イエ・ルポ #029 あの時があったからこそ!の家族ケンカの思い出
こんにちは、ハザマです。湿度の高い暑い日が多くなってきましたね。みなさん食欲が落ちたりしていませんか?私は少々減退気味。それで最近よく昼食にいただくのが、バンバンジー&野菜のマリネサラダとめかぶのぶっかけうどん。酸っぱいサラダとめかぶがさっぱりしていて、ツルツルとお箸が進みます。夏は冷たい麺類に助けられますね。これからの季節、色々と美味しい組み合わせを考えてみたいです。
さて、今日は“イエ・ルポ”#029のスタートです。テーマは「あの時があったからこそ!の家族ケンカの思い出」。今回もすぐに思い出せるかな?というテーマですが、ぜひこれまでの家族や兄弟との日々を振り返ってみて下さい。あんなことあったな、と今では微笑ましく思い出されるエピソードがありませんか?みなさまの家族の物語、楽しみにお待ちしてます!
#029 お題「あの時があったからこそ!の家族ケンカの思い出」を教えて下さい
みなさん家族とケンカってよくしますか?私は考えてみるとあまりした記憶がなくて、思い出すのは弟とお菓子やTVチャンネルの取り合いなんていう子供の頃の些細な兄弟ケンカがほとんど。父や母、おばあちゃんとは、怒られて泣いたりスネたりしたことが数知れずです。ご結婚されている方は夫婦ケンカっていうのはよくあるかも?
これまでにもここでケンカのお話はいくつか出てきたことがあって、私は“イエ・ルポ”#008の「両親の離婚の危機に出た咄嗟の一言」という子供である自分がかすがいになった話や、#010では「母とケンカしたキッチン」で、投げたお皿にお母様が「お皿には罪がない!」と言われて、後でごめんなさいと書いた紙と一緒に割れたお皿をきれいな箱に入れて今でも取ってある、というエピソードが心に残っています。
家族だからこそケンカしても許し合えるし、ケンカって、した後に反省したり、相手の気持ちを考えてみたり、結果として学びになることも多いですよね。あまりにもきっかけが些細過ぎて、後で大笑いの語り草になることもありますけど(笑)。
みなさんはどんな出来事を思い出されるでしょうか。子供の頃に怒られて家を飛び出して…なんていう小さな思い出もぜひ聞かせて下さいね!
「ボクとネズミさんごめんなさい、の思い出」
あれは私が小学5年生、弟が2年生くらいだった時のことだと思います。その当時うちには猫が一匹いました。なのにある日突然、弟がネズミをもらってきたと言って、カゴに一匹入れて持って帰ってきたのです。父母も私も、猫がいるのにネズミなんて!返してきなさい!と怒りました。弟は猫にネズミがいけないというのがよくわかっていなくて、これは僕のネズミだから返したくない、いけないのなら自分の部屋で飼う、と言って聞きませんでした。そして数日の間、部屋でお水やエサをあげて大切にしていました。
ところが、1週間とたたないうちに、やはり猫が弟の部屋に入ってしまい、気がつくとネズミさんは猫のツメにやられて死んでしまっていました。唖然とする弟に、私は言ってしまったのです。「だから言ったでしょ、ネズミが死んじゃったのはボクのせいだからね!」。…弟はその晩、ネズミのカゴと一緒に部屋から出てこず、一人で泣いていました。私も何だか胸がチクチクしてきて、自分が心ないことを言ってしまったと気づきました。弟はきっと、ネズミが死んでしまった悲しみだけでなく、自分が猫のいる家に連れて来てしまったから、言われた通りになってしまった、とそのことで何も言わずに泣いていたのです。それがわかって、ネズミを大事に育てようとしていた弟になんてヒドイことを言ってしまったんだろうと私も辛くなりました…が、その時は弟に謝れませんでした。弟がネズミさんを土に埋めに行く時も、一緒に行けませんでした。逆に意地を張ってしまって。心の中で、ボクとネズミさんごめんなさい、と言いながら、黙っていました。
そのことをちょっぴり謝ったのはもう大人になってから、実家でその話題が出た時。笑いながら聞いていた弟に、「私もあんなこと言ってヒドかったよねー」としか言えない私!まったくどこまで意地っ張りなんだと今でも思いつつ、人の心の痛みを教えてくれた弟にごめんなさい!ありがとう。たぶん、全部言わなくてもわかってくれてると思うんだけどな…とまだ甘えてる悪い姉なのでした!
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※今回の「いわし」ご投稿は7月5日(木)正午で終了とさせて頂きます。
いわしの回答(転記)
うちの母親の名台詞でした。
またそれかよ!っていって「○○ちゃんちの子に生まれたかったぁ?」「○○ちゃんちはいいなぁ…。うちの親はドケチだ!」ってばっかり言うたびに
「そんなに嫌ならうちから出ていきなさい!」といわれて追い出されてました。そんなときは母親の大事に育ててる花を折ったり、自転車の鍵を隠したりして嫌がらせしていました。今思えばなんて子だったんだろう…。
うちなんか親の言い方がすごいんですよ。○○ちゃんもこれ買ってもらったよというと、たった一言「わが家にそういう物は必要ありません!」。そりゃそうですよね。子供が欲しがる物なんて、たいてい家では必要のない物ばかりです。もう言い返すこともできなくて、やっと言えるのは「こんな家出てってやる!」。
はいはい、行ってらっしゃいと追い出されて、ちっちゃな子供がとぼとぼと。かわいそうな子供時代の私(笑)。
でも今思うと、私が子供のころは、うち、けっして豊かじゃなかったんです。両親ともすごく節約していました。でも食べる物や着る物はどんな家にも負けないものを与えてくれていました。学校での持ち物で恥をかいたことも一度もありませんでした。自転車も友だちに自慢できるピカピカのを買ってもらいました。
そういうところに気を使ってくれていた親に、ずいぶん悪態をついてきたものです。今は、余計な物にお金を使わなかった代わりに、必要なものをしっかり与えてくれた親に感謝しています。
幼い頃は子ども同士でよくやったような感じがします。
今、子どものケンカを見てみると、そんなに長い時間取っ組み合いをしてるという感じではありません。でも、実際にやってた頃は凄く長い時間に感じていたように思います。
当然、大人になってからは取っ組み合いのケンカはしません。昔の体験が今はいい思い出になってるから!?
夫婦喧嘩や、きょうだい喧嘩は誰でもするでしょうが、
大事なのは、やはり「ごめんね」の一言が言えるか言えないかでしょうね。
お互いに、自分が正しいと思っているからなかなか難しいですよね。
もう、そこで先に「ごめんね」といえる人が、1番偉い!
そういう私は、なかなか「ごめんね」がいえません(笑)
もう何が原因かは全く憶えていませんが、ケンカした拍子にガラス戸を閉めて弟を家の外に閉め出し、「ばーかばーかここまで来てみろ」系の事を言ったんです(今思えば本当に自分が馬鹿!)。そしたらアタマに血が上った弟が「行ってやるぞこの野郎!」とガラス戸に突進!ガラス戸を蹴破ってしまいました。そして短パンを履いていた弟のふくらはぎに長ーい裂傷が!
足のけがって、ものすごく出血するんです。文字通り血の海と化した床を見て産まれて初めて「血の気が引く」という感覚を味わいました。
びっくりして泣くのも忘れた弟の足をおぼつかない手つきで止血(のまねごと)して、両親の職場に電話して緊急を訴え、救急車を呼んで、応急処置をしてもらった後で、ようやく涙が込み上げてきて、弟と二人でおんおん泣きました。病院に駆けつけた母親に生涯で一番痛い「げんこ」を食らい、帰ってからは父親にもーのすごい説教され、それ以来「加減する」という事を憶えました。
今でもたまに弟に足の傷跡を見せられて「あのときのお前はマジでひどかった!」と言われます。一生続くゆすりのネタを握られた気分です(笑)。
ガラスにダイブしました。
確か追っかけっこしていてブレーキが効かずにそのまま玄関のあがりかまちのところのガラス戸に。
しかしガラスはこっぱみじんでしたがどういうタイミングか弟はかすり傷ひとつなし。弟はというとガラスの手前に呆然と立っていたので、うまい具合にガラスに弾かれた形になったんでしょう。
あとで親父には二人とも思いっきり怒られましたが…。
喧嘩をしても何のメリットも得られないので、我が家では口論を行う際、誰の主張が一番合理性が高いかを競い合いながらお互い評価しあうよう、父がそういう環境をつくってくれていました。要するに口論に参加する為には、日々勉学をする必要性がありますので必ず自分の為に将来役に立ちます。
そもそも、喧嘩はあまり好ましい行動とは言いがたいので、喧嘩というよりもむしろ、どのような意見の妥協点を見つけられるかどうかで持論公論することはあります。
ということでした。
日本のことわざ?か何かでも怒るが負けともいいますから。
ケンカしたんだし、またケンカになるんだろうから少しの間、離れてれば?と思うんです。なんかよく分からないですけど、くっついて一緒にいる、なんてことが多いですよね。こんな感じだから家族って一緒に居れるんでしょうね。
子供の頃、両親が夫婦喧嘩をして、
母が「もう、お父さんとは別れる」と言い出しました。
私は母についていっていいのか、このまま残ればいいのか、
真剣に考えました。
翌日、母に「お母さんについていくよ」と言うと、
母は全然、喧嘩のことは忘れていました。
結局、なあ?んだ。で済んだんですけど、
結構、子供の自分は傷ついたので、親は気をつけなくちゃな・・・と、今でも思います。
親の決めセリフでした。
年子なのですが、子どもの頃って1歳でも違うと体格とかだいぶ違ったりしますよね。親としては当然のせりふなんでしょうね。ケーキなんかも大きさでケンカしても結局、大きいカットを譲らされたりしましたよ。
こんな時に大人みたいに考えられたら「体が大きければ食べ物も沢山必要だろう」と反論できたでしょうけどね!
今思えば、何でそんなことで毎日のようにケンカしていたのか、恥ずかしいのですが。
子供の頃に、自分の部屋にTVがあった友達がいて、すごくうらやましく思っていました。
昔は部屋ごとにテレビがあるなんて考えられませんでした。
いまでは携帯でもテレビは見れますし、ずいぶんと時代が変わりましたね。
父は不思議さんなので放任、めったに怒らないけど沸点を越えると極端。
母は普段放任な父の代わり、父役と母役をやっていっぱいいっぱい。
とにかく、20歳を過ぎても「逆らう子はダメ」だったので、
兄や姉がたまーにキレて大騒ぎ。
末っ子の私がなだめたり、全員の弁護したりしてたので、
モメごとを作らないように大人しくしてたけど、結局病んじゃいました。
結婚してハネが生えたように自由な感覚を味わい、いろんなことが見えてきて、心理士によるカウンセリングとかも受けて、
「おかあさん、結局、大変だけど反抗期とかケンカって大事みたいだよ・・・」と話してます。
明石家さんまさんが
「反抗期は人間の通る道、いつか終わるもの、
わかってるけど面倒くさいよねー」と言ってたのに感心しました。
病気になったおかげで、母に本音を話せるようになって
あー、今は全てのことに感謝。
特に、子供が全員結婚してホッと責任を負えた気分になった母は
今ではそういう話に耳を傾けてくれます。
ちなみに父ちゃんも不器用だけど、心配はしてくれてますよ。
私は中学生のころ、進路選択ですごく不安定になっていた時がありました。担任の先生が勧めてくれる進学先と自分が行きたい所とがかけ離れすぎていて、あれこれ考えているうちに、いったい自分は何を求めて受験するのかもわからなくなってしまいました。ストレスが貯まって、私は家の中でまったくしゃべらなくなりました。
家の中でも両親が私の進路についてあれこれ話しかけてきますが、私にはそれが辛く、しまいに夕食時に爆発して、お皿をひっくり返して激怒してしまいました。
もちろんそんなことをすれば親は怒ります。でもうちの親は「こら!」と怒るタイプではなく、こういう時でもいかにも冷静に「物に当たるのは良くない」とかさとすタイプなので、それがさらにしゃくにさわって、私は椅子を蹴ってひっくり返したりして、だんだん歯止めがきかなくなっていきました。
その夜のおかずに、コンニャクのお煮染めがありました。私はコンニャクを掴んで父に投げつけました。父はそれでも冷静に座ったままなので、さらに腹を立てた私は、もう一掴みコンニャクを取って、無関係な弟にも投げつけました。弟のおでこにコンニャクが当たって、お茶碗を持っていた弟の動きが止まりました。
弟がガタンと大きな音をたてて椅子から立ち上がりました。私は一瞬、殴られると思いました。弟も皿に手を突っ込んで、手の平一杯にお煮染めを握りました。ところが弟は私の方を見てにっこり笑って、気持ちはわかった、手伝うよと言って、握ったお煮染めを壁に向かって投げつけました。私はびっくりしました。弟はもう一掴みお皿からお煮染めを取って、反対側の壁にも投げつけました。
それを見た父が、よし、父さんも手伝うぞと言いながら、隣のお皿をぶちまけました。ほら、母さんも一緒にと言いながらお茶碗のご飯を握って天井に向けてばら撒き始めました。
私はあっけにとられて、このPTAが見たら抗議の電話が殺到しそうなどたばたコントのような様子を見ていました。
そして夕食がめちゃくちゃになったところで母がお茶をいれてくれて、これは熱いからひっくり返しちゃだめよと言ってお掃除を始めました。父も弟も一緒に掃除を始めました。私がひっくり返ったお皿を戻そうとすると弟が、姉ちゃんはお茶を飲んでればいいから、これからは気のすむまで暴れていいから、俺も付き合うからと言ってくれました。父も、その通りだな、人間誰でも暴れたい時はある、そういう時は一緒に暴れようと言ってくれました。
それで一気に心が晴れて、この家から通うならどんな学校でもいいやと思えるようになりました。学校よりもここの家が私に色んなことを教えてくれると思えたんだと思います。
その年の暮れに大掃除をしたら、天井の蛍光灯にこびりついたご飯粒を発見しました。あの時のだと思って、すごく懐かしく感じました。ひからびたご飯粒を取って紙に包んで、受験のお守りにしました。おかげで最初に希望していた学校とはちがうところでしたが、いい高校に進学できました。
嫁にも行かずに、口出しばかりする小姑とのバトルの日々がありました。働きもせず、ダラダラと両親の脛をかじり、私達夫婦にも無心をするどうしようもない小姑。早く、結婚でもして一人前になって!
世間一般には、これが家族最大のケンカになるみたいです。
母が亡くなった時、預金口座は有るはずなのに通帳やカードが無くなっていました。銀行に口座の存在の確認をする為に相談しに行ったら、うちも相続争いをしているのでは?とあれやこれやと聞かれたり、(心配して?)話をしたりしてくれましたよ。
幸い、うちは金持ちじゃないから争いにはならなかったんですけど。
よく聞きますね。相続で骨肉の争い。
遺産をめぐってそれまで仲がよかった兄弟がいがみあうとか。
うちも今ある財産といったらどんどん古くなっていく今のマンションだけなので、
庶民でよかったーと思います。
最近の我が家では、毎日のように“録画権争い”が起きています。
昔はチャンネル争いでしたが、今はHDD録画機の録画権で争っています。
ダブ録できるのですが、それでも足りないときは早い者勝ちです。
買うときはチャンネル争いをしなくて済むと思ったのですが…
HDD録画機の副作用というか…近代化された争いになってます。
私は実家暮らしなので、毎日母親と弟とケンカしています。
母親とのケンカの原因は私が部屋を片付けないから。
弟とのケンカは冷蔵庫に入れていたお菓子を食べた、食べない。
でモメています。
たまに1週間くらい口をきかないときもありますが(酷いときは1ヵ月)、どっちもなかなか謝らないので、そういうところで同じ血が通ってるんだなぁ…って思います。
両足の骨折で半年入院した時のことです。
毎日お見舞いに来る母に本当に助けられましたが、時には入院のストレスからぶつかることも…。
きついリハビリが嫌で、投げ出そうとしていた私に母は「一生歩けなくなったらどうするの!」といつも厳しくゲキを飛ばしくれました。
その時は言い返したりもしたけれど、あの時の母の叱咤激励から「もしかしたら一生車椅子かもしれません。」と言われていた私も
今では普通に歩くことが出来、日常生活も送れるようになりました。
今の私があるのは母のきびしいけれど愛のある叱りの言葉のおかげです。
一人が一等地を買い占めるのを阻止しようと、残りの人が手を組んだり、一番お金の少ない奴に「この土地を売ってやるからアイツにはその鉄道株を売るな!」と姑息な取引を持ちかけたり。阻止された方も「売らなかったらこの土地全面にマンション立てまくるぞ!一回でも止まったらお前なんて破産だぞ!」って脅したり。「なにをーー!」と本気のケンカに発展したり。あれって結構、「本性見たり」なゲームですよね。。。
余談ですが、初めて梅田に行った時に「あ、ここの事か!」と思ったのを憶えています。止まると罰金がものすごく高い土地の一つだったんだもん!
人生ゲームより醜さが出ます。とはいえ、談合したりしても周りには見え見えなので現実社会の醜い経済戦争よりかは遥かに陰険さが少ないですよね。
ところで、梅田って大阪ですよね?モノポリーのバリエーションの一つにはそんなのも有るんですねぇ!罰金食らうなんて、大阪の人たちが知ったら怒るんじゃないかなぁ・・・?
兄弟げんか、壊した壊さない!何度やったでしょう?でもそこは兄弟何時のまにやら仲直り
私はそうでは有りません、ある日殿様バッタを弟が取ってきて籠にいれて見ていました。私は気持ち悪くてバッタに殺虫剤を噴霧してしまいました、弟は涙を流していましたが、その時は何故か私に何も言いませんでした・・・余ほど悲しく、悔しかったのですね・・・ゴメンな弟よ!でも、何度も送金してあげたよな・・・お互い苦しい時。
でも、30年以上たった今は全く不仲ではありません。
毎週ジャンプとサンデーを読んでいるのですが、子供の頃は兄弟でどっちが先に読むかでケンカになっていました。親(親も読んでいました)が買ってきてくれていたので早く学校から帰ってきたほうが先に読めるのですが、帰りが同じになったときはもうジャンケンとか、どうしても続きがはやく読みたい物があるときは「これだけ読んだら他は後からでいいから」と無理を通したりしていました(^^;
それのお陰で、今はものすごく仲のいい家族になっているんだと思います。
プリンを公平に切らなかったとか、一口余計にお菓子を食べたとか、抜け駆けしてじいちゃんとかき氷を食べに行っちゃったとか、どっちが屁をこいたとか、今思い出すと笑っちゃうぐらい、どうしようもなく些細な事で取っ組み合いのケンカを数えきれない程やってました。
その時はもーう、男も女も、年上も年下も(それほど)関係なく、また、兄弟の一人は体が弱かったのですが、それでも「分け隔てなく」(っていうかそんなもんおかまいなしで)、力一杯ケンカ。
で、親はそんな私達を基本「ほったらかし」。でも、家のものを壊したり、言ってはいけない言葉を吐いたりした場合はぎたんぎたんに怒られました。その中で私達はケンカのコツや、どんな時でも言ってはいけない事、やってはいけない事がある、という事を学んでいったんだと思います。ついでに、ストレスをためない性格も。
そして、逆説的ですが思いやりも。
母親曰く、「動物と一緒よ」。でもそうやってほとんど毎日(いやヒドい時には毎分!)取っ組み合って来たせいでしょうか、私達兄弟は友達に珍しがられる程仲がいいです。
一番下の弟が中学に上がる頃に憑き物が落ちた様にぴたっとケンカをしなくなったのですが、今でも家族が揃うと笑いのタネになっています。「あんときのお前はヒドかった!」とか、「いくら興奮してるからって便座カバーで攻撃すんのはありえないだろ!」とか。
一番下の弟は病気のせいで体が不自由だったのですが、私達がそんな事おかまいなしでケンカしていたせいで(お陰で?)自分がハンディキャップを持っているとほとんど意識せずに成長した、と後になっていっていました。
兄弟の中でも一番勉強ができて、親の期待を背負っていた兄。高校も大学も親の期待通りの学校に合格。それに比べて、第一志望の高校に落ち、親からは何の期待もされていない私。
そんな私が高校3年の頃、両親は私には一切構わず、兄の進級のことで毎日悩んでいました(留年しそうだったので。)
私は、相談する相手もいなく「自分の進路は自分で決めろ!」という親の言いつけのもと、自分で学校を選び、親からは受験料だけを貰って受験。学校の名前すら親には言っていませんでした。
ある夕食時に、いつもの如く両親が兄の話題であーでもない、こーでもないと議論。その飛び火で、私に話題が振られた時「あ、もう受かったから」とさりげなく一言。
親はビックリ!!
聞いてない!辞めなさい!と、いきなり怒られました。
(この時に、学校のパンフレットを見せて説明したのを覚えています)
何もいわなかった私も多少なり悪いとは思ってはいましたが、兄のことで頭が一杯で、相談に載ってくれなかったこと。自分の進路だから自分で決めた等々、自分の思っていることを親に伝えました。
喧嘩というか、言い合いで収まりましたが、初めて母親を泣かせました…あははっ
しかし、この喧嘩があって私の気持ちを親にわかってもらえたし、兄とは全く別の進路に進んだので、比べられることも無くなりました。大学に入って多少なり、両親は私を一人間として評価してくれるようになったので、あの時言っておいてよかったぁ、と思います。
かれこれ10年近く前のお話でした。
私も、姉と比べて出来ない子でした。
姉にも私にも親は期待しておらず、勝手にしろといいますか、自由奔放に?育てられました。
なのに、私が勝手に姉にコンプレックスを持ち、ふてくされていたような気がします。
その上、変にプライドが高いのに、努力しない、最悪なタチでした(苦笑)
高校の進路決めの時も誰にも相談できなかったです。
それからも相談したりはできなかったな、話し合うことがなんとなく怖くて;
riceballさんのお話を読んでうらやましく思いました。
○婚式のお祝いや法事なんかで親戚が一同に集まります。話のネタは思い出話中心。時々出てくるのが「あの時のケンカはこうだった」という誤解を解きたい話です。片方がひどく傷ついていた、というのを告白すると、もう片方が「良かれと思ってしたことがケンカになって・・・」などと語り・・・最後は涙、涙、で抱き合う・・・周りも感動して・・・
前に書いたことがあるかもしれません。
私達は夫婦喧嘩をしょっちゅうします。まぁ原因は私のズボラな正確にあるのでしょうが・・・。
昨日もちょっとしたことでいい争いに・・。
ダンナは別件でいらいらしていて飛び火がきました。
ふたりして言い争いをしていると・・それまで小さくなって縮こまっていたワンコがタッタッタッタッ・・って歩いてきます。
ん?と二人で様子を見ていると、おもむろにダンナの膝の上にちょこんと乗るではありませんか!
そしてさも当然のようにどっかりと腰をおろしたのです。
「なんで俺の膝の上に乗るんだろう?」
「きっと『よしよし♪』っていってるんじゃない?」
あまりにも唐突な行動にびっくりしたけど、「いいかげんやめたら?」って感じにもとれます。
「そうかそうか?♪」
ダンナはワンコをなでなでして、言い争いは終わりw
わかってやったのかなぁ?
怒られていると、怒られたほうに必ずよってきてくれてなぐさめてくれるし・・。
うちのワンコはなくてはならない家族の一員です。
家族でけんかしているといつの間にか間に割ってはいって「まあまあ、ここは私に免じて」みたいな顔をします。
その顔見てるとなんか怒る気がなくなってくるんですよねー。
やつはタフ・ネゴシエイターだと思います(笑)