ディア・ライフ #003


みなさまこんにちは、hazamaです。まぁ今年は本当によく降る梅雨で、傘をしまういとまがありませんね! バッグにもかならず折りたたみ傘という毎日で、おかげでというべきか、今年は湿気・殺菌対策のラベンダーオイル&ポプリが大活躍。イエの玄関や窓辺やクローゼットに、そしてバッグの中にも、コットンにオイルをふくませたラベンダー・パックが欠かせません。トイレやベッドサイドにはポプリを置いて気分を爽やかに。昨年は梅雨明けが早かったのですが、今年は平年並みの19日頃なのかな? もうしばらくこの香りとともに過ごして、梅雨が明けたらポプリをおろして、ラベンダーのハーブバスで湿気疲れを癒そうと思っていますw


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「一枚の写真に焼きつけられた、わが家の小さな物語」

#003テーマ
「一枚の写真に焼きつけられた、わが家の小さな物語」


さて、今日は“ディア・ライフ”#003の語らいのスタートです。イエと家族をめぐるショート・エッセイ、今回のお題は「一枚の写真に焼きつけられた、わが家の小さな物語」。写真がキーになっていますが、写真自体をご投稿頂くのではなく、写真に残っているひとコマのエピソードを綴って頂くというテーマです。お部屋に飾ってあるスナップでも、心に忘れられない一枚でも、またよろしければアルバムをひもといて家族の歩みを思い出しながら……ぜひみなさまのイエの小さな物語を聞かせてくださいませんか? 写真に写ったその光景とともに、胸にも焼きついているあの日あの時。今回も幸せなエピソードがさまざまに綴られることでしょう。みなさまからのメッセージ、楽しみにお待ちしています!


“アイデア・タイトル”
「新しいイエのこけら落とし?!姉弟の歌謡ショー・アルバム」
by hazama


“メッセージ”

一枚どころかフィルムでワンロールほども残っている思い出写真なのですが、今でも家族の語り草になっているアルバムのページがあります。小学2年生の私と、幼稚園年少組の弟が、二人で衣裳をまとって歌い踊っている、爆笑手作り歌謡ショー! そう、忘れもしません、今の実家であるイエを父が購入して、新しいイエに越してきたばかりの頃。あんまりうれしくて、当時は客間としてソファセットが置かれた部屋で「歌います!」と私が計画したのでした(笑)。


衣裳はほとんど父と母の洋服や帽子。音楽はテレビから録音したカセットテープ。観客である父母のソファだけ残して、あとのものは部屋の脇へ押しやり、カーペットの床がステージです。一番笑えるのは、二人で沢田研二さんの「勝手にしやがれ」を父の背広で歌い、帽子を投げているところ(爆)。ここでは、父がキメの写真を撮ると言って、何度も帽子を投げさせられたのを覚えています〜。弟がナゼかパンツ一丁に首から風呂敷をマントにして「ガチャマン」を歌っているそのハリキリようも、風呂敷マントを後ろから持ってヒラヒラさせている私の演出も我ながらナイスです〜。


母のお出掛けワンピースやショールを衣裳に、キャンディーズピンクレディーもいっぱい歌って……。その時に忘れられなかったことがひとつ。普段は洋服箪笥やドレッサーの引き出しはさわるだけで怒られるのに、その歌謡ショーの計画中だけは、洋服やアクセサリーをいくら引っ張り出しても、一切何も言われなかった。今思えば、おそらく父が母に、いいから黙って見ておけと言ってくれたんだと思います。そして、父も母も、このズッコケ歌謡ショーを惜しみない拍手と笑いで思い切り楽しんでくれた。そのステージと観客の興奮(?!)が写真いっぱいに写っていますw


この手作り歌謡ショーは、思えば私がはじめて計画した「イエ・イベント」かも! 新築祝いの景気づけにもなったのかな〜? その後も一家はこのイエで元気いっぱいに育ち、古くなってリフォームの手を加えながらも、お盆やお正月に家族全員が集まってはイエ・イベントに興じる場所として現役です!


»投稿または「いわし」の閲覧はコチラから


※今回の「いわし」ご投稿は7月20日(火)正午で終了とさせて頂きます。
※今回のピックアップ賞は7月20日(火)に「イエはてな」にて発表いたします。
※〈イエはてな〉では、いわしへ投稿されたコメントと画像をダイアリーに転記しています。できましたら「投稿画像のwidth属性」を450px以内に指定していただけますようご協力をお願いいたします。

いわしの回答(転記)

昔は何かと言えば写真館 to-ching6pt

小さい頃はよく連れていかれました、入学時、家族や親戚がそろった時、家族が増えた時等々。皆正装して行ったものです。勿論、カメラが一般に普及していないせいも有ったのでしょうが、独特の時間でした。今から考えれば悪いことではなく、けじめを付ける儀式と捉えられます。今はあまり利用され無くなったようですが・・・その、写真は大抵修正されてちょっとした美男美女ばかりです。

今は・・・ to-ching6pt

はっきり書いてヤンキー上がりの夫婦が七五三に奇妙な格好をさせて、写真館に行きますが・・・彼らは普段子供の世話を碌にしないで、こんな時だけ一生懸命だ。

雪が降った日の写真 gtore2pt

子どものころ、めったに降らない雪が珍しくて、大喜びで遊んでいるときの写真があります。

イエのまえに雪だるまをつくったり、雪を投げあったりして、無邪気にはしゃいでいた記憶がよみがえります。

南極を想起したのか、雪でペンギンを形づくったりもしましたね。

何時間かしたら、雪だるまが解けてしまっていて、それを見たときは、なんだかとても悲しかったですね。

雪が降った日の写真 r-zone1pt

我が家は雪国だったので、家族写真の3分の1は雪に埋もれてますww

逆に海に言ったときの写真が我が家では貴重で

綺麗な海で撮った写真は大切にしています。

一週間だけの家族だった犬の写真 momokuri32pt

ペットとはあまり縁がないわが家ですが、ほんの一週間ほど、家族として過ごした犬がいたんです。それは私がまだ小学生だったころ。わが家の庭に迷い込んできた小型犬でした。よく人になれていましたので飼い犬には違いありませんが、首輪がなく、飼い主を探す手だてがありません。母が交番や保健所に電話をして、それらしい犬を探している人はいないか聞いてくれましたが、そういう届け出はないとのこと。しばらくわが家で面倒を見ながら飼い主を探すことにしました。

その夜、帰ってきた父と一緒に飼い主探しのポスター作り。翌日は土曜日で父も私も休みでしたので、犬を連れて散歩がてら、あちこちにポスターを貼らせてもらいに歩きました。行く先々で聞き込みも行います。

「この犬なんですが、心当たりありませんか」

しかし有力な情報はなかなか掴めませんでした。

犬の方はとても私に良くなれてくれて、たった二日一緒に過ごしただけで、もう十年も一緒に過ごしているような仲良しになりました。翌日の日曜日も聞き込みとポスター貼りを兼ねて犬と一緒に歩きました。途中、同じく犬を散歩させている人と出会います。お互い引き綱を短く持って、会釈をしながらすれ違います。その犬はとてもいい子で、けっしてよその犬とうなり合ったりすることがありませんでした。私は自分でしつけたわけでもないのに鼻高々。帰ったらご褒美においしいおやつをあげるよと声をかけると、うれしそうに跳ねるポーズをします。もうこの犬がかわいくてたまりませんでした。

翌日の夕方、ハッと気が付いて、犬を自由に歩かせてどこに行くかを観察してみようと思い立ちました。もしそれで本当の飼い主の家がわかったら、それは犬にとってはとてもうれしいことですが、私にとってはとても悲しいことになります。私は実行を迷いました。もうこの犬を手放したくない、飼い主なんか見つからない方がいい。そういう思いと、いやいやこんなにかわいい犬のことだ、飼い主はすごく心配しているに違いない、それにこの犬にとっても元の家に戻れるのが一番の幸せだ、そういう思いが心の中でぶつかり合いました。

やっと決心が付いて立ち止まり、引き綱をゆるめたのですが…。犬はぴったりと私の真横に着いたまま、一歩も動かなくなりました。この犬は、絶対に人間の先を歩こうとしない犬だったんです。帰宅した父にそのことを話すと、それはとてもよくしつけられた犬の証拠だ、犬のしつけはまず飼い主を敬うことから始めていく、飼い主を敬う気持ちが育った犬は、絶対に先頭を歩こうとはしないんだ、先頭は群れのボスの位置だからねと教えてくれました。

「しかし、そんなによくしつけられているとすると、ますます捨てられたっていうことは考え難くなってくるな。飼い主探し、頑張らないとな」

私は複雑な気持ちで、うんと首を縦に振りました。

その日から、父も母もことあるごとにカメラを構えては、犬と私の写真を撮りまくってくれました。短い間しか一緒に過ごせないこの犬との思い出を、たくさん残してくれようとしたんでしょう。結局次の土曜日に電話が鳴り、飼い主さんと連絡が付きました。私は犬を抱きしめて泣きました。別れの辛さと、家に帰れるんだよ良かったねの涙が一緒になって、もうすぐ飼い主さんがやってくる時間になっても、なかなか泣きやむことができませんでした。

飼い主さんが、私とほぼ同年齢の女の子を連れてやって来ました。女の子は犬を見るなりわんわん泣いて、さっきの私と同じように抱きしめていました。本当の飼い主だ。犬もあんなに嬉しそうだ。ちょっとそのことが喜べる心の余裕が生まれてきました。でも、よかったね、これでお家に帰れるねと犬を撫でると、私も涙が止まらなくなってしまいました。二人の子供の大泣きが続きました。

しばらくして、写真が出来上がってきました。犬の表情、しぐさ、一つ一つに、思い出が込み上げてきました。さらにしばらくして、飼い主の家の女の子から、犬の写真が同封された手紙が届きました。犬は優しい家族に囲まれて、とても幸せそうでした。その写真も大切な思い出の一枚です。

ペット nakki13421pt

事情が違いますが・・

私の住んでる家にも猫ですが

ほんのわずかな間ですがすんでる時がありました

一枚も写真がないのでどんなな猫だったのか

もう忘れてしまったのですが・・

懐かしい思い出です

(一枚くらい、写真があったらなあ・・)と思いますね

家族写真 adgt8pt

正月だとか、盆、入学・卒業式なんかに家族写真を撮ってた。節目節目で、家族全員が揃った写真があるというのは、思い出深いし、非常に大切なものになる。祖父が無くなってから、その行事は段々と減ってしまったけれど、自分が家族を持ったら、ぜひとっていきたいとおもう。

家族写真 twillco7pt

お正月などで親戚一同が集まるときには

家族&親族で写真をとってます。

あまり集まる機会がないので、こういう機会は大切にして

記念写真に残しています。

姉弟の写真。 nakki134211pt

小さい頃の私と弟が一緒に写っていて

少し、大きいサイズになっている写真があります

今とは、お互い違いすぎる姿で

時々それを見るたびに笑ってしまいます

(時間も経ってるから姿が違うのは当然なのですが

今の姿からは面影がほとんどないんですw)

正直

自分にとってその写真に一緒に写っている弟は

少し苦手なタイプで

写真は、貴重なものです

(これから先、機会があったらいつか撮ってみたいと

思いますけど)

小さい頃の兄弟写真 adgt10pt

みていてホッとするというか、懐かしさで優しい気持ちになるというか。無邪気に仲良く遊んでいる風景が自分たちながら、何だかほほえましい。

ペットの写真 otayori14pt

今はペットを飼えないので、昔実家で飼ってた犬の写真をよく見てます。

温かい気持ちになります。

ペットの写真 twillco13pt

ペットは大事な家族ですもんね!

我が家はペットは飼っていませんが、旦那さんの実家のワンコの写真を飾ってます。

娘と大の仲良しなのでいつも眺めて名前を呼んでます。

懐かしいイエの庭のニシキギの写真 C2H5OH1pt

私は物心が付くか付かないかの頃に、一度引っ越しを経験しているそうです。普通なら記憶に残らないはずのそのイエの、特に庭の様子を、私はハッキリと知っています。それは、庭いじりが好きな母が、四季折々の庭の様子を克明に写真に納めていたからでした。それを見て、私は自分が生まれたイエの様子を、記憶に刻みつけることが出来たのです。

家の前は広い空き地になっていて、庭との間は生け垣で区切られていました。生け垣といってもまばらに木が植えてあるだけで、ほとんど竹垣といった感じです。でもその見通しの良さがとてもいいのです。

特に印象的な一枚は、庭の一角に植えられていたニシキギの写真でした。真っ赤に紅葉したニシキギ

「きれいだねぇ。」

すると母は、もみじの歌の二番を歌ってくれました。

渓(たに)の流れに 散り浮く紅葉

波に揺られて 離れて寄って

赤や黄色の 色さまざまに

水の上にも 織る錦

(高野辰之作詞、岡野貞一作曲)

「この歌が出来たのは明治時代。でもきっともっと前から、ニシキギは山の錦と呼ばれていたと思うよ」

このやりとりもまた、子供心に印象的でした。

しかし今のイエの庭には、ニシキギがありませんでした。そこで私はニシキギを植えようと思いたちました。どこでニシキギが買えるのかも分からない子供でしたが、友達に聞いて回って、なんとか売っているお店は突き止めました。でも毎月決まった小遣いをもらっていなかった私には、すぐに買える値段ではありませんでした。

お正月を過ぎ、お年玉で懐が温かくなった私は、さっそくニシキギの苗を買いに行きました。新春セールで、通常の値段よりずっと安く買えたようでした。意気揚々と自転車を漕いでイエに帰り、庭にいた父に「これ植えてくれ」。

「どうしたんだこれ。」

「お年玉で買ってきた。」

それを聞いた母が、「ぷっ、なんていうお年玉の使い方をするの」と吹き出していましたが、「お母さんへのプレゼントだよ、この木好きなんだろう」と言うと、最高のお年玉よと喜んでくれました。

植え付けが終わったニシキギの横に立って記念写真。これも懐かしい一枚です。今もそのニシキギは、秋になると真っ赤に紅葉して、庭を美しく彩ってくれています。

従兄が撮ってくれた告別式の写真 Catnip1pt

父が突然、この世を去りました。何が起こったのか噛みしめることもできないまま、葬儀の準備が始まりました。母が喪主ということになっていましたが、あまりのことに母は駆け付けてくださった人々に黙って頭を下げるのがやっとの状態。喪主としてのほとんどを、私が代行することになりました。

冠婚葬祭と言いますが、予め丁寧な準備をして行う結婚式などと違って、たった数日で全てを行わなければならない葬式は、信じられない忙しさです。いったい自分は今何をしているんだろう。そんな判断も出来なくなりかけるほどに、私も心身共に衰弱しきってしまいました。

そんな時です。子供の頃から兄のように慕っていた従兄が駆け付けてくれました。そして、

「お前の父上は稀に見る立派な人だった。俺がその別れの様子を全てカメラに収めてやる。お前は今、忙しすぎて泣く余裕もないだろう。だから俺の撮る写真を見て、あとで落ち着いてからたっぷり泣け。あれほど立派な人との別れに涙する時間もないとしたら、それはお前にとって大きなマイナスだから」

と言ってくれたのです。

式が終わった後、私の所に、たくさんのプリントとネガが届けられました。アルバムには、時系列で式の様子がまとめられています。私の知らなかった、忙しすぎて見えていなかった式の様子が、克明に記録されていました。それを見て、やっと心からの涙が込み上げてきました。

母が、一緒に見せてくれと言いました。母の心に再び悲しみが押し寄せることを心配しましたが、親子で共に悲しむなら大丈夫だ、一緒に悲しむなら、あとで二人で手を取り合いながら元気を出すこともできると思い、写真を渡しました。母はやはり号泣していましたが、お前のお陰できちんとした式が出せた、最後にいい親孝行が出来たねと言ってくれました。

今もその写真は大切に保管してあります。今は開くこともないアルバムですが、アルバムの背を見るだけで、父の後を継いでしっかり母を支えて生きていこうという気持ちにさせられています。

ぎょ!心霊写真?!でもそこから生まれたご先祖様との絆 Fuel1pt

数年前のお盆の帰省の時、お墓参りの後で撮った記念写真。デジカメでしたので、PCのない親戚の家にはプリントしてお配りすることにして、すぐできますよと地元のコンビニでプリントアウトしたのですが、なななな、なんと、親戚一同が並んでいるその上に、虹のような光が写り込んでいるではありませんか。

おかしいなぁ、集合写真のセオリー通り撮ってたからハレーションなんか起こるはずがないのに、と思っていたら、親戚一の長老格のおじいちゃんがその写真を見て、涙を流さんばかりに感激して、こう語ってくれました。

その昔、村が干ばつで苦しんでいた時、夢の中にご先祖様が虹に乗って現れて、子孫の善徳のおかげで下の方に落とされていた身内もみんな救われて、これから揃って天国に行くところなんだ、お礼に明日虹を出すから空を見ていてくれ、と言ったそうなのです。虹が出るということは雨が降るのかと待っていると、雲一つ無かった空がにわかにかき曇り、滝のような豪雨。すっかり田んぼが潤うと、サッと雨が上がって、美しい虹が空にかかったということでした。

おじいちゃんは、伝説の虹だ、今日の供養でご先祖様が救われたに違いない、子孫の私たちが日々真面目に人の務めを果たしてきたおかげだ、とりわけ写真を撮ったお前(私)の努力が認められたんだなぁと、私の手を取って、そう語ってくれました。

まさか、日々ぐうたらに過ごしてきた私にそんな善徳があろうはずはありませんが、私の父なら、そのくらい真面目にやってきていたかもしれません。

その夜、そのおじいちゃんから、ご先祖様の話を色々聞かせてもらいました。初代の名前は誰々、その何代後の子孫がどこそこに渡り何々村を開いた、などなど、系図を紐解きながらの説明はとても興味深い物でしたが、中でも興味を惹かれたのは、伝説や言い伝えのたぐいではない、現代に近い時代のご先祖様方の話でした。

たとえばあるご先祖は、村八分にされて田んぼに水を引かせてもらえない農民のために田んぼを畑に変えてそこで大豆を作ることを提案したが、連作障害が出てうまくいかなかった、小麦との輪作もやってみたが土地柄からか小麦はうまく育たず、一計を案じたご先祖はその農民と土地を交換して自分の田んぼを使わせて、かわりに自分は水を引かせてもらえない田んぼで一人、育たない大豆作りを始めたというのです。これを見た村の人たちが慌てて、申し訳ないことをした、ちゃんと水が引けるようにするからと言いに来たので、なぜ自分には水を引かせて、あの農民には水を与えなかったのか、自分とあの農民のどこが違うのかと諫めて村八分をやめさせた、なんていう話がありました。多少の蓄えがあったから出来たことなのでしょうが、それでもそのご先祖は、何年も米を口に出来ない貧しい暮らしをしたそうです。

ただ村八分にされていた人を哀れんでじゃないんだな、けっして豊かとは言えない農村で、人と人とのいがみ合いから生まなくてもいい貧しさを生んでいたら、それだけで村の力が弱くなる、それをやめさせたかったんだなとおじいちゃん。ほかにも、そんな感動する、あるいは教えられる話がたくさんありました。

例の写真は、おそらく何らかの光の写り込みです。デジカメに心霊写真なんて有り得ないでしょう。でもご先祖様が、自分たちの築き上げてきた歴史を子孫に受け継いでもらいたいと、何かの信号を送ってきたのかもしれないと、ちょっとそんなふうにも思えてきます。

供養とは、先祖に喜んでいただくこと。先祖に最も喜んでもらえることは、子孫がその歩みを受け継いでいくことだろうと思います。今年の夏も、そんなご先祖様の話を聞かせてもらいに行ってみたいと思っています。

父親はオタク仲間だった(笑)20世紀のコスプレ写真 watena1pt

父の部屋の大掃除を手伝っていたら、ごっそりと写真が詰め込まれた箱が出てきました。父も既に忘れていた物だったらしく、へぇ懐かしいなと、掃除の手を休めて懐かしの写真鑑賞会が始まりました。ほとんどが学生時代の写真です。整理していない写真の束を実家から持ってきて、そのままにしておいた物のようでした。

服装も髪型も今とは随分違います。それだけでもとても面白い物でしたが、ハッと目を引いたのは、とある古いアニメの登場人物に扮した写真でした。

「こ、これって○○○○?」「おー、知ってるか。」「本編は見たことがないけど、一応有名だからだいたいは知ってる。」「そうかそうか。」

明らかにオタクが集まるイベント会場での写真ですが、父はそれを隠そうとしませんでした。むしろ熱く当時の作品や活動について語り始めたのです。これには驚きました。

「お父さんてオタクだったんだ。」「そうだな、でもお父さんの時代にはマイナーすぎて世間には知られてなかったから、そんな呼び方すらなかったけどな。」「同人誌作ってたの?」「お父さん達は実写映画作りが中心だったな。だから作品発表は大学での自主上映会が主だった。でも映像制作には資金がかかって、撮ってるよりバイトの方が忙しかったよ。」

そう語る父は、学生時代に戻ったようにキラキラとして見えました。

「本も何冊か作ったぞ。といっても評論誌だけどな。当時の同人界では、そういう評論活動も盛んだったんだ。本のテーマが決まると、みんなで草稿を書いて持ち寄って、それから討論会なんだ。作品の世界観の解釈一つを話し合うだけで丸一日費やすこともあった。そうして議論を積み重ねて、各自読み応えのある評論に仕上げていく。そういう過程が楽しかったな。しかし出来上がった本は悲惨だった。まだワープロもない時代だったから全て手書きなんだが、みんな字が汚いんだよ。」

「当時のコスプレは、今で言うコスプレとは随分違っていた。当時は大型フィギュアを作る感覚でロボットやアーマーや小道具などを作り、それを実際に身につける。衣装を真似してキャラに扮するというより、自分の製作物を発表することの方が中心だった。といってもお父さんは手先が器用な方じゃなかったから、随分苦労したけどな。」

今のオタクとはちょっと違う世界。でも魂は同じ。何だか父がとても身近に感じられてきました。一枚の古い写真から知らなかった父の一面が発掘されて、断絶しがちな青年期の息子と親との絆が深まったことは、今思うととても幸せなことでした。

父もあと少しすると仕事から解放されて、第二の青春を楽しめる世代になります。もしまだオタクという呼び方すら無かった頃の世代がもう一度創作の世界に戻ってきたら、面白いことになるかもしれません。父は、何か考えているようです。

父の寝顔の写真で知った愛のカタチ TinkerBell1pt

女の子には、父親の存在が素直に受け入れられなくなる時期があります。

私にもそんな時期がありました。

ちょっと前までは一秒でも長くそばにいたい、大好きなお父さんだったのに、です。

なんとなく父と過ごす時間がぎくしゃくしはじめました。

それまでは何でも話せていたのに、隠しごとをしたいわけでもないのに、自分のことが話せなくなる。

父に指先が触れただけでギクッとしたように手を引っ込めてしまう。

年頃の女の子は誰でもそうなのだろうと思います。

そして、そんな時期をきっかけに、父親と娘というのはだんだん距離が離れてしまうものではないかと思います。

そんな私が今でも心の底から「お父さん大好き!」と言えるのは、その頃に見た一枚の写真のお陰だったかもしれません。

それは、父がテーブルに突っ伏して寝ている顔のアップでした。

母が、「お父さんかわいい〜」と笑いながら、その写真を見せに来たんです。

「古い写真を整理してたら出てきたのよ、ほら」

「へー、お父さん、ずいぶん若いね」

「そうねぇ、あなたが一歳ちょっとのころの写真だから」

「ふーん」

「この時ねぇ、あなたが風邪引いて熱出しちゃってね、お父さん、寝ずにあなたの看病をしてたのよ」

母は元ナースです。

私が付いているから安心して。

母はそう父に言いましたが、父は夜は自分が付きそうと言って聞かなかったのだそうです。

翌朝はそのまま一睡もせずに出勤。

仕事が終わるとまたすっ飛んで帰ってきて「明日は有休が取れたから今夜も自分が看病するぞ」。

もう熱も下がってるし食欲も出てきたから大丈夫よと言っても、父はもう一晩寝ずに付き添うの一点張り。

「そんなに心配なの?」

「いや、大丈夫なのは寝顔を見ればわかる、でも自分がそうしないではいられないんだ、頼むから今夜も一緒にいさせてくれ」

こうして父は、丸々二晩、一睡もせずに私の隣で夜を過ごしてくれたのだそうです。

そして翌日。

往診に来てくれた先生から「もう心配ありません」の一言を聞いて、やっと安心した父は、母に濃いお茶が飲みたいと頼んだそうです。

はいはい。

母がキッチンでお湯を沸かしてお茶を入れて持っていくと…。

父はもう、テーブルに突っ伏して爆睡していたそうです。

そこで母は、これぞシャッターチャンスとばかりにパチリ。

「ほら、よく見るとこのへん、ちょっとよだれ」

「やだー、かわいー」

「いい寝顔でしょう」

「うん」

「これがあなたを愛してくれている人の顔よ」

「うん…」

私は母に頼んで、その写真をもらいました。

今もその写真は、大切に持っています。

もしかしてあの時母は、父親と娘の間に生まれはじめた溝を埋めようと、この写真を見せたのかもしれません。

そう思うと、ちょっと作戦に引っかかってしまった悔しさがありますが、そんなのどうでもいいですよね。

愛は宝。

愛も、写真に写るんです。

宝物と言える写真を持っている人は幸せです。

七五三の写真 shig552pt

娘の七五三のお祝いに着物を奮発しました。サーモンピンクを基調にした、子供にはちょっと落ち着きすぎるかなと思えるすてきな柄でした。一回だけしか着ないのではもったいないと、仕立て直しをすることを前提に、色柄も選んだのです。

近所の美容院で髪をセットしてもらい、着付けまでしてもらって、おめかしをしました。そして神社のお参りです。この時期は何組もの同じような参拝者が来ていました。拝殿にあがり神主さんからお祓いを受け、おみやげに千歳飴をもらいました。

この思い出に写真を残しておかなければなりません。その頃はまだスタジオでの撮影はあまり多くはありませんでした。父親である私がカメラマンをやることになります。ファインダー越しに見る娘は、いつもと違って大人びて見えます。まだ幼いのですが、しっかりと着付けをし、髪をまとめているので普段とは別人のようです。いろいろなポーズで写真を撮りました。神社をバックに千歳飴を下げたおきまりのポーズ。家族そろっての集合写真。その中で、今でも気に入っているのが、帯を撮ろうと斜め後ろから振り向いたところを撮ったショットです。撮影のためにいろいろ注文をつけたのかもしれませんが、娘の顔は少しはにかんでいるように見えます。なかなかいい一瞬を切り撮ることができています。ただ、この写真を見るたび、スタジオで撮らなかったことが悔やまれるのです。それはせっかくよい表情やアンクルなのですが、背景が煩わしいのです。狛犬が後ろにあり、周りには参詣の人々も写り込んでいます。

「七五山の写真」として人に見せるとき、せっかくの写真がスナップ写真と同様になってしまいました。記念写真としてひと味違って撮っておきたかったのですが、背景まで気が回らなかった結果でした。普段の写真と改まった写真をしっかり区別して撮っておくべきだったと残念に思いました。

でも、少しおませな色柄の着物を着て、はにかみ顔の幼い娘の写真は、大切な記念の写真です。

七五三 koume-11241pt

私の七五三の写真も家にありますね。

可愛い着物を着て千とせあめをもって嬉しそうにしている顔が

写真にバッチリ収められてました。

父も母も若くて、きれいな服を着てビシッとしていて

今では考えられない出で立ちでした(笑)

モノクロの写真 カラーの写真 デジタルの写真 dayday8pt

私が産まれたときの写真は、白黒写真。モノクロでした。

それも大きさも今のL板とかよりももっと小さい手のひらに収まるサイズ。

今はモノクロというよりも、すこし黄色っぽく変色して来ました。

そして、小学校入学の時の写真はカラー写真。

色味もなんだかはっきりとしないで、しかもぼやけている色の感じ。

今のクリアーでそのものずばりの色でない写真に、なんだかかしこまって写っている小学校入学。

そして、私の結婚式の写真はデジタル写真。

メールで両親に送ったり、友人からも添付で送られてくる。

写真が共有できる時代になってきた。

そして息子たちが産まれた20001年。

もうデジタル全盛になっている。

遠くの祖父母にもメールで送ったり。

でも、そんな中でも気に入りの写真はフォトブックにしている。

子供の小学校入学はカラー写真でしかもデジタル処理して、フォトブック。

モデルの息子たちは、いつもと変わらない笑顔。

かしこまったり、カメラに緊張もしなくなっている。

モノクロからカラーそしてデジタル。

アルバムも紙のアルバムからデジタルフォトアルバムが登場の時代。

カメラ機も増えて、家族も増えて、写真のカラーも増えました。

カメラ時代 eiyan7pt

カメラは昔の銀板から今のデジタルまで変革しましたね。

それぞれに特徴があって貴重なもの。

でも保存期間を比較すると昔の銀板写真が一番長期間保存が出来るが、現在のデジタル写真メモリー等は保存期間が一番短かいのだそうですね。

卒業式の写真 gameotaku-46498pt

思い出してみると、自分はまだこんな子だったんだと思います。

小学校は親がたくさんいる中で卒業式を行い、集合写真や、親の隣で写真を撮ったりとか・・。

これも育ってゆく子を写真でおさめた小さな物語です。

入学式&卒業式 r-zone7pt

入学式や卒業式と時には家族で家の門の前で写真を撮るのが定番でした。

小学生の時には新しいランドセルをしょって

卒業式の時には卒業証書を持って

親やおばあちゃんと一緒に撮りました。

今でも取ってあります。

妊腹写真 sumike2pt

私の幼少時からの写真アルバムの一枚目に貼ってあるのは、

母親の、臨月の姿を庭で撮影した妊婦写真です。

(マタニティドレスを着た、記念写真みたいなものです)

小さい頃、その写真を母と一緒に見ながら、

「このおなかの中に、あなたがいたのよ・・・」

という話を聞いて、うれしかったのを覚えています。

そのため、我が家の息子のアルバムの最初に貼ってあるのも、

息子の新生児の写真ではなく、私の臨月の頃の写真です。

息子に

「このお腹にあなたは入ってたんだよ〜」と写真を見せると

「え〜?お母さんのおなかの中にぼくがいるの?、いつぼくを食べたの!?」

と最初はびっくりしていましたが・・・。

現在、息子は4歳^^

「あなたはここに居て、ここから生まれて出てきたんだよ。そしてこんなに大きくなったのよ」

と説明すると、

「このおなかに入っていたんだ、大っきいおなかね〜」

と喜んでくれているので撮っておいて良かったと思いました^^

娘のアルバムには、息子が服の上から私のおなかにタッチしている写真があります。

妹とは何か?というのがわかっていない時期だと思いますが、私のおなかにむかって

あ〜ちゃん(赤ちゃんの意味)早くでておいで〜」

と呼びかけているところです。

お腹が大きい時というのは本当に短く貴重な時間で・・・

新しいいのちが今、ここに宿っていたと思うだけで神秘的。

そして息子と娘、あなたたちがこの世に生まれて本当によかった。

お腹の中に確かにいた証の妊腹写真。

私の宝物の一つです^^

妊婦写真 twillco1pt

うちも撮ってました。

日に日に大きくなるお腹を横から周期ごとにとってました。

初めは平らだったお腹も臨月には大きくなって

妊娠って不思議だな〜と改めて凄い事だなと思いました。

子どもが大きくなったらまた見せてあげたいです。

イエの中で見つけたかっこいい男の子の写真 CandyPot2pt

それはまだ小学生だったころ。電話の下に紙が挟まっているのを見つけました。なんだろ。手に取ってみるとそれは写真でした。サッカーをしている男の子たちの写真。わー、右側の人かっこいいー。そこには、当時密かに憧れていた男子によく似た人が、今にもシュートを決めそうなポーズで突進している瞬間が写っていました。

ドキドキドキドキ。私は周囲を見回しました。誰もいません。サッと写真を服の中に隠して、自分の部屋にタタタタタッ。いいえ、盗むつもりなんてありません。ちょっとの間、その写真をゆっくり眺めてみたかっただけなんです。

私はベッドの縁に座って、もう一度その写真を取り出しました。うわー、見れば見るほど○○くんにそっくり。かっこいいなー、すてきだなー。あ、写真の隅の方に応援してるらしい女子も写ってる。がっくり、そうよねぇ、こんなかっこいい男の子、女子が放っておくわけないものねぇ…。この女子、きっと○○くんそっくりさんの応援に違いない。だってここに写ってる男子の中で、この人が一番かっこいいもの。

よく見るとこの女子もかわいいなぁ。顔はよく見えないけど、なんとなくわかる。好きな男の子を応援するために、少しでもそこにいて喜ばれる人になりたいっていう気持ちで、服も髪型も選んできたに違いないのよねぇ。私、そういうのが苦手で…。そうなの、私にはそういう心のかわいさがないの。だからだめなのよねぇ。はぁ…。なんて、一枚の写真を眺めながら、小さなオトメ心がぐるぐる。気が付くと、もう台所からは夕食の準備の音が聞こえてくる時間になっていました。

あ、まずい、写真返しておかなくちゃ。そーっと電話に近付こうとしたら、母に「ちょっとこっち来て手伝って」と声をかけられてしまいました。ぎくっ!びっくりした私は写真を落としてしまいました。でも、拾おうとするとばれそうなので、後で戻しておくことにして、素知らぬ顔で「はーい」。でも心臓はドキドキドキ。

そのうち父も帰ってきてしまいました。帰ってきた父は、何やら電話のあたりで探し物をしています。「おかしいなぁ、昨日電話しながら、このへんに置いたと思ったんだけどなぁ」と父。「あら、どうしたの?」と母。「ギクギクギク」と私(笑)。

「社内報に載せる写真を古いネガからプリントしたんだけど、そのうちの一枚をこのへんに置き忘れていたんだよ…あったあった」

ほら、と父がその写真をテーブルに持ってきました。

「こう見えてもお父さんは子供のころはサッカー少年だったんだ。これがお父さん」

がちょぉぉぉぉん。なんと憧れの○○君そっくりな男の子は、子供のころの父だったのでした。私は色んな意味で恥ずかしくなってしまって、真っ赤な顔になってしまっていたらしいです。

「どうした、そんな顔して。お父さんそんなにかっこいいか?」

あははと母が笑っていました。『○○君も大人になったらこんなふうになるのかなぁ』と思いながら父の顔を見上げると、さらに顔が真っ赤になってしまって、どうしようもなくなってしまいました。

あとで、一人になっていた父に後ろから「お父さんかっこいいよ」と声をかけて、自分の部屋にかけていきました。憧れの男子と子供のころの父がそっくりという不思議な偶然を体験した女の子は、その夜、とっても幸せな気持ちで眠ったのでした。

イエのなかで見つけた写真 gtore1pt

整理をしているときなど、なにかの拍子にひょっこりと思い出の写真が見つかるというのは、

たまにありますよね。

このまえ、整理をしていると、幼稚園のときのプールの写真が出てきました。

私と友だちが一緒に写っているものでした。

幼稚園の友だちの顔なんて、ずっと忘れていたのに、

顔を見ると、それぞれの子の名前がいえました。

不思議なものですね。

入学式と遊具 offkey3pt

父と一緒に写した小学校の入学式へ行く前の写真があります。母親が選んだ晴れ着とかばん。私の入学した小学校はランドセルの変わりに肩掛けかばんを推奨していたので。

父は型どおり背広を着ています。

ところでこの入学式へ行く前の写真はどこで写したかというと自分の家の庭先なのですが、そこには木と縄でつくった一人乗りブランコがありました。そのブランコをわざわざ一緒に入れて撮影しているのです。

このブランコは鉄棒とともに大工である父が子供たちのためにわざわざつくったものでした。仕事上、少々広い土地の片隅につくられた遊具。ブランコをささえる柱と座るところは建築木材を加工したもので、ブランコをぶら下げてるものは作業場で使われてる黄色と黒がより合わさった縄。鉄棒は同じく木の柱に鉄パイプの握り棒。

この写真を見ると父の思いに至らなかった私のふがいなさを思い起こすことがあります。

実をいうと当時私はこうやってつくってもらった遊具をそれほどありがたいとは思ってませんでした。近くには公園があり、そこには鉄でできた立派な遊具があります。木でつくった自家製遊具はそれと比べればどことなく貧弱に見えて、友達は家に遊びにくれば自分の家にこういうのがあっていいね、と羨ましがってはいましたが、私はなぜかそれを恥ずかしくすら思っていたのです。

そうはいってもそれは人前だけのことで友達がいなくなってようやく恥ずかしさが消え、妹と共に、あるいは一人で遊んだものでした。

人は手の中にあるものをありがたいと思うことはあまりありません。失われたときに初めてそのありがたみを知ることが多いように思います。

小学校を卒業するような年頃になると、遊具たちも古びてきておまけに大きくなった私たち兄弟の体を支えられるかどうかも怪しくなってきました。なにより、もうそのような遊具で遊ぶような年代でもなくなってきてます。

遊具たちは取り壊されました。

そのときは別になんとも思いませんでしたが、だいぶ後になって、昔の写真を整理したときに、先ほど述べた入学式の写真が出てきたのです。

そして、自分はあの父の作った遊具が何を意味していたのか突如としてわかったのでした。

それは夏場は仕事が忙しくて日曜日もない父が、自分の代わりに遊んでくれるものとしてそのようなものを作ったのではないか、ということです。もちろん、父に尋ねたことはありませんが、そうであるなら、なぜあんなに人前でその見栄えだけで恥ずかしがっていたのだろうと、自分の思いやりのなさに愕然としたのです。

しかしながら、その写真はそれ以上に当時の父の慈しみを思い出させてくれるものでもありました。もしかしたら父はそれほど深く考えずにただ子どもが喜びそうなものを作っただけなのかもしれませんが、どちらにしろ父は自分ができることで愛情を示してくれたのだと、あの頃の父の年を過ぎた私はそう思うのです。

遊具 eiyan2pt

昔は何でも遊具にしてました。

現在は危険とかいって余り遊具にしないですね。

これは危険が棄権を呼ぶもの。

少し考えさせられますね。

メイド・イン・ママ ekimusi1pt

アルバムを久しぶりに覘いたら、懐かしい写真がい〜っぱい。

写真の枚数としては赤ちゃんの頃はいっぱいで、保育園に入ると行事の写真がメインになり、

そして小学生時代の写真が行事、家族写真共に一番充実しています。

何回も見ているはずなのに、そうそうこれって〜と写真の色は少し色褪せてしまったけれど、

あの頃を鮮明に思い出させてくれます。

つい追憶に浸っちゃいますね。

そんな昔の写真を見て、服装や髪型がその時代をあらわしているなぁ〜と思いました。

そして、その中の一枚をなんだかとても懐かしく感じました。

中学生になるまで住んでいた家で、小学校2年生の頃、家の前で弟とお揃いの姿で仲良く遊んでいる写真です。

その少し前に家族旅行に行った時に使ったフィルムが数枚残っていたので、現像に出しに行く前にパチリと

父が撮ってくれたものだったと思います。

母は昔から裁縫が好きで、足踏みミシンで弟とお揃いの服や手提げバッグなどをよく作ってくれました。

私が高校生の頃に本格的に洋裁学校に通い、スーツなども仕立てられるようになりましたが、当時は、和裁は得意でも洋裁のズボンは少し難しかったようです。

その写真の弟とお揃いの服の半ズボンは、四角く切った布を縫い合わせ、ウエストにゴムを入れた

シンプルな形のものでした。

シャツは襟元がスナップ止めで、なぜか浴衣のように前で紐を結ぶ形になっていました。

シャツと半ズボンは当時ネコ好きだった私達のために、黒猫があしらわれた生地でした。

そのシャツと半ズボン履いて家の前で遊んでたら「お母さんの手作り服?いいわね〜」と通りかかる

近所の方たちに口々と言われました。

私は「お母さんが作ってくれたんだよ〜!」と満面の笑みで答えた覚えがあります。

今思えば市販のものには遠く及ばない作品だったかもしれません。

でも、子ども心に母の手作りの服はとても嬉しかったのを覚えています。

今写真を見返しても、愛情がいっぱいこもった服をいっぱい作ってくれたんだなぁって思います。

手作りって作った方はもちろん、作ってもらった方にも思い入れが深く刻まれる物なんですよね〜。

私は不器用だから、無理かなぁって思っていましたが、

写真を見返して、母も最初から上手だったわけではなかったのがわかりましたしw

私も同じように「メイド・イン・ママ」の服を私なりに作って、将来娘と、この服を作った時はね〜と話し合いたいものです。

家族旅行の写真 r-zone11pt

家族旅行に出かけたときの写真がたくさんあります。

どれも良い想いでで、見る度に懐かしさと楽しい思い出が蘇ってきます!

家族写真 guja10pt

うちはあまり家族旅行しなかった方ですが、だからこそなおさら写真を見ると嬉しいですね。

卒業アルバム jane1pt

アメリカでは、希望しなくても何パターンか“ポーズ”を付けさせられるので、かなり恥ずかしかったです。修正のリクエストも細かくつけられるので、できあがりは“それなり”なのですが、撮影の際、友達が撮影の列に並んで待っているので、当時はどんなポーズをしたのかも忘れてしまったくらいでした。

帽子は、卒業式最終日(学校にもよりますが、卒業式は数日にわたって行われます)に渡されるので、できれば帽子を被ったショットも欲しかったなぁ、というのが正直なところです。

でも、いまとなっては、すべてが良い思い出ですネ。

街並みの写真 jane1pt

散歩がてら、写真を撮って歩いています。特にこだわりはありませんが、モノクロだと自分で現像までできるので良い思い出になります。

そんな写真が、何千枚と溜まりました。

写真に修められた立派な錦鯉 w831pt

昔、父のお気に入りの鯉が死にました。父はその鯉が死んでから数日間、しばらくぼやいていました。その鯉は割合良い鯉で、普段父が言っている額では、買えないはずのものでした。

それからしばらくたった、ある日のこと。部屋を掃除していた私は、写真を数枚見つけました。その中の一枚に、池の写真がありました。鯉が数匹写っていたのですが、その中の一匹は、死んだ鯉と同じクラスぐらいの鯉だったのです。

私はあきれて父を追及しました。すると父はあっさり認め、苦笑いして逃げていってしまいました。私は父を反面教師にして証拠の品は処分することを誓いつつ、ずるい父には厳しい態度で接しようと心に決めました。

デジタルフォトフレーム adgt1pt

今年の母の日に贈ってみた。まだ、パソコンの操作もおぼつかないから美味く使えてはいないだろうけど、昔とっていたネガや、写真もデジタル化してデジタルフォトフレームの中に入れれば両親も喜ぶだろうと思う。

成長アルバム adgt4pt

大人になって自分の成長アルバムをみると、それを残してくれた親に感謝する。自分が記憶の無いときから、コレだけ見守ってくれていたということが分かるし、自分の子どもができたら絶対に作ってやりたいと思う。

成長アルバム inio3pt

私の家にも、兄弟一人に一冊ずつ成長アルバムがあります。長子の方が枚数が多いことに少し嫉妬したりもしたじきがありましたが、ああいった記録が残っていることはよいことだと思います。

子供の写真 mika10017pt

子供の赤ちゃんのときの写真を、部屋のあちこちに飾ってあります。

こんなときもあったんだなぁと、懐かしくなります。

まだ、そんなにたっていないんですけど、今の息子が、すごくお兄ちゃんに見えます!

子供写真 eiyan6pt

子供の写真は子供が大きくなった時に懐かしめますね。

1年毎に撮っておくと成長の過程が見える様です。

子供の成長は楽しみですね。

ふるさとの写真 adgt5pt

大学で実家を離れてから、帰省するたびに実家近辺の写真や故郷の風景をデジカメに収めて帰るようになった。散歩しながら、昔過ごした風景を残していると、すごくノスタルジックな気分になる。おっさんになったな、と感じるひととき。

ふるさとの写真 twillco4pt

今はもう住んでいない場所などは

写真で見るとどこか切なく懐かしい気持ちになります。

私の実家も引っ越しているので

写真を見るだけで想い出にふけってしまいます。

小さな頃に買ってもらったカメラで撮った写真 to-ching2pt

かなり昔としては贅沢品でした、おもちゃに毛の生えた様な性能だったのでしょう。写真は勿論カラーなんて無くて白黒です。一人で自転車に乗って出かけパチリ、旅行に行くときもパチリ。当時は写真のプリントが出来上がるのは最低5〜6日掛かったものです。何時もの写真屋さんにフィルムを持って行って現像依頼、出来上がるのが待ちどうしくて・・・。

まだ、私の撮った写真は保管されており、中々傑作ぞろいと思ってます。家族の写真、親戚の者、キャンプに行った時の、初めて本州へ旅行した時の、犬のコンテスト等々。小さな頃の記憶がよみがえりますね、あと、上手と思えるのは天気が良かったからかもしれません。さすがに傘やカッパを着用して撮るほど根性は無かったのでしょう。今見ると白黒写真は返って新鮮ですね。

ミニカメラ eiyan1pt

昔は小さな小さなミニカメラがありました。

おもちゃの様な小さなカメラでもちゃんとフイルムを入れて写真が撮れました。

そんなカメラ達も今はもう引退。

自分で現像したりプリントしたりした時代が懐かしいですね。

ひそかな傑作写真 to-ching2pt

女房が長男を産んで初めて彼女の実家に帰る時でした、田舎ですから当然列車も古い、背もたれは板の客車がまだ残って居たのです。そこに、通路で若い母親が子供をおんぶして写っている写真は傑作ではないか?と思ってます。古い客車と若い女性が子供をおんぶ・・・絵になってました。今でもコンテストに出せばよかったな、と自我自賛。題もついており「帰省」となっております。

スクープ eiyan1pt

スクープ写真は印象に残りますね。

特に子供は色んな動作をしますので傑作写真が撮れる。

これが記念になりますね。