イエ・ルポ 2 #023
みなさまこんにちは、ハザマです。昨日、友人のおうちの庭からと〜ってもいい香りが運ばれてきました。今年もいっぱい実ったカリンとザクロの実です。便りには、「また美味しい果実酒を作って下さいね」。果実酒づくりはもちろんですが、まずはカリンの爽やかな香りを楽しませて頂こうと、葉付きのザクロと一緒に器に飾りました。カリンはマルメロともいうんですよね、この甘酸っぱい素敵な香りにぴったり。私の一番好きなザクロ酒も楽しみだな〜♪ さぁこの週末あたり、お礼に秋のお庭掃除に行かなきゃ。そしてまた友人と一緒に収穫したり、落ち葉でアロマテラピーするのも楽しみですw
さて、今日は“イエ・ルポ 2”#023のいわしをスタートします。今回のテーマは、「イエでうれし泣きしたあの日」。このお題から、みなさま思い出されるエピソードはありませんか? 家族と過ごしてきた日々のなかで、心のつながりを抱いてうれしかった思い出、うれし泣きした日の小さな物語…。ご両親や兄弟姉妹、おばあちゃま、おじいちゃまからもらった心、そのあったかいライフストーリーを聞かせて下さいませ。それぞれのイエにひっそりと息づく物語、今回もみなさまの語りを楽しみにお待ちしています。
家族だからこその心…イエでうれし泣きしたあの日
「家族だからこその心…イエでうれし泣きしたあの日」を教えて下さい
“ルポ・タイトル”
「十八の春、母からの手紙」by ハザマ
“ルポルタージュ”
それは私が大学進学ではじめて故郷を離れ、大阪の地で暮らしはじめることになった春でした。私ははじめての一人暮らしと学生生活に胸がふくらむばかり。けれどまったくの新生活で、何を準備すればいいのかいくばくかの不安もありました。そこで、学生アパートの部屋を整えることと、入学式への参列ということで、母が同行して三日ほど付き添ってくれることになったのです。
さぁイエを出発して大阪へ。その時はいつでも帰れる程のマチへ、少し長い旅に出るくらいの気持ちでいた気がします。当地に着くと、さっそく母と一緒にあれこれ生活に必要なものを揃えたり、大家さんや周りのお部屋にごあいさつしたりと慌しく過ごしました。そして入学式も無事終えて、その翌日に母は「頑張ってね」と手を振って帰って行きました。
バス停まで見送って部屋に戻り、もう少し片付けるかと、ベッド脇の棚を整理していると…枕元に何か白い封筒が。開けてみると、中にはテレホンカードとお守り、そして母からの手紙が入っていました。驚いて手紙をひらくと、そこにはほんの数行の短い言葉がありました。
「N子へ。一生懸命に学びなさい。自分の道を歩きなさい。人に好かれる人になりなさい。お守りは、ほんとうに困った時のために。母より」。
それを見るやいなや、知らずに張りつめていた気持ちが急にあふれ出て、涙と一緒にこぼれ落ちました。落ち着いてから読めるようにと前もって用意してくれていたのだろう手紙。普段はあまり思いを口に出さない、表現下手ともいえる母が一人考えて書いてくれたのだと思うと、その心のかぎりに余計涙があふれました。
お守りをそっとひらいてみると、「新幹線代」と書かれた包みが入っていました。巣立ちへの言葉とともに、困った時にはここにいるからという母の言葉なき心。共同の公衆電話しかないアパートとわかって、入れておいてくれたテレホンカード。そのすべてに胸がいっぱいになりながら、これからは一人立ちなんだと私はようやく知ったのでした。
今でもその手紙は大事に持っています。そして少し長い旅はその後京都、東京へと今も続き、あの日イエを出発した時が本当の巣立ちだったんだな、それを母はわかっていたんだなと今になって思います。そして私を巣立たせるために贈ってくれた手紙の、三つの言葉を、今も大切に抱きしめています。
※今回の「いわし」ご投稿は11月13日(木)正午で終了とさせて頂きます。
※今回のピックアップ賞は11月14日(金)に「イエはてな」にて発表いたします。
※〈イエはてな〉では、いわしへ投稿されたコメントと画像をダイアリーに転記しています。できましたら「投稿画像のwidth属性」を450px以内に指定していただけますようご協力をお願いいたします。
「今日の一枚“リブ・ラブ・スナップ”」
柄もいろいろで、まるでちょっとしたコレクションのようで楽しいw
たしかにこの1アイテムで菓子敷きから一筆箋までさまざまに活躍しますね!
「和」の伝統品って、本当に懐深いものが多いなぁってあらためて感じました。
−ハザマ−
»“リブ・ラブ・スナップ”今回のテーマはコチラから
募集期間中にご投稿頂いた方にもれなくはてなポイント300ptプレゼントいたします。
また、スナップ賞にはアマゾンギフト券3,000円分をプレゼントいたします。
いわしの回答(転記)
もう10年以上も前の話ですが、家内の実家に結婚を申し込みに行きました。
ぼくはどうも照れ臭いのが苦手で、家内と交際している間も、まあ電話を取り次いでもらうときにお母さんと2言3言、挨拶をしたことはありましたが、会うのはうまいこと避けていたわけです。
ですから結婚を申し込みに行くその当日まで、家内の両親と会ったことはなかったわけです。
いやあ、緊張しました。
家が近づいてくると、今日はもうやめて、また日を改めて、なんていう弱気な気持ちになったりもしたものです。
度胸を決めて家に入らせてもらうと、向こうも緊張しています。そりゃそうです。初対面の男が「お嬢さんをぼくにください」みたいなことを言いに来た、ということは家内からの事前の根回しというか、情報が届いていたわけですから。
普通に挨拶をして、食事時でもないのにビールとかつまみとか出してもらい、家内の妹とかも出てきて、それでも話はそれほど弾まず気まずい空気。
こうなったら、もう、早いとこ済ませてしまおうと、座布団から降りて、まあ実際になんと言ったか忘れましたけど「結婚させてください」とお願いしました。
一瞬の沈黙があって、まず家内のお母さんが涙を拭いて、それを見て家内もハンカチを出して。
お父さんは黙ったままで。
黙ったままなのは了承の合図だと勝手に解釈して、ぼくは逃げ出すように辞したのでした。
後から家内を通じてお父さんも認めてくれているとの話を聞き、ホッともしました。
結局、ぼくは泣きませんでしたが、あのときのお母さんと家内の涙は「うれし泣き」に数えてもいいんじゃないかなと思ってます。
子供の頃、買い物に行ったときに親とはぐれてしまい、1時間以上町の中を歩き回ったことがあります。
へとへとになって、なぜかこのまま死んでしまうんじゃないかと思ったら母親が見つけてくれました。
そのときは子供ながらにうれしいやら、怒られるやらで泣きましたね。
もう亡くなってしまいましたが、祖母は私が帰省する度に、「良く帰ってきたね」と大量の食事をこさえてくれたり、熱心に話しかけてくれていました。癌の治療中で相当に辛くても、その様子が変わらなくて、胸がいっぱいになり、病院の廊下で思わず泣いてしまいました。無償の愛情ってすごい!感謝感謝です。
子宮筋腫で、数日入院した母が無事に帰ってきたときは、本当にうれしかったです。
妹と母はちょっと泣いていました。もしかしたらがんかもしれない、というところから始まり、とってみるまでなんともいえない日々が続いて、ようやく手術、そして無事帰ってきてくれたときはほっとして私も泣いてしまいそうでした。
家族が元気なのが、一番幸せなことですよね。
中学、高校、大学と全て第一志望の学校に落ちていた私は、大学院だけは第一志望の研究室に入れるように勉強しました。途中の一年間、腎臓の病気で休学せざるを得なくなりましたが、そこでの問題意識も働いて、労働経済学のいい論文が書けました。合格も病気での経験と論文が活きていたと担当の教授に言われ、うれしかったです。そして、何よりも志望校に合格したとき母親が泣いて喜んでくれたのがうれしかったです。
人生初めての受験で高校に合格した日はうれしくて涙がでたのを覚えています。自分以上に母親が喜んでくれて涙していたときは幸せな気持ちになりもらい泣きしましたね。
県外へ就職した弟が勤めてその数年後、体調を崩して入院。
父はすぐさま飛行機に乗って弟を迎えにいき、地元へと連れ帰って自宅療養が始まりました。
久しぶりに対面した弟は、体は痩せこけて顔は青白く精神的にもズタボロになっており
本人が声を出そうとしても出ない状態に。
家族一団となって、○○君を助けよう! 父は家族に呼びかけ、それに私達は必死に答えました。
自殺の危険性がある、といって両親は日中夜間と交代で付き添って
姉も私もそれぞれ仕事と家事を済ませて、実家へと通う日々が続きました。
私は自分を責めていました。弟が仕事を辞めたいと相談されたときに当時は就職難で地元に戻っても就職口はないし最低3年は石にかじりついて頑張りなさい、と言ったのです。
弟はそれから5年間勤めました。こんな姿になってしまったのは自分のせいではないのか。
自分を責めずにはいられませんでした。
朝から夕方まで働いた後、家に戻り洗濯と掃除と夕飯の支度を済ませて実家へ向かう途中に
弟が何か喜ぶものをと 差し入れを持って自宅へ。
食も細くなってあまり食べない、話さない弟。
箸を持てず、スプーンで口元へ運んでも口を開けてくれなかったのに
手に持ってパンを食べてくれた。
それだけで驚いて嬉しくて涙がにじみました。ぱっとみると母も少し泣いているように見えました。
”お姉ちゃん、おいしい。ありがとう”、と片言で繰り返すのです。
その場にいた両親も、私もそれを聞いて大喜び。
”また買ってくるね。”
久しぶりに会話が成立したことを噛みしめていました。
あの時は本当に嬉しかった。
あれから月日は流れて弟はすっかり元気を取り戻しています。
朝の5時からほぼ毎日釣りに出掛けるのが彼の日課ですっかり日焼けして
釣りバカな日記をブログに書いて友達と交流しているみたいです。
そんな姿を、いまとても喜んでいます。
先日、特別支援学級のお手伝いをさせてもらってる小学校の運動会でうれし泣きしました。そのこは六年生で最後の運動会。でも、じっとするのが苦手なので、組み体操の練習が嫌で嫌でずっと泣きながら練習していました。当日、私はその子の付き添い担当でした。先生は「たぶんずっと席に座れないと思うんで教室と行ったりきたりになると思います」と言ってました。でも、リレーなどもちゃんと走ってそのこが走っているとき、学校中で○○ちゃんコールが始まって・・そこでも感動してしまいました。リレー中もにこにこしながら走ってて帰ってきてからも、嬉しくてずっと一緒に走ったり踊ったりしていました。奇跡的に一日席ですごすことができました。そして、ラストの組体操。祈る私の前で、そのこは、ニコニコしながら組み体操をやっていました。もちろん先生がついていて、してることは簡単なことなんだけど、そのこが笑顔でやっているってゆうことがとても嬉しくて嬉しくて涙をぼろぼろ流しながら見ました。本当にキセキのようでした。去年は途中で泣き出して座り込んで大変だったのに。
先生の努力が伝わったんでしょうか?席に戻ってそのこに「すごいなあ・・」よかったよって続けようとしたらまた泣けて言葉が出ませんでした。
昔、実家の愛犬が喉に痰を詰まらせてしまい、呼吸困難になって意識不明になりました。
すぐ動物病院に連れて行き、獣医さんに応急処置をしてもらい、何とか痰は取り除けたのですが、長い時間呼吸が出来なかったために危険な状態だと告げられました。
愛犬は動物病院に入院して、私は実家に戻り愛犬との想い出などを思い返しつつ、もう愛犬がこの世からいなくなってしまうのではと不安が脳裏を掠めました。
次の日、動物病院に行き、受付の女性に愛犬の安否を尋ねると、愛犬は回復し大丈夫だということでした。無事を聞いて安堵し、嬉し涙がとまりませんでした。
愛犬を助けて下さった動物病院の皆さんには今でも感謝でいっぱいです。
まだその時期がきていませんが、「初めて父親と酒を酌み交わした日」に対抗しまして。
親としては、嬉しいような、照れくさいような、その親子関係なりの複雑な気持ちがしそうですね。先日カイシャで雑談していまして、「成人したらすぐにでも一緒に飲みに行きたい!」派と、「息子なんか酒に誘う気もないし誘っても付き合わないに決まってる!(実は照れくさい?)」派がいたのが可笑しかったです。
3年ちょっと前の出来事だったでしょうか。もういい大人の私が、こともあろうに父親と大げんかをしてしまったんです。きっかけは些細なことでしたが、ちょっとした言葉のあやが感情の行き違いを増幅して、ついに私は切れて、とても口汚く父親を罵ってしまいました。もちろん父も負けてはいません。お互い有り得ないくらいに互いを罵倒し合って、完全に感情対立が硬直化してしまいました。
「もうテメェなんぞ家族とは思わない」と私が言うと、父も「同じ言葉を返してやる」。これで完全に和解の糸口はなくなりました。父はプイと私に背を向けて、扉に八つ当たりするかのように激しい音を立てて、部屋を出て行きました。
おかしなもので、こういうケンカの時には、ケンカして激高している自分とは別に、こんなことを言ったら取り返しが付かなくなるぞとか、謝るなら今しかないぞといった冷静な状況判断をしている自分がいるんですよね。そのもう一人の自分が、もう手遅れだと判定を下してしまいました。私はガックリと力が抜けた気がしました。その日はまだそんなに遅い時間ではありませんでしたが、自室に籠もって出て行きませんでした。
翌日、わざと父と時間をずらして朝食を済ませ、無言で家を出ていきました。帰宅も、父と顔を合わせるのを避けて、わざと遅くに帰りました。そんな日がしばらく続きました。
こうした日々が積み重なっていくと、どんどん和解のチャンスが消えていきます。私たち親子はこのまま家庭内他人になっていくのかという予感が、だんだん濃厚になってきました。もう大人なんだし、このまま家を出て独立しようかとも考えましたが、そんなことを考え続けている間に、幼いころに父と遊んだ楽しい思い出がたくさん蘇ってきて、たまらなくなってきてしまいました。たとえ今後独立するにしても、父と仲直りしてからにしたい。そういう気持ちがどんどん強くなっていきました。でも、妙な意地が邪魔をして、自分から謝るということが出来ません。
そんなことを悶々と考えながら家に帰り着きました。玄関が見えてきます。私が小さかったころ、父はこのドアを元気良く開けて帰ってきては、おみやげがあるぞと私を呼んでくれました。あのころの私は、おみやげより、それを買ってきてくれる父の愛情が嬉しかったんです。おみやげを手渡してくれる父は、全身で私が好きだと言ってくれているようでした。
あのころに帰りたいと、本当に心からそう思いながらドアのノブに手を掛けると…、背後に人の気配を感じたんです。振り返ってみると、父が立っていました。どうやら私の帰りを待って、ずっと外にいてくれたらしいのです。父は、振り返った私の目の前に紙袋を差し出して、照れくさそうに「おみやげがあるぞ」と言ってくれやがりました!
この瞬間、私の涙腺は崩壊しました。なんという父。まるで私の心を読んだかのような…。あぁ、この人は本当に私の父なのだ、言葉で語る前から私の全てを知り尽くしている世界でただ一人の父親なのだ、その愛情は私が大人になってからも、どこも変わっていなかったのだ…と、そのことを知って、感激に涙が溢れました。
ちょっと普通の「うれし涙」とはニュアンスが違うかもしれませんが、私は「うれし涙」というテーマで、咄嗟にこのことを思い出してしまいました。
小学生の時に毎年1回学校でマラソン大会がありました。
私は運動が苦手でいつも47人中30位前後とかでした。
毎回マラソン大会が終わるたび、自分の不甲斐なさに悔しくて悔しくて泣きたくなりました。
無謀にも小学6年生最後のマラソン大会では絶対10位以内に入ってやると決心し本番の2ヶ月前から毎日夜1人で走りました。
毎日走っているとだんだん疲れなくなっていき、本番の1週間前くらいの時には自分がマラソン大会で活躍している姿を妄想してたくらいです。
いざマラソン大会本番の日、朝からドキドキでした。
スタートラインに立ってスタートの合図が鳴らされるまでの間、その場から逃げ出したいくらいの緊張でした。
スタートし先頭集団に必死でついていき、必死に走りました。
途中足が重くなり何度もあきらめようとしたんですが、練習して頑張ったのにこんなことくらいで負けてたまるかの一心で最後まで走りぬきました。
結果は9位でした。
無理をしたのか喉が凄いカラカラで足の震えが止まりませんでした。9位のカードをもらい、それを見つめていたら嬉しさがこみ上げてきて泣きそうになりました。
家に帰り母親に結果を報告すると凄い喜んでくれました。
自分の部屋で9位のカードを見つめながら練習を頑張った事など色々想い出していたら涙が溢れてきました。
ある夜の悪夢。
それは家族が大口論の末、私以外の親、兄弟が家を飛び出して出て行ってしまうという悪夢です。
残された私はまだ小学生なのでどうすれば良いのかわからずに泣いているのです。
1日たっても誰も帰ってこず、私は誰か帰って来てと祈るだけ。
そして呼び鈴が鳴り家族の誰かが帰ってきたのだと思い走って玄関に行きドアを開けるとフランケンシュタインみたいな大柄のおじさんが立っていて大きな奇声を上げたので恐怖のあまり逃げようとした時に目が覚めました。
酷い悪夢だったので家に本当に家族がいるか不安になってしまい、急いでリビングに行くと、母親が朝飯の準備をしていて、父親が新聞を読んでいるいつもどおりの朝でした。
母親からおはようと言われた時に嬉しさのあまり半泣き状態で震えた声でおはようと返事したのを憶えています。
家族がいるのはあたりまえだと思ってたのが悪夢によって家族がいる事のありがたみを再認識させてくれました。
小学生か中学生の頃、学校で辛いことがあって、でも耐えていたのに、家に帰って母の顔を見たとたん号泣した記憶があります。うれし泣きっていうより、ほっとしたのでしょうが。
いじめに あっていたとき。
家に帰って、母の顔を見ると、心が休まり、唯一の癒しでした
でも、母の前では泣きませんでした。
泣くのは一人になったときだけ。
心配させたくなかった。
二十歳まで健康に育ってくれたこと、しっかりとした人間に育ったことなど感慨深げに話されて、お酒で感情が高ぶったのもあってか、部屋に戻った後にぐっときました。
自分の方からも当然、感謝の気持ちを伝えましたが、大人になってから両親の偉大さや苦労が本当にわかるようになってくると思います。
その日、突然大家さんが工事を発注してしまいました。
住んでいるアパートの屋根が古くなったとかで、屋根を剥がして張り替え工事。
トタン葺きの屋根を剥がす音がもの凄く、朔(猫)が外に逃げ出してしまいました。
元々、時々外に出る猫ではあったけれど、外出してもせいぜい数十分もすれば帰ってきます。
ところがその日は、1時間経っても2時間経っても帰ってきません。
半径50mの近所は路地までくまなく探しました。
半径200mくらいまでは、自転車を使って探しました。
名前を呼びました。何度も繰り返し。
平日の昼間に何事かと思った人もいたかもしれないけれど、そんなことは関係ありません。
仕事も中断して猫を探しました。
でも、見つかりません。猫の気配すらありませんでした。
ついに私は、どこからともなく「うめえん」という幻聴まで聞こえるようになってきた、と思い始めていたところ、どこからともなく朔が現れました。
屋根の工事は昼休みに入っていました。
「どこへ行っていただよぉ、心配しただよぉ!」と、朔を抱きしめました。
その時、少しうれし涙がにじんだような気がします。
猫は大きな音が嫌い(怖くて)環境の変化に敏感ですもんね、朔ちゃんもそれでびっくりして逃げ出してしまったんだと思います。
長い時間外にいたことの無い朔ちゃんがそんなたくさんの時間外にいて、危ないことに合わなかったみたいで、無事に戻ってきてよかったです!
朔ちゃんも無事におうちに帰ってこれて、iijimanさんに抱きしめてもらって、とても安心できたと思います^^
私の家は元はとても手狭な作りでした。それを増築しようという計画が持ち上がりましたが、それは大変な資金のかかることでした。当時私はまだ子どもでしたのでその時の具体的な苦労の中身は知らされませんでしたが、父も母もほぼ新築のマイホームを目指すのと同じくらいの努力でお金を貯めていたと思います。
私には、小遣いくらい世間並みに保証するよ、勉強に使いたい本は別枠で買ってやるよと言ってもらいましたが、父母は子どもに見せない所で、節約に節約を重ねていました。
そしていよいよ工事に取りかかる直前まで来ました。父と母は毎晩のように方眼紙を取り出しては、ああでもないこうでもないと間取りの検討をしていました。父はドアノブから照明器具に至るまでのカタログを色々集めまくってきましたし、母は古本屋から一年分の住宅雑誌を買い込んできて、生活の動線がどうの、理想のキッチンはこうのと研究に余念がありませんでした。
そんな下準備の末に取りかかった増築工事。わが家の工事は残す部分に住みながら新たな部分を継ぎ足していくやり方で行われましたので、住んでいる者の目から、工事の様子が手に取るようにわかります。父は毎晩仕事が終わって帰ってくると、工事中の部分を丹念に見て回っていました。
そんな強い思い入れの後に迎えた完成の日。真新しい増築部分の1階に作られた居間で、家族揃っての完成記念パーティーが行われました。寿司の出前が取られましたが、なんと父と私の分は二人前です。
「一世一代の家作りの記念日だから、普段やらないことをして思い出に刻みたいんだよ」
とはその時の父の弁です。
寿司が届き、みんなでおめでとうと乾杯して食べ始めましたが、まず最初に母が泣き出しました。続いて父が目をつぶって静かに涙を流しました。夢を形にすることが出来た感激。途方もない計画をやり遂げた喜び。そんな感情が、子どもだった私にも伝わってきました。この家には隅々にまで父と母の願いが反映されているんだ、毎晩方眼紙に向かって夢を語り合っていた二人の心の結晶がこの家なんだと思うと、私も熱い物が込み上げてきました。あとはみんな泣いてしまって、とても食事どころではありませんでした。もう感激で胸がいっぱいで、二人前もの寿司が喉を通る状態ではありません。全て食べ尽くすまでに何時間かかったでしょうか。うれし泣きというと、まずこの日のことが思い出されます。
私はしばらく入院生活を送っていました。
ちょっとややこしい病気で、もしかしたらずっと入院したままかもしれないと思われていたんです。
だからその時、父母はとても辛い思いをしていたと思います。
母なんか、こらえきれなくて私の前で泣いちゃって…。
私は自分の病気のことより、そんなふうに両親の重荷になってしまっていることの方が辛かったです。
早く治って元気になりたいというより、治らないなら治らないでもいいから、
父母の負担になりたくないというのがその当時の私の願いでした。
だから、このまま治る見込みがないのならいっそのこと…、
みたいに口を滑らせてしまったことがあるんです。
その時は、すごく激しく母に泣かれてしまいました。
私も、そういう考え方こそ両親の負担になってしまうんだと気付かされて、
それからは、この父母のためにも何としても元気になりたいと思う気持ちに切り替えました。
そしてそれから、ちょっと長い入院生活が続きましたが、
治療の甲斐あって、無事退院できる日を迎えました。
その日は父も仕事を早く切り上げて帰ってきてくれました。
家に入ると、夢にまで見た家の姿と、懐かしい家の匂い。
何もかも、入院する前と同じです。
父も母も私が入院している間、家の様子を変えないようにと、
それこそスリッパの置き方一つにまで気を配っていてくれたそうです。
そしてキッチンからはシチューの香り。
そう、入院前夜の食事が、クリームシチューだったんです。
さらにお帰りと家で待ってくれていた父が着ていたのは、入院した日と同じ服。
もう季節外れなのに…、です。
こんなふうに、何もかも入院前と同じにして迎えたいという、
父と母の愛情いっぱいの心遣いに感激して、私は泣きました。
もう、涙が止まりませんでした。
退院できた喜びというより、この父と母の所に帰ってこられた喜び。
人って本当に感激すると涙が出るんだって、自分で自分にびっくりするくらい泣きました。
この日のことを思い出すと、また涙が出てしまいそうになります。
ささいなことで喧嘩になって険悪な感じになって…好きで結婚した2人なのに辛くなってしまうときがあります。でもその喧嘩が大変だったときほど、仲直りできたときは嬉しくて、うれし泣き。大事に思ってくれていたのだな、とお互いの気持ちが繋がったときは悲しさと嬉しさの入り交じった不思議な気分です。