にしてみました。子どもの頃の忘れ難い夏の記憶はもちろん、学校時代の仲間との思い出、これまでに兄弟や家族で過ごした夏の日のこと、そしてまさにこの夏胸に刻まれたエピソードまで……。夏の思い出、みなさまはどんなことを一番に思い浮かべられるでしょうか? ぜひゆっくりと振り返りながら、幸せなサマー・メモリーを聞かせてください。“ディア・ライフ”第4章、今回もみなさまの人生のページに残るショート・エッセイを楽しみにお待ちしています!
“アイデア・タイトル”
「大切なことを教えてくれた、いとこ姉貴&仲間たちとの夏」
by hazama
“メッセージ”
この思い出は、少し切ない記憶も一緒になるので書こうかどうか迷いました。でも、私にとってかけがえのない夏の日を、綴り留めておこうと思います。
私が小学6年の夏休み。私は親戚の中で唯一遠いマチに住む、山口のいとこのイエに遊びに行くことになったのでした。いとこといっても、父のひと回りも年長の叔父の娘で、当時すでに20代前半の社会人。TONKO姉ちゃんと呼んで慕っていた大姉貴です。
折々に家族で行き来をしていた、TONKO姉ちゃんのうち。いつも男の友達も女の友達もいっぱい来ていて、叔父さんとも叔母さんとも気心知れて、みんな家族みたいで賑やかでした。私には、ちょっと変わったうちだけど楽しいなぁという印象で(笑)。そしてその夏は私一人でTONKO姉ちゃんと仲間たちと夏休みに参加です。もぅワクワクうれしくてたまりません。今も覚えています、平和公園まで、わざわざ姉ちゃんと友達が車で迎えに来てくれたこと。そのドライブから私は広島を離れて、ちょっと大人な人たちの仲間入りです。車の中では、長渕剛さんの「巡恋歌」や「順子」が流れていました。
夜に着いた山口では、山中の居酒屋で有名な「山賊」で他の仲間たちと合流。明日から一緒に光市へキャンプに行くのです。みんなTONKO姉ちゃんの中学や高校からの同級生。なかにはその兄弟姉妹も。その誰もがまだ小学生の私を歓迎してくれて、すぐに友達として一人前にしてくれたのがうれしかった。その晩はみんな姉ちゃんのうちに泊まって、そこからキャンプへ出発。
バーベキューの買い出し、林間のキャンプ場でテント張り、食器や椅子の準備、火を起こす、食材の下ごしらえ、洗い場仕事、寝床作り。キャンプのすべてがはじめてという私をちゃんと交えて、仲間として一つひとつ教えてくれながら、どんな時間もみんな一緒に過ごしてくれました。私が教わったのは、キャンプ体験だけではなかった。人と一緒に寝食をともにする時間とともに、楽しさを生み出すハート、心置きなく言い合いながらも常に自然に互いを思いやっている本当の気さくさ、そんなものをこそひしひしとうれしく感じたのです。何て素敵な仲間なんだろう! それは、TONKOと呼ばれて男女の別なく愉快に人を集めている姉ちゃんの比類なくチャーミングな人柄にも因っていたでしょう。私がキラキラと素敵なその夏を過ごせたのも、TONKO姉ちゃんのおかげ。
その後、TONKO姉ちゃんは仲間の一人の男性と結婚して、二人の子どもが産まれて、私たちは変わらず交友していました。けれどまだ上の男の子が小学校に上がったばかりの時、体の不調の知らせを受けて間もない梅雨の日、TONKO姉ちゃんの不意の訃報が届きました。まだ30歳を少し過ぎたところでした。どうして、なぜ……。言葉もなく出向いた山口で、あの仲間たちとのさびしさに満ちた再会。私たちばかりでなく、天の神様にも愛でられて、召されて行ったのだろうと話したことでした。
今も、TONKO姉ちゃんが好きだった「順子」の曲を聴くだけで涙があふれてきますが、まるで夏の太陽のようにカラリと明るく人を照らして幸せな気持ちにしてくれた姉ちゃん&HER FRIENDS、あの夏教えてもらったたくさんの大切なことを、生涯胸に抱きつづけたい。そして、心からありがとうを繰り返したいです。
※今回の「いわし」ご投稿は8月23日(月)正午で終了とさせて頂きます。
※今回のピックアップ賞は8月24日(火)に「イエはてな」にて発表いたします。
※〈イエはてな〉では、いわしへ投稿されたコメントと画像をダイアリーに転記しています。できましたら「投稿画像のwidth属性」を450px以内に指定していただけますようご協力をお願いいたします。
いわしの回答(転記)
私の祖母はもうすでにお墓にいます。
私の息子達が産まれたのは8月13日。
息子たちが産まれる時にも祖母は、きっとお盆だしやってきて力を貸してくれたと思っています。
お墓参りはひ孫たち総動員。
全員おばあさんが力付けてくれたので皆元気な、おしゃまさんやワンパク小僧になりました。
8人そろって小さい手を合わせ、目を閉じて先祖にご挨拶のお墓参り。
小さいちょうちんにお墓のろうそくの灯(あかし)を分けて持って、消さないように家の仏壇まで持ち帰る。
その灯におばあちゃんやご先祖様がくっついてやってくると信じていたので、灯を消さぬように持ち帰る。
消えてしまったら、灯を分けてもらって、家の仏壇に灯を移してご先祖様はやってくる。
またそこでも8人のひ孫は仏壇を拝んでいる。
この小さなひ孫たちを見守るのでご先祖も忙しいお盆のようでした。
1980年夏。
同じ中学に通っていた同級生MとYと私とで、「遠くに行こう」という話になりました。私たちの家は兵庫県西宮市。旅の行き先は「青森」。
関西に住む中学2年生。青森県に用事なんてあるはずがありません。でも青森。帰りに東京に寄って、合計4泊5日のプラン。
なぜ青森か。
それは、当時、大阪を夜に出て翌日昼に青森に着く急行「きたぐに」という列車があったから。
最初に私が、鉄道雑誌で「きたぐに」のルポを読んだのが始まりだったと思います。
で、「こんな急行列車がある。乗ってみたいなあ」とつぶやいた。それを聞きつけたM(クラスのリーダー格)が「それは面白い」と乗り気になり、それなら、小学校の頃から鉄道で一人旅をしていた(旅慣れていた)Yも呼ぼう、と、そんな流れだったと思います。
この計画、まずMの母親の知るところとなり、学校に「通報」されてしまいました。Yと私の母親も学校に呼び出されて、担任からもダメ出し。
しかし、私たちは折れませんでした。どうしても行きたい。危険なところには立ち寄らない。きちんとしたスケジュール表を事前に提出する。自分たちの貯金の範囲内で旅行をする・・・あらゆる条件を提示し、とにかく粘って、最終的に担任の先生からは、次の言葉を勝ち取りました。
「ええか?許可はしとらんのやで。ただ、何も言わんだけやからな。約束は守れ」。
しかし今度は親との交渉が難航。
結局、「日程を短縮するなら許す、2泊3日まで」というところまで譲歩せざるを得ませんでした。
で、青森は没。何しろ行くだけで2日かかります。(飛行機を使うという発想はなかったし、当時、東北新幹線は未開業でした。)
それから行き先は二転三転。でも最終的に決まったのが「四国」でした。
「四国島内を走る夜行列車があるので、それで宿代を浮かせられる」という狙いもありましたが、自分たちの住んでいる本州と海を隔てて離れている場所ということにも、何か憧れのような輝きを感じました。
1980年8月23日。
まず山陽本線を西へ。旅費節約のため、新幹線は使いません。普通列車の旅です。
とはいっても、まだ「青春18切符」が発売されていない時代でした。
当時は「周遊券」という割引切符があって、「松山・高知ミニ周遊券」を使いました。
【参考写真】当時の周遊券(本物)
姫路から先は、私たちにとって未知の世界。
2段式の窓を全開にして(半分だけ開けられるのは知っていても、全開に出来るのを知っている人は意外に少なかった)、窓から少しだけ顔を出すMとY。
晩夏の風、時速100キロで吹き込む。それは通路側の席に座っていた私にも心地よさをもたらしました。
私たちは今、まだ行ったことのない土地に足を踏み入れ、見たことのない風景を見ている。
さて、岡山まで行って山陽本線から宇野線に乗り換え、宇野線の終点宇野から四国に向かいます。今なら岡山から高松まで、瀬戸大橋線の快速1本で四国に渡れます。でも当時は違います。瀬戸大橋はまだ基礎工事さえ始まっていませんでした。
本州と四国の間には国鉄の運営する「宇高連絡船」という船便があって、岡山県(本州側)の宇野という駅(港)から、香川県(四国側)の高松という駅まで、大きな船が往来していました。
岡山から宇野まで快速電車に乗り、宇野駅(港)から連絡船に乗ります。
宇野駅のブリッジを渡り、船に乗る。Mが言います。「一番前に行こう!」。そこは「四国に最も近い場所」。潮風の香る屋外のデッキ。目の前には瀬戸内の多島海が広がっていました。デッキの片隅に「讃岐うどん」のスタンドがあり、出汁の香りを漂わせていました。
ここで私たちは、1つ早とちりをしていました。
出航時刻になると、船は岸壁を少し離れたところで、くるくると回転を始めたのです。私たちが最前部だと思っていた場所は、実は最後部で、今降りたばかりの宇野駅が目の前にやってきました。
そして、それから船は四国を目指します。
宇野駅がだんだん小さくなる。本州が小さくなる。私たちの立っていた土地が、海を隔てて小さくなる。
高松に着いて私たちが最初にしたことは「讃岐うどんを食べる」ことでした。
国鉄高松駅の立ち食いうどんのスタンドへ。うまい。うますぎる。「ゴムのようだ」。Yが評します。讃岐うどんほど腰の強いうどんを食べたことは、私たちはなかったのです。
高松駅を出ると、すぐ近くに「玉藻公園」がありました。そこは高松城の跡で、お堀や庭園が残っているのですが、入園料が「10円」でした。(今はいくらだろう?)
10円というのは当時の中学生にとっても「お買い得感満点」。入園料を払って私たちは日本庭園を歩き(中学2年生にしては渋い趣味だ)、それから、次の列車の時間まで、お堀端の芝生に腰を下ろして時間を潰していました。今考えると、高松の町を歩いても面白かったのかもしれませんが、当時は「危なそうな場所には近づかない」という、親や先生との約束がありましたから、知らない町をむやみにうろうろする訳には行かなかったのです。
時間が来て高松駅に戻り、私たちは、予讃本線の列車に乗り込みました。
当時、四国の国鉄は全て非電化。電車がない。蒸気機関車は残っていませんでしたが、ディーゼルエンジンで走るディーゼルカーやディーゼル機関車の天下でした。
乗った車輛はキハ47。おそらくその年に作られた最新鋭。車体も車内もピカピカでした。
私たちは列車に乗り込むと、またも2段式の窓を全開にしました。ここにも冷房はありません。山陽本線の電車と違い、床下から、力強いエンジンの鼓動が伝わります。窓から吹き込む四国の風。少し香ばしい。ほのかにエンジンからの排気が混じっていました。讃岐平野には、まるで下から拳で突き上げたような、ぽっこりとした山がいくつもありました。
多度津という駅でしばらく停車した後、列車は2つに分割され、一方は松山行き、一方は高知方面行きになりました。私たちは高知行きに乗りました。多度津から土讃本線に入る列車です。
土讃本線も、琴平(「こんぴらさん」で有名な琴平)あたりまでは沿線も平野で、列車は快調に飛ばしていました。琴平を過ぎると少しずつ山が近づいてきました。
地図を見ると分かりますが、土讃本線というのは、四国山地を縦断して、瀬戸内側と太平洋側を結んでいます。
列車の歩みは次第に遅くなりました。上り勾配です。トンネルに入ると冷やりとした風が、開け放った窓から遠慮なしに吹き付けました。風にはエンジンからの煤煙(すす)が混じって、なんだか凄いことになってきました。窓際に座っていたMとYが、トンネルに入る度に、日よけのブラインドを下げます。ブラインドに点々と煤の黒い粒が付いていきました。どうやら私は、そのブラインドの隙間から入り込んだ煤煙を、1粒ほど吸い込んだようです。喉が痛い。うがいをしようと思ったのですが、水も飲み物持っていません。そうだ、列車にはトイレがあるではないか。隣の車輛にあったトイレの手洗い用の水でうがいをしてみましたが、今考えるとそれがかえってマズかったかもしれません。喉の痛みはかえって強くなりました。
「食塩水でうがいが出来るといいんだけれどなあ」と私が言うと、
「塩入の切符やろうか?」Yが言います。「あるの?塩」
Yが見せたのは、途中の停車駅「塩入駅」で買った切符。むかつく私。
阿波池田という駅に着いて「これがあの(甲子園で有名な)池田高校の池田かあ」など3人で感心しました。高い山に囲まれているけれど、意外に大きな町でした。
阿波池田を出ると、やがて線路は、吉野川が刻んだ景勝「大歩危小歩危」に沿うようになります。
MとYは絶好調に機嫌がよく、カメラを持つ仕草をしては「シャッターチャンスは今だ!」「いや、今だ!」などと叫んでいました。今(の中学生)なら、携帯電話のカメラで写真を撮っていたかもしれません。しかし、1980年当時にそのようなものはなく、ただ、流れて行く景色を見送るばかりでした。私はと言えば、喉が痛くて絶不調です。
「喉が痛い時には炭酸水でうがいをするとよい」とY。
「それで治る?」
「いや、単に気持ちいいだけだけ。やらないよりまし」。
しかし、普通列車の車内に炭酸水の自動販売機はなく、列車はますます山深いところへと入って行きます。
やがて列車は、土讃本線の「新改(しんがい)」という駅に着きました。
私たちはそこで列車を降りました。
なぜか。ここが高松(のうどん)に続く、1日目の重要な観光ポイントだったからです。
といっても、観光施設がある訳ではありません。
新改駅は急な勾配の途中にあるため、スイッチバックという特殊な配線になっています。
そのスイッチバックを見てみたい、というのが、ここで降りた理由でした。Yの予備知識に基づく計画でした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%8...
新改駅に着いたのは、夕方の、まだ少し明るい頃でした。
列車はまず、本線から分岐した引き込み線に入ります。そして、おもむろにバックして、もう1本の、ホームのある引き込み線に入ります。これがスイッチバックです。そしてそのホームに着いたら、車掌はドアを開きます。
駅前には1件の雑貨屋がありました。雑貨屋は列車が出るとすぐに店を仕舞ってしまいました。
【参考資料・GoogleMap新改駅】
http://maps.google.co.jp/maps?f=q&source=s_q&hl=ja&geocode=&q=%E...
【参考資料・wikipedia新改駅】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%94%B9%E9%A7%85
(2010年現在、雑貨屋は閉店しているようです。)
とりあえず私たちは、線路沿い歩いていき、スイッチバックの分岐点を見物に行きました。山懐深いその場所で、銀色に輝くレールが複雑な幾何学模様を描いていました。なるほどこれがスイッチバックか、と。
で、それからどうするか。
何もすることがありません。
次の列車まで2時間近くありました。
夕闇はますます迫り、ついにあたりは真っ暗になってしまいました。
私たちは新改駅に戻りました。
昔は駅員が居たらしく、切符売り場の跡のようなものがありましたが、板で塞がれていました。
待合室には木のベンチがあり、心細い光を落とす蛍光灯には、自分たちの街では見たこともないような巨大な蛾が、バタバタと音を立てて集まっていました。
私はというと、とうとう熱を出してしまいました。
「お前はそこ(ベンチ)で横になって寝とれ」Mの指示に従って私はベンチに横たわりました。
MとYはとりとめもない話を続けていましたが、やがてクラスの女の子の話になりました。
「・・・で、うちのクラスのH子やけど、あいつほんとは性格悪くて、友達だったS子がまだ生理になってないこと知って『Sちゃん遅れてるぅ』とか言いよんねん」
「人は見た目では分からんちゅうやっちゃな」
その話にだけは参加したいと思って体を起こすと「お前はとにかく寝とれ」と、Mに諭されました。
どれくらい時間が経ったでしょう。いや、どれくらいも何も、時刻表によれば私たちはたった2時間しか新改駅に居なかったのですが、もっと長い時間、そこに居たような気がしました。
やがて山奥から線路を刻む音が聴こえてきました。乗り継ぎの高知行き普通列車です。
その列車も、私たちが乗って来た列車と同じく、一旦引き込み線に入って、バックでホームに入って来た訳ですが・・・先頭は旧型客車。一番後ろ(発車すると先頭になる)は機関車のDF50。朱色の車体と大きなエンジン音が、私たちを「闇の底から救い上げに来てくれた」ように心強い。
【参考写真】DF50高松運転所仕様(模型)
機関車の次に連結されていたのも、旧型客車。オハ61系。
旧型客車、とか、オハ61系とかいっても、分からない人も多いと思いますが、一言で言うと、大井川鉄道の蒸気機関車の後ろにつながっているようなクラシックな車輛です。オハ61系というのは、ある意味で、その中でも、ひときわ渋い車輛です。(ちなみに大井川鉄道では所有していない)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%8460%E7%B3%BB%E5%AE...
旧型客車といっても色々ありまして、蛍光灯を装備して明るい内装に改装された車輛もあれば、照明は薄暗い白熱電球、車内の壁は木目にニス塗りという車輛もあります。
新改駅にやって来たのは、実に、後者でした。天井では白熱電球がオレンジ色のフィラメントから弱々しい光を投げかけています。壁は天然木。今思うと、ある意味ではデラックスな仕様でしょうか?でも当時は単なる「ボロ」にしか見えませんでした。
しかもオハ61系というのは、座席の背もたれも板張り、木目にニス塗り。背もたれにクッションがありません。
壁といい座席といい、そこは木目に支配された世界。白熱電球にぼんやりと照らし出された木目が、おどろおどろしい何かを連想させます。乗客はゼロ。
「幽霊列車や!」Mが叫びました。
幽霊列車は私たちを乗せると、音もなく走り始めました。エンジンが機関車に集約されているため、旧型客車は時に、驚くほど静かに走り出すことがあります。(機関士の腕前にもよる。)
私たちは、あまりにも恐ろしい1両目を走り抜け、2両目に移動しました。またしてもオハ61系。1両目と全く同じ光景が目に飛び込んできます。乗客は2〜3人くらいは居たでしょうか。3両目、4両目、5両目。全てオハ61系、お客さん数人、幽霊列車。
6両目の終わりで私たちは急停止しました。一番後ろの車輛は、ドアがなく、ぷっつり通路が途切れ、足元から銀色の線路が流れ出して伸びていました。実際、当時の国鉄ではこの旧型客車の最後部からの転落事故というのが、稀ながら起きていました。
【参考写真】オハ61系オハフ61形式(編成の最後尾に連結されることが多い。列車の最後尾はこんな感じ。)
私たちは車内に戻り、覚悟を決めて幽霊列車に揺られることにしました。
まあ、慣れてしまえばこれはこれで面白いなという気持ちになってきました。
とにかく空いていましたから、1人1ボックス。
「お前は寝とれ」。またもMの指示で私は座席に横になりました。
〜〜〜
「で、そこでヒヨワのiijiman君がいよいよ熱を出して・・・」
「ヒヨワちゃうわい」
(笑)
「僕たちは急遽、高知で宿に泊まることにしました」
「駅前の観光案内所というところで紹介してもらったのは、ユースホステルというところで、泊まるには身分証明が必要だと言われました」
(しずまる)
「そこで、僕(←M)だけが生徒手帳を持っていたので、僕たちは無事にそこに泊まることが出来ました。1500円くらいでした」
「ところがそこは、行ってみると、大学生みたいな人が沢山居て、凄く怖くて」
(笑)
「僕たちは部屋から一歩も出られませんでした」
2学期。夏休み明け最初のホームルーム。
「この夏休みの思い出を1人1つずつ発表しなさい」という時間がありました。
私もMも、四国旅行の話をしました。(Yは違うクラスだった)
担任の先生は、少しハラハラしながら聞いていたようでしたが、最後ににっこりと笑ってくれました。
私たちの旅は、その後、高知から松山までツーマンバス(運転手だけでなく車掌さんのいるバス)に乗って車掌さんの話を聞いたり、松山城に登ってMが俳句を投稿してみたり、まあいろいろあった訳ですが、長くなるので略します。
中2の夏の、初めての友達同士だけの旅。
一番印象に残ったのは、やっぱり、あの「新改駅と幽霊列車」です。
小学校の頃毎年夏休み中お盆の頃に
小学校の裏の公園で盆踊り大会がありました
お母さんに浴衣を着せてもらって
500円ぐらいのお小遣いをもらって
クラスの女の子友達と毎年必ず行っていました。
夏休み中に会わなかった久しぶりの友達に会えたり
クラスの意中の男の子がいないか探したり
見つけたら見つけたで、話しかけに行くか行かないかで
ドキドキソワソワしたり
いつもよりは贅沢なお小遣いですが
500円で何を買うかも悩みどころでした
アレを買うと、コレが買えなくなるし…などなど
大人になった今ではどれも体験できない事ばかりで
とってもいい思い出です。
小学生から中学生までの時期は、毎年、夏になると父親の会社が借りた海のイエに行っていました。
逗子の海岸に近い、普通の民家を会社で借りて、格安で社員と家族の厚生に当てたもので、それを海のイエと呼んでいたようです。
毎年同じ畳敷きの民家を借りたもので、長い時は一週間も滞在して、海水浴などを楽しんだものです。
初日から部屋に入ると、畳のにおいがして、窓の外には山も近く、よく鳶が青空に丸を描きながら飛んでいました。
水着に着替えて住宅街を抜け、道路を渡ると直ぐに海岸があります。
家族で水をかけあったり、波の間を泳いだりと、時間が過ぎるのが惜しくて、いつまでも楽しんでいたものです。
日が落ちてからも、海岸べりには射的の露天やヨーヨー釣り、やきそば、おもちゃなどの屋台が、真っ赤なちょうちんを連ねていて、楽しみは尽きません。
花火を買って海岸で遊んだり、お小遣いを貰って何に使おうか悩むのも、楽しいものでした。
日程が合うと、大型の打ち上げ花火の大会も見られました。
沖合いの岩場の島に打ち上げ場を設置して、黒い海の空を背景に開く花火は美しく、その後の微かな寂しささえ、快く感じたものです。
イエに帰ると大抵は大人達が酒盛りをして、私たち子供も遅くまでおきていても、叱られたりはしません。
一日中炎天下で海水浴をしたりしていると、体が熱くなって直ぐには寝られれないので、かなり遅くまでおきていたりしました。
それでも朝には早く目を覚まし、海のイエを服のまま出て、家族で海岸に行きます。
早朝の海は潮風が涼しく、波も穏やかで、水が澄んでいます
朝の海岸にはいろいろなものが落ちています。
きれいな貝殻や流木、海藻の塊、壊れたおもちゃ、絡まった釣り糸や釣り針など、宝捜しのようです。
極まれには、桜貝などの、めったに見られない美しい貝殻もあり、海岸をどこまでも探したものです。
大きくなると家族で旅行に行かなくなり、海のイエに行く事もなくなってしまいました。
しかし、いつまでも、思い出は残っていく事でしょう。
友人と茅ヶ崎へやっぱり駐車場が無い、そこにおばさんがやって来て、海岸近くの家に止めれば一日1000円と言ってくれました。喜んで小屋の中に入ると、海の家使用料一人1000円払えと言うのです!ビンボですからそんな金までは有りません。断り、駐車場料金を返金してもらい退散。しかし、何と車が砂に埋まり、友人と汗まみれ、くたくたになり脱出!憎たらしい思い出です。
もうだいぶ過去の話になりますが、とあるワークショップに友人と参加したことがあります。
日常生活における習慣などから身体と心が硬直しているのをほぐすという内容のそのワークショップはある夏の日、山の中腹にある宿泊施設を借りて開催されたものでした。
当時、私はどう表現してよいのか、どことなく違和感を覚えている毎日だったのですが、踊りをやっている友人が身体関係のワークショップに詳しく、そこを案内してくれたので参加してみることにしたのでした。
1泊2日の予定で行なわれたその中身は、知らない人とペアになって身体をゆるめる体操を行なったり、歌を歌ったり、詩を朗読したりと、ちょっとした演劇ワークショップにも似たものでしたが、主眼になったのはひとが自分として生きぬいていくため、普段使わないような体の動きや感情の表現を試みることなのです。
ワークショップの講師は現在はもう亡くなりましたが、その方面ではかなり有名な方で、ほのぼのとした雰囲気というよりはなにかの稽古のような厳しさがあって、友人とこれはなかなか怖いな、と休み時間にちらっと会話を交わしたりしたことを覚えてます。
そのようなワークショップの中で特に印象に残ったことがあります。
それまでプログラムは室内でずっと行なわれておりましたが、天気があまりにも良い事と、それからこれは推測ですが、プログラム自体にどこか講師が煮詰まったものを感じたのではないか、ということで、外に出ることになりました。
そこで行われたのは、『ブラインド・ウォーク』というもの。
2人一組になって、一人が目をつぶって盲目になり、もう一人がその人の手を引いて敷地のあちらこちらを案内するという内容です。
大抵は知らない人と組むのがワークショップの一般的な姿ではありますが、そのときはどういうわけか友人とペアになりました。
まずは友人が目をつぶり、私が案内人として歩きます。
その取った手の華奢なこと。
友人とはそのとき10年来の付き合いになってましたが、こうやって意識して手をとるのは初めてのように思います。子どもでもないし、普段はそれほど手を繋ぐ機会というものはないものです。
どこをどう案内したか、とにかく友人はいま私の先導で歩いていること、私を信頼していること、こういったことが頭を駆け巡ってそこはほとんど覚えていません。知らない人とだったらそこまで考えたかどうか。
次に、役割を交代して私が目をつぶって歩くほうになります。
やわらかく私の手を取った友人は、他のペアのところへ近づいていって、私の手を、そのほかの人たちの肩や腕のほうへ先導してゆきました。
目をつぶって触れる人の体はどれもこれも温かくて優しい。
終了してからいたずらっぽく笑う友人がいうには
「ほら、あまり人に触れたがらないから、こういうときにちょっと触ってみたらどうかな、と思って」
そうです。私はいろんな意味で人と触れるのが苦手で友人はその反対。
きっと普段から歯がゆく思ってたんだろうなあ、と考えたらちょっとだけ可笑しくなりました。
もし、同じことを目を開けて行なっていたら、果たして私は人のぬくもりを感じ取ることができたかどうかわかりません。
目を閉じて、友人に先導をまかせることは自分自身の頑なさを放棄することでもあります。
ブラインドウォークの後のプログラムでは人に変な風に思われないようにとかいう意識をゆるめることができ、ワークショップに集中することができるようになりました。
その後もやっぱり厳しくて、ブラインド・ウォークだけが今考えると息抜きになってたような気がしますが、講師の気迫に接することができたことと、友人と非日常で過ごしたことは印象深い思い出として残っています。
今年は1個だけでしたがかなり近くていい席で見られました〜!この暑い中、場所取りなど大変ですが頑張っただけありました♪ 小さな花火も大きな花火も、見るとTHE夏!って感じで良いですよね
私には、年の近い同じ誕生日のいとこがいます
今では、お互いのすんでる家の近さに反比例して
親戚づきあいは、あまりないのですが
自分が小学生の頃は、おばあちゃんの家に行く時は
時々その親戚の家にも行き
自分よりも少し年齢が上のいとこのゲーム機を借りて遊んだり
(時々は、一緒にゲームもやったかな・・?)
とにかく楽しんだ思い出が私の中にはあります
でも自分が小学生の時のある夏
おばあちゃんの家に寄ったあと
一人だけ親戚の家に泊まったと思うのですが
ちょうど
その日・・ものすごく大きな事故が起きてしまい
TVは、そのことをずっと報道していました
正直親戚の家とはいえ
小学生が一人で泊まったわけです
色々、面白いこともあったはずなのに
あまりに強烈な事故のために
TVでそれについての事を伝えてる報道を見てたという
思い出が残ってて
今でも毎年、その事故が起きた日のその事故に関連したニュースを見ると
親戚の家に泊まった日、TVばかり見てた事しか思い出せなくて
少しがっかりする自分なんです
・・
伊豆にありました、男共沢山で押しかけ宿泊、酒のつまみは皆で魚屋に列を組んで調達、アワビ、サザエ、鯵等々ゲット!楽しかったですね。また、敷地内には別荘所有者専用のプールもあり、綺麗な女の子の水着姿をば拝見したものです。所謂ハイソサエティーの方々ですからマナーも良いし、もう美人だらけで貧しい田舎者にはカルチャーショックでした。
年一度、夏は東京の一流ホテルで約一週間滞在していました。日中はホテルのプールで過ごし、午後から買い物、見学。夜は知っている飲食店で食事。こんな年が5年程度続きました。子供達はホテルでのマナーを学び大変良い経験でした。もう、こんな事は子供が大人になった今は一生無いと思うと残念です。年一度の(正月休み、GW、お盆も無い私の仕事故)贅沢、嫁、自分への御褒美でした。
小学校低学年時、北海道から初めて山形へ、祖母、三歳上の従兄で旅行をさせて貰いました。青函連絡船に乗り青森から列車の旅です。行く先は山形・酒田近郊の田舎です。約20時間の旅でしょうか?そこには祖母の姉妹が住んでました。思いだすのは、着いた夜寂しくて帰りたいと泣いた事、寝るときは蚊帳を張ってもらった事、蛍を歩いている時見て恐ろしかった事、きれいな小川からバシャバシャと音がしてびっくり!見てみると大きなガマガエルが走って逃げて行ったこと、その家は小規模ながら養鶏場をやっておりその餌をスズメが横取りするので、案山子を作った所驚いたのは何と逆に鶏が怖がりパニック状態に・・・。また、最上川の大きさに驚いた事が思いだされます。今も鮮烈に思いだされ、親に感謝したい気持です。可愛い子には旅をさせよ!良い格言ですね。
2歳のころからの幼馴染が私にはいます。
幼稚園、小学校とずっと一緒に登校下校。
放課後も一緒に楽しく遊んで過ごしていました。
勿論夏休みの長期休暇に入れば午前中からお互いの家へ行き来したり。
時にはお互いの親とともに遠くへドライブや公園にでかけたり。
そんな風に過ごしていた幼少期。
しかしそんな楽しい時間も少しずつ環境とともに変化。
中学に上がるころに友人はお引っ越し。
距離が出来てしまい、それに加え、部活にも忙しくなりました。
まだ中学生なだけにお小遣いも少ない。
だから電車にのって遠くまで出かけて会いに行きあうこともできなくなりました。
手紙のやり取りも無くなってしまい寂しい時間が流れました。
そんな私たちも高校へあがり、大学に行き、卒業を迎えました。
今頃幼馴染のあの子はどうしてるんだろう?
そんなことを思いながらも何も行動に移せずに過ぎゆく日々。
そんなある日、お互いの両親が街中で偶然ばったり。
そしてお茶をしたそうです。
そこで私たち子供の話もでたようで、帰宅してから私にその話しをしてくれました。
私は母に、幼馴染と会いたいから連絡交換したいと伝えて欲しいと言いました。
すると数日後連絡があったのです!
そこからトントン拍子。
翌々週に会う約束。
中学生以来。既に私たちは25歳。
会うまでドキドキが止まらなかったです。
もしかしたらもう私とは性格も外見も違う方向かもしれない。
気の合う相手ではなくなってるかもしれない。
気まずいだけで終わってしまうかもしれない。
そんな不安がよぎりました。
とうとう再開のとき。
久々に出会った幼馴染は面影を残しつつやはり大人になってました。
でも話し始めるとあの頃のまま!
二人でくだらない話し、真面目な話、語りつくしました。
何時間話したでしょう。
凄く楽しい時間でした。
その日から私たちは頻繁に連絡を取るようになり、今では一番の大親友です。
どんなに空白の時間が経っても、それでも会ったら昔のように戻れるのが凄い嬉しいです。
今私たちは社会人となり、別々の環境で過ごしているけれど、それでも週末などは二人で遊んだりと楽しく過ごしています。
そして今年の夏も二人で旅行へ行きました。
そう。あの頃と同じ。
夏になれば二人ではしゃいでいたあの頃と、社会人になって大人になった今もなんら変わりないのです。
親愛なる幼馴染へ***
私の一番の理解者であり、時に厳しく、時に優しく思いやりをくれ、自分の事のように喜び・そして悲しみ。
そんなあなたが私は大好きです。出会ってくれてありがとう。出会えて本当に良かった♪
これからもずっとよろしくね。
そんな思いを今年の夏も噛みしめながら、出会えた奇跡に感謝を想うのです。