リブ・ラブ・サプリ〜FORTUNE #037
みなさまこんにちは、ハザマです。一昨日スタートした“イエコト・ミシュラン”#041「暑い夏、寒い冬だからこそ楽しみたいイエコト・コンテスト」、さっそくたくさんの書き込みを頂き、どうもありがとうございます! けれど、ここしばらく各コーナーで夏テーマが続いたことや、テーマ・タイトルがわかりにくかったかも?…で、季節の一般的な話題がやや目立っております(笑)。ここはひとつ、気候や風土をいかに活かして楽しみを創り出すかという観点から、イエコト・マイスターのみなさま、アイデア光るメッセージで語らいをリードして下さいませ! ぜひ、〈イエはてな〉ならではのユニークな発想や知恵がいっぱいのコンテストになりますように♪
さてさて、今日は“リブ・ラブ・サプリ〜FORTUNE”#037の語らいのスタートです。今回のフォーチュン・サプリのテーマ、まずは「座」。座布団や上座・下座といった和のくつろぎや慣習、座ることをめぐる全般、そのほか「座」つくモノ・コトなど、自由に発想をひろげて、幸せな暮らしと人生のサプリを教えて下さい! そして「ガラス」テーマでは、ガラスの美しさや特性から生み出された素敵なモノや手作りの品、暮らしの中のガラスにまつわる楽しいエピソードなどを。また、こちらも初のテーマとなる「食育の時間」では、子供たちと一緒に「食」の大切さや豊かさを学ぶひとときやその試みについて、何でもメッセージ下さいませ。今回も、暮らしを小さな幸せでいっぱいにするみなさまの語らいを楽しみにしています!
「座」「ガラス」「食育の時間」+「縁起物」
「座」「ガラス」「食育の時間」+「縁起物」
“リブ・ラブ・サプリ〜FORTUNE”フレーズ
「あなたの〈座右の書〉は何ですか?」by ハザマ
“メッセージ”
「座右の銘」をめぐっては、ここでも幾度か語り合ってきましたよね。「常に自分の心に留めておいて、戒めや励ましとする言葉」(はてなキーワードより)。「座右」とは、「皇帝などが、自分の右手側の席に、信頼できる補佐役を座らせた」ことから、自分にとって重要なものごと、「銘」は「心にしるして忘れない文句」を意味しているんですね。みなさんもそれぞれに座右の銘をお持ちのことと思います。
では、あなたの〈座右の書〉は何ですか? 友達同士で、「無人島に1冊だけ持って行くとしたら、何の本を選ぶ?」というような会話を交わしたことがありませんか。私など、この質問をされるたびに頭を悩ませて、即答出来ないのが常です(笑)。でも、書棚から1冊の本を選ぶことは、自分の一番大事なものごとをあらためて知ることに通じる素敵な行為。自分にとっての幸せに近づく何よりのフォーチュン・サプリであるはずです。
私もこの思い立ちを機に、今の時点での唯一冊!を選んでみることにしました。
話題がちょっと私的な興味関心にかたよってしまって恐縮なのですが…選びとったのは、ジョルジョ・アガンベン著『幼児期と歴史』(岩波書店)。これは、2001年にイタリアで原書が出版され、2007年にようやく日本でも翻訳出版された、私にとって待望の書でした。大きなキーワードは「インファンティア」。言葉を持つ前の幼年期、人がまだ自然そのものである頃、世界を真新しいまなざしで見ていた人間の心の状態をめぐって語られた本です。もとより詩に関心を抱いてきて、詩的な瞬間は幼年のまなざしにつながっていると信じてやまない私を、これほどまでによろこばせた書はなかった…。そして究極するところ、私にとって一番大事なものは、誰もが一度はそうであった幼年の心性と詩なんだ、と強く思い至りました。一晩、いろいろな本をひらいて思いをめぐらせながら、自分でも発見の多い時間を過ごしました。
時を経て、〈座右の書〉は変わっていくかも知れないし、増えてもいいと思います。あるいは、一生をともにしたという本は、人生で多いほどいいのかも知れませんね。でも、あえて今、一冊。あなたの〈座右の書〉は何ですか?
※今回の「いわし」ご投稿は8月10日(月)正午で終了とさせて頂きます。
※今回のピックアップ賞は8月11日(火)に「イエはてな」にて発表いたします。
※〈イエはてな〉では、いわしへ投稿されたコメントと画像をダイアリーに転記しています。できましたら「投稿画像のwidth属性」を450px以内に指定していただけますようご協力をお願いいたします。
「今日の一枚“リブ・ラブ・スナップ”」
「雨雲通過中」
局地的な豪雨の多い今年の夏ですが、先だって雨雲が、雷を轟かせながら目の前を通過していきました。
「その1」で、右側はまだお天気、左側は雷雨(明るく見えるのは稲光のせいです)。そして1分後には辺りが真っ暗になるぐらいの大雨になりました。
「その2」は、20分後の様子。右側はまだ豪雨ですが、左側からはきれいな夕焼けが顔をのぞかせています。雨は、実はそんなに好きではないのですが、雨に洗われた空の深く沁み入る美しさを知っているので、嫌いになれません。
雨上がりの空が私の「ハッピーレイン」です。
画面の左から右へと雷雲が動いていくさまがこんなにはっきりと…。
そして何より、晴れてきた空にうっすら茜さす雨上がりの夕空が美しくて。
「雨に洗われた空の深く沁み入る美しさ」という言葉がぴったりの光景ですね!
−ハザマ−
»“リブ・ラブ・スナップ”今回のテーマはコチラから
募集期間中にご投稿頂いた方にもれなくはてなポイント300ptプレゼントいたします。
また、スナップ賞にはアマゾンギフト券3,000円分をプレゼントいたします。
いわしの回答(転記)
教会建築などの大きなステンドグラスがどう作られているのかは知りませんが、一般にホビークラフトとして作られるステンドグラスは、ハンダ付けで作っていきます。ガラスの周りを銅などのテープで縁取って、それをハンダでつないでいくわけです。ですから、ガラス工芸の一種でありながら、電子工作や板金工作の乗りで作っていけるのです。
ガラスを切るのも面白い作業です。昔のガラス切りは先端がダイヤで出来ていましたが、今は鋼製の小さなホイールを転がしながら切っていく物が主流です。切り方にはコツがあって、最初はなかなかうまくいきませんが、慣れると小気味よくチーとカラスの表面にキズが入っていき、そこからパキッと折り取れるようになります。ただし、万が一ガラスの破片が目に入ったりすると大変ですから、どんなに慣れても、必ず安全メガネは装着して作業します。
ほかにもザグザグという、その名の通り丸い鋼鉄の刃がでガラスを挟んで小さな出っ張りなどを囓り取る道具もあります。
あとはルーターや砥石などで縁をきれいに成型し、銅テープで縁取りしたら、ハンダを盛ってつないでいく作業に入ります。こちとら電子工作なら子供のころからやっていますから、ハンダゴテならお手の物。ガラスと金属の異種の素材が融合し合って、いにしえの錬金術師になった気分がしてきます。
ネットで検索すると色々参考になるサイトが見つかります。面白いですから、一度やってみてください。素材の価格がちょっと高いかもしれませんが、見切り品のガラスの半端物などが見つかると、安く作れると思います。
若い頃、海外の国々を「さながら」放浪していた私にとってステンドグラスの文化がとても気に入っていました。
ステンドグラスは日本にあればきっと太陽の光、雨の曇りの日にもガラスの美しさを感じることができていいな。
芸術品としてのステンドグラスを長持ちさせるためには、建物を長持ちさせなければならないとも感じました。
そこで、この時期オススメなのは、栃木県那須の那須ステンドグラス美術館。日本では協会以外にはなかなか馴染みのないステンドグラス。
そのステンドグラスを一同会しているので、見比べたりするのにもってこいの場所。
避暑地としても観光客の多い、ステンドグラス美術館!ぜひ、この夏は訪れてみることをオススメします。
自分で作った料理はおいしいと感じます。なので、自分で料理を作ることも大切なのではないかと思います。学校の調理実習で作った料理は、おいしくて家でもよく作りました。
家族に食べてもらえるのもまたうれしいことです。
プロでないと、設備や材料がないと、作れない料理もあります。
ですが、自分で家で作るからこそ、自由に作れる利点がありますね。
自分の好みに味付けなどもいじれる点がいいです。
実験もかねて、ちょっと独特のものを試したりも出来ますし。
数年前の3月、嫁いだ娘と滋賀県・長浜へ旅をした折、その娘が記念(私の誕生月でもあり)に…とプレゼントしてくれたのが、このガラスのお雛さま。
毎年、年が明けるとともに雛を探し求め、コレクションをしているのを知っている娘からの観光先でのプレゼントに、少しウルルときてしまいました。
50点ばかり集めた中で、このガラスのお雛様は、思い出とともにキラキラ輝いています。
“ 吾子求め くれし鄙の 湖北旅 ”
以前、家族のスペシャルデーがテーマだったときに、こんなことを書かせていただきました。
古代人は稲が実ると初穂を抜いて、それを寝具の中に入れて、冬至まで我が子のように毎晩一緒に寝て過ごしたんだそうです。それを冬至の日に臼で搗いて白米にして、新しく熾した火で炊きあげて神様にお供えしたんだそうです。宮中には新嘗祭という行事がありますが、元々はこうして炊かれた特別な冬至粥のことを新嘗と呼んでいたみたいです。
そして「新嘗祭の日に」というテーマが掲げられた“リブ・ラブ・サプリ〜SEASON” #022では、新嘗祭という収穫感謝の日の意義が深く語らわれました。
■ 提案!国際化時代の私たちの新嘗祭! SweetJellyさん
http://q.hatena.ne.jp/1227070380/192777/#i192777
■ 新嘗祭には新米で五平餅を作る vivisanさん
http://q.hatena.ne.jp/1227070380/192844/#i192844
■ 大豆でイエ新嘗祭 Oreganoさん
http://q.hatena.ne.jp/1227070380/192870/#i192870
■ 五穀粥を炊いてみました♪ TinkerBellさん
http://q.hatena.ne.jp/1227070380/193292/#i193292
■ 新嘗祭スピリッツ Yunyさん
http://q.hatena.ne.jp/1227070380/192886/#i192886
そのほかたくさんの新嘗祭に関する話題が集まりました。その中で、食への感謝、作物を自分で育ててみることの大切さ、食料自給の問題、世界の食糧事情、そのほかたくさんの語らいが広がっていきました。それらを全て含めて、イエはてなからの提案として、「イエ新嘗祭」を各家庭で行っていこうという呼びかけをしてみたらどうでしょう。
イエ新嘗祭の目的やあり方は、それぞれの家ごとに自由です。テーマも自由。そういう多様な「イエ新嘗祭」があちこちで話題になっていくことで、一つの型にはまらない多様な食育が進んで行くんじゃないかと思います。
もちろん食育は大人にも大切ですから、子供がいないご夫婦や一人暮らしの人たちも「イエ新嘗祭」。将来は「イエ新嘗祭」に合わせてご近所同士でお供えのお裾分けしあいっこなんかできると楽しくなりそうですね。対象が「五穀豊穣」から「あらゆる食にありがとう」に広がっていけば、お裾分けだけで、各家庭ですてきな新嘗パーティーにもなりそうです。そうして、食とともに地域のコミュニティにも感謝していく、食材だけでなく料理を作った人にも感謝していく、そんな食育推進の場にもなっていきます。
いつか、植物と一緒にイエを楽しむ「イエはてな・ガーデニングブック」なんていう本を出してもらって、その中に色んなイエ新嘗祭のルポを掲載していけたらすてきですね。
都会っ子のいとこの子供たちが来た時、畑や田んぼの近くを歩きました。余り田んぼを見たときないらしく初めは不安そうにきょろきょろしていましたが、慣れると「あれはなに?これはなに?」の質問攻めでした。
小さなことだけれど、大人になってから思い出してくれると嬉しいです。
初めて訪れた横浜中華街のどこかしこで見かけたのは、ガラスでできた唐辛子のストラップ。
お店の方から厄除けの縁起物だと聞いて、迷わず購入しました。
その時横浜を訪れていたのは観光のためではなく、数日後から大学生活を送る弟の引っ越しのため。
1ヶ月前には病気で入院もしていたのに、これからは500km以上も離れた慣れない土地で1人暮らしをするのだと思うと、縁起物に飛びつかずにはいられませんでした。
ガラスの唐辛子が落ちたり壊れたりすると持ち主の厄を肩代わりしたことになるんだそうですが、一緒に購入した私や母の唐辛子は未だ欠けひとつ見つかりません。一方の弟は、渡して1ヶ月もしないうちに一つ壊れていたそう。そのおかげかどうかはわかりませんが、健康面も特に心配なく、1人暮らしは順調そうです。
唐辛子のご利益こそ不明ではありますが、家族がお揃いのものを身につけ、互いの身を案じていられるのはうれしいことです。
今でも箸の持ち方が変だと良く言われます。
それもすごく変らしいです。
普通は、自分の口に料理を持ってくるときに手のひらが上?になりますが、
私の場合は親指が下(手の甲が上)になりるので、すごく目立ちますし、すぐにバレます。
努力をして、「少し変」程度の箸の持ち方は出来るようになりましたが、
時はすでに遅かったらしくて、細かいものを掴むのが難しくです。
また、気を抜いていると「すごく変」な持ち方に戻ってしまいます。
初対面の人と食事をするときには、凄く気にしてしまいますし、
女性や年配の人は、けっこう見ていますよね。
箸の持ち方、器の持ち方、食事のマナーなどは
小さいときから、基本は教えることは重要だと思います。
ちなみに、母親に何故「箸の持ち方」を正さなかったのか?を聞いたところ、
私以外の家族がみんな左利きだから、教えられなかった。と言っていました。
意味が分かりません。。。
別に変な持ち方をしてもいいです、箸くらい。
ナイフとフォークで食べる文化もあれば、手掴みで食べる文化もある。たまたま日本では箸を持つ文化だというだけのことだと思います。
箸の持ち方が悪いということを気に病む必要はないと思います。
ただ、特定の業界、特定の職業では正しい箸の持ち方が必要になりますよね。
たとえば和食を提供する外食産業。
たとえばテレビ、映画に映る俳優業。
あるいは子供にものを教えたり、面倒を見たりする教育産業。
こういう方面に進む人は、もしそれが必要ならば自分の意思で矯正を始めればいいと思うのです。
私には変な癖があって、仕事でパソコンに向かっている時、ふと気が付くと、パソコン用チェアーの上であぐらをかいていることがあります。
「畳みに座布団じゃないんだから」と思い直したりもしますが、何となく、癖になっているようで、気が付くとやっています。
あと、これは昔、学校の事務職員をやっていた時のことですけれど、事務室にパソコンがあって、その机と椅子を配置したスペースがとても狭くて、体格のいい人だと、足を斜めに投げ出して、体をひねってパソコンに向かっていることがありました。「そんな姿勢してると背骨曲がるんじゃない?」と心配したりもしましたが、足を小さく畳むより、その方が楽だったのかもしれません。
皆さんは、ありませんか?椅子の「変わった座り方の癖」。
「七宝焼き(しっぽうやき)」という独特なガラス状のアクセサリーがあります。
陶磁器に非常によく似ていますが違うんですよね。
七宝焼きの技法はいろいろありますが、簡単なモノは銅板の上に色付きのガラスの粉末などをのせて
デザインをして高温で焼き上げます。
「愛知県海部郡七宝町」で盛んですが、私の住む街の近くです。
中学の技術の実習でも作りました。名古屋周辺の学校なら どこもやるのではないでしょうか。
独特の光沢と色合いが魅力的です。よく表面を見ると細かなクラック(ヒビ)が入っていますが、
それも個性的でいいものです。
フェラーリの七宝焼きエンブレムも有名ですが、あれはガラス感が少ないですね。
私の高校の卒業祝いは、七宝焼きのネクタイピンでした。綺麗な艶のある藍色です。
今も大切に持っています。
女子は何をもらったんだろう?ペンダントかな?
小学校の給食のとき。午前中の授業が終わると給食の時間。給食が終わると昼休み兼掃除の時間でした。
でも食べるのが遅い人は、掃除の時間になっても、机を後ろに下げた状態で一人食べさせられていました。ベランダに出されて食べさせられていた人もいました。
今でもこういう教育はされているんでしょうか?親もうるさい時代、さすがに無くなりましたかね?
これは食事の時に いつも心掛けていることですが、当たり前のことなのです。
私が子供を育てる時は当然のようにしたいです。
要は「食べ物を粗末にしない」「必要な分だけしか料理しない」ことです。
今から箸をつけようとしている皿の料理を残さず食べられるのか自問自答します。
食べられないと思ったら手をつけません。
妥協して箸をつけたら食べ終えるまで許しません。(ぐらいの覚悟です。)
あれこれといろんな皿に手を出せば全て食べなくてはいけません、苦しくても。
そのようなことを繰り返していけば、無意味な食べ残しがなくなるはずです。
そして料理する方も加減がわかるはずです。
「必要な分を必要なだけ食べる」これ基本です。
きちんと残さずに食べるのは、基本として教えたいですね。
個人個人で頼んでいるうちはともかく、飲み会などで集団で注文になると、責任の所在が不明確になってか、残してしまいがちです。
足りなければ追加注文、多すぎる注文はしないように心がけたいですね。
私は給食を食べるのがものすごく遅くて、給食の時間が嫌いでした。残せない時はいつもみんな片付けを始めたなかでも食べていました。目の前で片付けられるというのは、食べている側からすると傷つくものです。みんなで一緒に食べて、みんなで一緒に片付けるという習慣を作ってほしかったように思います。
給食は全然食べられなかった子です。
嫌いな食べ物がある訳ではないけど、食が細くて誰よりも遅かったです。
だけどあの頃って食べられないと残されるんですよね〜
バスのお迎えの時間まで残されて、泣きながら食べていた事もありました。
今考えれば拷問ですよね。。。
小学校の頃は、体育座りをすることが非常に多かった記憶があります。朝礼などでの体育座りは苦痛でしたが、運動会のリレーの順番を待ったり、体育の時間で出番を待ったりと、わりとワクワクしながら体育すわりをすることもあったなあと思い出します。
ひとは他の生命を犠牲にして食べていかなければ生きていけません。
それは、ある意味避けては通れないのです。
そのことを身をもって実感したことがあるのです。
あれは、私が小学校の1,2年の頃だと記憶しています。
親戚の叔父が私たちを近くの漁港町へ連れて行ってくれた時の事です。
その漁港町は当然ながら、新鮮な魚介類があり、それを目当てに食事に来る人が大勢いました。
私達も一軒の食事宿へ入りました。
入り口を過ぎると、そこには大きな生け簀(いけす)や水槽があり、
数多くの魚介類が生きたまま泳いだりしています。
小さな水族館状態みたいで、私はワクワクしながら見入っていました。
すると叔父が私に「どれが一番好きだ?」と聞くのです。
その時は、その質問の意味がよくわかっていないのでした。
私は、一番大きくて元気のある魚を指さしました。
私の記憶では70cmぐらいの「はまち」です。
叔父は、すると店員に「あれ、頼むわ!」と言うのです。
私は、何言ってるの???何のこと???疑問だらけ・・・
ウチ、そんな大きな池も水槽も無いって!!!無理だって!!!
そんなことを漠然と思っていました。
すると、店員は大きな網をもってきて、私が指定した魚をすくい上げ、
床に放り投げるのです。
何やってるのこの人達???
次の瞬間、野球のバットぐらいのこん棒で魚の頭を思いっきり殴るのです。
そこから、記憶がありません。
当然、「活け造り」として出されたのは間違いありません。
私が食べたのか?わかりません。
ただ、あの時自分が指をささなかったら、あの魚は・・・。
そんな自責の念だけが残りました。
しばらくは、魚の刺身は食べれませんでした。
ただ、この経験は私の「食」への概念を変えた大きな出来事であることは間違いありません。
私達は普段、スーパーなどで調理、加工されたものしか見ていませんので
意識せずに平然と食べていられますが、生前の姿を想像したら、食べれないのが普通なのです。
魚も牛も豚も鳥も、その他の生き物たちも・・・・。
それを理解して感謝の意を持って食べたいものです。
飽食の時代には難しいことですが・・・・。
それは、私の小さな頃です、野球が好きな少年でしたが、当時は子供が沢山おりまして、草野球と言えどグラウンドが全く無い時代でした。せっかく早くグラウンドに行って場所を取っても、上級生が来て「どけ!」の一言で情けなく仲間と退散・・・。
仕方が無く近くの道、もっと小さな空き地でキャッチボールをするのですが、下手糞でボールがあらぬ方向へ・・・ガシャン!との音、勿論何が起きたかは経験上分ります、「こらっ!」っと言う怒鳴り声がする前に退散、大切なボールはとりに行くことも出来ず犠牲に・・・。
数年前我庭にて息子とのキャッチボール、もう忘れましたがどちらかが投げたボールが車庫の窓ガラスを直撃・・・当然あの懐かしい音!でもさすがに逃げず、しかし「あーっ!」と言う声をどちらとも無く上げました。女房に事情を話しガラス屋さんに電話、
約5000円の出費となりました。でも、このときはあぁ〜大人で良かった・・・と心底思いました、結果は女房の少しのお小言で丸く収まり一安心。女房はいまだ息子とキャッチボールする親子を微笑ましく感じてくれたようです、感謝!
都心だと空き地というのもさほどなく、車が行き交うのがやや穏やかな路上でも遊んだりしましたが、人数が集まると車庫で野球をしました。
車庫もさしては広くもなく、近所の塀の向こうに飛び込んでしまいます。
でも、窓ガラスを割ったことはなく、工場の鉄線の入ったガラスにひびを入れてしまった時には呼び鈴を押して謝りに行きました。その時は一緒にいた叔父が弁償してくれました。
逆に自分のうちのショーウィンドウを割られた事もあります。
自分の家にボールが飛び込んできて、部屋がガラスの破片だらけにされ、家族が怪我をするかもしれないわけですよね。
その相手が出てこなかった時には憤慨しました。
警察などはどうせとり合ってくれもしないでしょうが、器物破損で相手を探しだす位は必要に思います。
これは我々大人の責任が大きいのですが、最近はテレビを観ながら食事をするのが当たり前になっています。
例えば、ニュースで悲惨な報道を流しているのに対岸の火事のようにパクパクと食事をしているのは異常です。
私も棚の上に上げられません・・・
いつからこんな神経になってしまったのか・・・
食欲が無くなるからテレビを消してくれと言えない自分が情けないです。
せめて我々の子供達の世代には、こんな無神経な人間になって欲しく無いと願います。
願うだけでは何の解決にはなりませんね。
大きな問題ですね・・・
私が小さい頃からニュースで残酷な事件や
そういった内容を扱うドラマがテレビで流れていると
「食事中に見る番組じゃないね、まわそうか」と言って
自然にチャンネルを変えていたのを思い出しました。
こういう感覚も、小さい頃からの家庭環境が
培っていくのかもしれないですね。
母親に感謝しながら、私も自分の子供が出来た時に
教えると言うよりも、当り前に身につくような
家庭で生活していきたいなぁと思いました。